第9話
診察台に横たえられた少女は、浅く速い呼吸を繰り返していた。
父親らしき男が、泥だらけの膝をついて俺にすがりつく。
「どうか、娘を助けてください……! 大聖堂の司祭様に高い金貨を払って診てもらったのに、家に帰った途端、急に苦しみだして……!」
男の悲痛な叫びが、狭い診察室に響き渡る。
俺は無言で少女の首筋に触れた。
赤黒く腫れ上がった患部には、不自然に歪んだ魔力の残滓がこびりついている。俺は指先から微弱な魔力を流し込み、脈打つたびに少女の首を締め付ける毒茨のような力の正体を掴んだ。
魔力の流れが完全に乱れ、少女自身の生命力を削り取って暴走している状態だ。
大聖堂のずさんな治療が引き起こした、最悪の医療ミスである。
小さくため息をつきながら、俺はかつて自分が筆頭治癒師として所属していた場所の惨状を思った。
あそこは今や、上層部の派閥争いに終始し、地位や金貨の数で命に優劣がつけられる腐敗した組織に成り下がっている。誰が他人を蹴落とすか、誰の機嫌を取るか。そんなことばかりに気を取られ、救いを求める者たちから目を逸らすような日々に、俺はすっかり嫌気がさしていた。
だからこそ、俺はあそこを自主退職した。
己の歩幅で、手の届く範囲の者を一人残らず救い上げるために、この裏通りに「一日の診察は五名限り」というルールの小さな拠点を構えたのだ。
その選択は間違っていなかったと、目の前の惨状がはっきりと証明している。俺が抜けた後の大聖堂は、もはやまともな治癒すら施せないほど機能不全に陥っているらしい。
「セリア、汗を拭いてやってくれ。それから、さっきの青い葉をすり潰して、ぬるま湯に溶かして準備を」
「はい、ただいま」
セリアは素早く動き、指示通りに準備を進める。高貴な身分でありながら、今や彼女の手際はすっかり板についていた。
俺は目を閉じ、意識を深く沈める。
指先から少女の脈動を読み取り、その奥底にある生命力の源へと魔力の糸を伸ばしていく。
乱れた魔力を中和するのではなく、少女自身の生命力を極限まで活性化させ、病魔ごと根治させる。
手のひらから淡い光が放たれ、少女の首筋を包み込む。
俺の魔力回路が微かに軋む音を立てるが、その痛みを奥歯を噛み締めて押さえ込む。
指先から伝わる抵抗感を押し流すように、慎重かつ大胆に魔力を編み上げていく。
「……っ」
少女が小さく身じろぎした。
赤黒く脈打っていた魔力痕が、まるで朝日に溶ける霜のように薄れていく。
青白かった頬に赤みが戻り、苦しげだった呼吸が、穏やかな寝息へと変わった。
「終わった。もう大丈夫だ」
俺が手を離すと、父親はわっと泣き崩れ、何度も何度も床に額をこすりつけて感謝の言葉を口にした。
「感謝いたします、本当に……なんとお礼を言えばいいか……!」
男は震える手で財布を取り出そうとしたが、俺はそれを手で制した。
「料金は規定通りだ。それ以上は受け取らない」
「ですが、大聖堂ではこの何十倍も……」
「ここは裏通りの治療院だ。大聖堂の真似事をするつもりはない」
俺が短く告げると、男は再び深く頭を下げ、少女を大切そうに抱きかかえて帰っていった。
診察室に静寂が戻る。
片付けをしていたセリアが、ふと手を止めて俺を見つめる。
彼女の瞳には、深い敬意と、どこか懐かしむような色が浮かんでいた。
「見事な手際でした。大聖堂の司祭たちが束になっても治せなかったものを、あんなにも簡単に……」
セリアが静かに呟く。
セリアは自身の胸元にそっと触れた。
重武装の騎士たちを引き連れ、深いフードで顔を隠して、その日の最後の枠に滑り込んできたあの日。
彼女の身体を蝕んでいた死の呪いを、俺があっさりと解呪してみせた時のことを。
大聖堂の権威ある者たちでさえ匙を投げた呪いを打ち払った、規格外の腕前。
そして今、大聖堂の失敗によって命を落としかけていた少女を、いともたやすく救い上げた。
彼女の中で、俺の技術に対する驚愕が、確かな信頼へと変わっていくのを、その眼差しが物語っていた。
「あの時は、あんたもかなり切羽詰まった顔をしてたからな」
俺が肩をすくめると、セリアは少しだけ頬を染めて微笑んだ。
「ええ。ですが、あなたに命を救われたあの日から、私の運命は変わりました。こうしてここで、あなたのお手伝いができることを、誇りに思います」
凛とした丁寧な口調の中に、彼女の真面目で義理堅い性格が滲み出ている。
俺は照れ隠しに頭を掻き、裏庭へ続く扉を開けた。
◆ーーーー◆
翌朝。
晴れ渡った裏通りの空には、薄雲がのんびりと流れていた。
俺は裏庭の薬草園で、朝露に濡れた葉を丁寧に摘み取っていた。青く発光する特殊な薬草。魔力回路の欠陥を補うための重要な作業だが、傍から見ればただの趣味にしか見えないだろう。
土の感触を確かめながら、痛んだ回路に少しずつ魔力を馴染ませていく。この静かな時間が、俺にとってはかけがえのないリハビリでもあった。
「先生! 昨日はまたすごい治療をしたんだってな!」
元気な声とともに、使い込まれた安物の革鎧を着たリックが裏木戸から顔を出した。
相変わらず騒々しい奴だ。
「声がでかいぞ、リック。近所迷惑だ」
俺が気怠げにたしなめると、リックはそばかすだらけの顔をほころばせ、ずかずかと庭に入ってきた。
「だってよ、裏通り中で先生の凄腕の噂がさらに広まってるぜ! 大聖堂で見放された子を、あっという間に治しちまったって、親父さんが泣きながら吹聴して回ってた! 酒場の連中も、やっぱり先生はすげえって大盛り上がりだったぞ!」
リックは自分のことのように胸を張る。
俺は思わず頭を抱えた。
「勘弁してくれ……目立ちたくないから、こんな裏通りにいるんだぞ」
「無理だって! これだけの腕があれば、隠れてたって見つかるに決まってる! 俺だって、先生は世界一の治癒師だって言いふらしてるしな!」
「お前が一番の原因じゃないか。頼むから、これ以上話を大きくしないでくれ」
俺がため息をつくと、勝手口から顔を出したセリアがクスリと笑った。
身分を隠し、動きやすい平民風の服を着た彼女は、今やすっかりこの治療院の受付嬢として馴染んでいる。
命を救われた恩返しとして始まった彼女の受付嬢生活。最初は箒の使い方も知らなかった世間知らずなお嬢様が、今では手際よくお茶を淹れ、患者の応対をこなしている。
少しずつ広がる神業の口コミと、それに振り回される俺の姿を見て、彼女は心底楽しそうに笑うのだ。
「アレン、お茶が入りましたよ。リックさんもいかがですか?」
「おっ、もらうもらう! セリアさんの淹れる茶は、なんか上品で美味いんだよな!」
リックが嬉しそうに手を挙げる。
セリアが用意してくれたのは、裏通りには似つかわしくない最高級のティーカップに注がれた、香り高い紅茶だった。不釣り合いな意匠のカップだが、今ではこの縁側の風景にすっかり溶け込んでいる。
三人で腰を下ろし、温かい湯気をすする。
湿った土の匂いと、微かに漂う薬草の香り。
権力闘争とは無縁の、ただ目の前の患者と向き合い、仲間たちと笑い合う日々。
この温かな場所が、俺にとっても心地よい居場所になっていることを、胸の奥で静かに噛み締めていた。
◆ーーーー◆
しかし、光が強くなれば、当然その影もまた濃くなる。
大聖堂の奥深く。
塵一つなく磨き上げられた大理石の床に、重苦しい足音が響いていた。
豪奢な執務室のデスクで、一人の高位司祭が報告書を握りつぶす。
「裏通りの……小さな治療院だと?」
彼の目の前には、大聖堂の治療を受けたはずの患者たちが、次々と別の場所で完治しているという報告の束が積まれていた。
しかも、その治療痕は、かつて大聖堂を去った『あの男』の技術に酷似しているという。
「一日の診察は五名限り……ふざけた真似を。我々の権威をコケにする気か」
司祭の顔が、怒りと焦燥で醜く歪む。
大聖堂の機能不全を隠蔽し、権力を維持するためには、異端の存在を許すわけにはいかない。
「すぐに調査隊を編成しろ。その治療院の主が何者であれ、大聖堂の威信を傷つける者は生かしておけん」
冷酷な命令が、薄暗い執務室に響き渡る。
裏通りの片隅で静かに広がる名声は、すでに彼らの耳に届き始めていた。
アレンの守ろうとする平穏な日々に、冷たい波乱の気配が、確実に忍び寄ろうとしていた。




