師弟確定
魔王と呼ばれた男は、世界の裂け目を縫い続けていた。
誰にも感謝されず、誰にも見えないものを抱えて。
少年は、その歪みが見えた。
だから――ついていくことにした。
魔王と呼ばれた老人は、ロイズの言葉をしばらく噛みしめるように黙っていた。
「……正しい、か」
掠れた声が風に溶ける。
「そう言われたのは……いつ以来だろうな」
老人はゆっくりと杖をつき、溝から身を離した。
ロイズもまた、無言でその後ろを歩く。
夜明けの光が、荒野を薄く染め始めていた。
裂け目は閉じている。
だが、地面には黒い縫い跡が残されていた。
それは、かつてそこに世界の傷があったことを示す痕跡だった。
見張り台の若者が、おそるおそる問いかける。
「ほ、本当に……もう災いは来ないのか?」
「来ていたものは、押し戻した」
老人が低く答える。
「だが、消えたわけではない」
その言葉の意味を理解できる者はいない。
ただ、危険なことを言っている。
そんな空気だけが広がり、人々は一斉に視線を逸らした。
「ロイズ! 戻れ!」
「そいつは魔王だぞ!」
「近づくな!」
村の奥から怒声が飛んでくる。
だが、ロイズは一歩も動かなかった。
遠巻きに二人を見ていた村人たちは、視線が合う前に慌てて扉を閉めていく。
「やっぱり……」
ロイズがぽつりと漏らした。
「みんな、爺さんを怖がってるんだな」
老人は首を横に振る。
「違う。恐れているのはわしではない。わしの背後にあるものだ」
老人は杖の先で、荒野の向こうを指し示した。
村の奥まで続く、細く長い黒い筋。地面に縫い付けられた、
不格好な縫合跡のように見える。
だが、ロイズの目には、それが単なる地面の傷には見えなかった。
見えるものと見えないものが絡まり合い、
世界そのものが縫い目から裂けている。
「……あれも、爺さんのせいだって言われてる」
「そうだろうな」
老人は静かに頷いた。
「だが、あれはわしが押さえている証だ」
ロイズは息を呑んだ。
「……この世界はな、裂けている」
老人は荒野を見つめたまま続ける。
「みなが見ている大地の傷より、ずっと深いところでな」
ロイズの喉が小さく鳴った。
「そこから……何かが来る?」
「来る」
老人は否定しなかった。
「だから縫う。完全には塞げぬが、せめて溢れ出るのを止める」
「それが、魔王の仕事?」
「……そう呼ぶなら、そうだ」
杖が地面に小さな音を立てた。
「人々が見ている裂け目は、
世界そのものに生じた傷を縫い合わせたときに残る、
ほんのわずかな痕跡に過ぎんよ」
老人の声は淡々としていた。脅しでも、誇張でもない。
地の底まで続いていそうな無数の裂け目。
その存在を思うと、地面に残された黒い縫い跡は、
世界にできた傷を覆うかさぶたのように見えた。
ロイズは、少しだけ村を振り返った。
そこには、自分の言葉を信じようとしなかった人々がいる。
三年間、見えないものを見ていると訴えても、誰も耳を貸してくれなかった。
けれど、目の前の老人は違う。
自分と同じものを見ている。
自分が感じていた恐怖も、この世界に起きている異変も、知っている。
「……じゃあ」
少年の声が、わずかに震えた。
「爺さんは、罵倒されながら……世界を守ってたのか」
「守っているつもりはない」
老人は即座に答えた。
「ただ、わしが倒れれば世界が崩れる。それだけの話だ」
杖の先が、地面を一度だけ叩いた。
ロイズは無意識に拳を握る。
「じゃあ……なんで俺には、見えたんだ?」
老人はすぐには答えなかった。
荒野の風が、二人の間を吹き抜ける。
「……お前は、裂け目を見た時、逃げなかった」
「それは――」
「怖くなかったわけではあるまい」
ロイズは少し黙った。
「……怖かった。でも、見えたから、目を逸らせなかった」
老人は小さく頷いた。
「お前の魂は、門の歪みに耐えられる形をしている。だから見える。
だが、それが何を意味するのかは、まだわしにも断言できん」
「俺にも、何かできるの?」
「わしの代わりに、鍵となれる器かもしれん」
「鍵……?」
ロイズは目を見開いた。
「裂け目は、必ずまた開く。
その時、お前が隣に立っていれば、わしはもう少し深く縫えるかもしれん」
老人はそこで言葉を切った。
少年を見つめる目に、ほんのわずかな迷いが浮かぶ。
「だが、楽な道ではない。わしのそばにいれば、お前も危険にさらされる」
「それでも……?」
老人は問い返すように、ロイズの顔を見た。
かつて、同じように自分の隣に立った者がいた。
その者を救えなかった記憶が、老人の胸をかすめる。
「どうする?」
ロイズは、すぐには答えなかった。
初めて、自分の見ているものを理解してくれる人間に出会った。
その人が一人で世界の傷を縫い続けているのなら、
もう見ているだけでは嫌だった。
「行く」
少年は顔を上げた。
「世界が裂けるなら、縫う方に立つ」
老人はしばらくロイズを見つめていた。
やがて、ゆっくりと歩き始める。
「ついて来い」
杖の音が荒野に響いた。
「お前に教えねばならぬことがある。
わしの残りの時間で、どこまで伝えられるか……」
その背中には、長い年月に染み付いた孤独があった。
ロイズは、その背中を追いながら小さく呟く。
「……でもさ」
「俺はやっぱり褒められたいよ。世界を救ってるんならさ!」
老人は振り返らなかった。
「爺さんは絶対正しいって!」
だが、その肩がわずかに震えた。
「……爺さんじゃない。ウィリアムだ」
それが笑みだったのか、あるいは涙だったのか。
ロイズには、まだわからなかった。
「行く」と決めたロイズと、名前を教えたウィリアム。
これがふたりの出発点です。




