第8話
窓の外では、表通りへと続く道に冷たい風が吹き抜けていた。
冷たい風は分厚い木扉に遮られ、室内までは届かない。
ストーブの中で薪がパチパチと爆ぜ、薬草の香りに混じって、食欲をそそる肉と野菜の匂いが漂っていた。
今日は治療院の定休日だ。
「ほら、アレン。ぼーっとしてないで皿を出してちょうだい。冷めちまうよ」
厨房のほうから、マリーのチャキチャキとした声が飛んでくる。
彼女は両手で抱えるほどの大きな鍋をテーブルにドンと置いた。中では琥珀色のシチューがグツグツと煮え立っている。
「わかってるよ。今持っていく」
俺は戸棚から木皿を取り出し、テーブルへと運んだ。
「私がやります、アレン」
横からスッと手が伸びてきて、セリアが皿を受け取る。彼女は動きやすい平民風の服を着ているが、その所作にはどうしても品の良さが滲み出ていた。
「おっと、そっちは熱いから気をつけてくれよ、セリアさん」
薪を抱えて裏口から入ってきたリックが、鼻をヒクヒクさせながら言う。
「いい匂いだな。俺、朝から何も食ってないんだ」
「あんたはいつも腹を空かせてるねえ。手ぇ洗ってきな」
マリーが笑いながらお玉でシチューを掬い、次々と皿に盛っていく。
四人でテーブルを囲み、ささやかな昼食会が始まった。
裏通りの住人たちとの、他愛のないやり取り。
大聖堂にいた頃には、考えられなかった光景だ。
「それにしても、先生の腕なら表通りの貴族どもからもっと金を巻き上げられるのになあ」
リックがシチューを頬張りながら、ふとそんなことを口にした。
「一日の枠は五つにしてるなんてもったいないぜ。俺が宣伝してやれば、もっと客を呼べるのに」
「よせ。俺の身が持たない」
俺は苦笑しながら、木のスプーンを動かした。
かつて俺が所属していた場所――大聖堂の中心部では、毎日が戦場だった。
終わりのない派閥争い。高位の神官たちは権力闘争に明け暮れ、治療を必要とする者たちは身分や献金の額で選別されていく。
俺は筆頭治癒師として、際限なく押し寄せる重圧の中で、ただ目の前の命を繋ぎ止めるためだけに魔力を振り絞っていた。
その結果、魔力回路に致命的な負担をかけ、高出力の治癒魔法を安全に放てる回数が限られてしまったのだ。
誰が誰を蹴落とし、誰の顔色を窺うか。そんなことばかりに気を取られる日々に嫌気がさし、俺はあの場所を捨てた。
己のリズムで、目の前の患者だけを確実に救う。
そのために選んだのが、この裏通りでの小さな治療院だった。
「私は、アレンのその方針を尊敬しています」
セリアが静かに口を開いた。
「身分や事情を問わず、目の前の苦しむ者を救う。それは、誰にでもできることではありません」
彼女の言葉には、確かな熱がこもっていた。
「あたしもそう思うよ。あんたみたいなお人好しがいてくれるおかげで、この辺りの連中も助かってるんだからね」
マリーが満足げに頷き、俺の皿にシチューのおかわりをよそった。
「まあ、たまにはちゃんと休んで、しっかり食べな。倒れられちゃ困るからね」
「恩に着るよ、マリー」
俺は温かいシチューを口に運びながら、少しだけ目を細めた。
◆ーーーー◆
食後、マリーとリックが帰り、治療院には再び静寂が戻った。
セリアは手際よく食器を片付け、布巾でテーブルを拭いている。
最初は庶民の家事に戸惑っていた彼女も、今ではすっかり受付嬢としての仕事が板についていた。
「手伝おうか」
俺が声をかけると、セリアは首を横に振った。
「いえ、これは私の仕事ですから。あなたは休んでいてください」
彼女は布巾を洗い、丁寧に絞ってから干す。
その横顔を見ながら、俺はふと、彼女が初めてこの場所にやってきた日のことを思い出した。
あれは、開業して間もない頃の夕暮れ時だった。
重武装の騎士たちを引き連れ、深いフードで顔を隠した彼女が、その日の五人目の枠に滑り込んできた。
彼女の体を蝕んでいたのは、極めて厄介な死の呪いだった。
大聖堂の治癒師たちでも匙を投げるような代物。だが、俺は魔力回路の痛みを押し殺し、彼女の生命力を活性化させて呪いごと根治させた。
「……あの時」
不意に、セリアがぽつりと呟いた。
「あなたが私を治してくれなければ、私は今、ここにいませんでした」
彼女は振り返り、真っ直ぐに俺の目を見た。
「身分を隠し、追われるようにして辿り着いたこの場所で、あなたは私を救ってくれた。その神業に、どれほど驚き、感謝したか……言葉では言い表せません」
「俺がしたいのは、目の前の患者を治すことだけだ。あんたが誰であろうと、関係ない」
俺は肩をすくめて答えた。
「でも、私にとっては大きな意味がありました」
セリアは微笑み、窓の外の夕暮れを見つめた。
「ここで受付嬢として働き始めてから、毎日が新鮮です。マリーさんやリック、そしてあなたと共に過ごすこの時間が……私にとって、かけがえのない居場所になりつつあります」
彼女の言葉は、嘘偽りのない本心だった。
高貴な身分ゆえのしがらみから離れ、彼女もまた、この裏通りで穏やかな日々を見出している。
俺も同じだった。
大聖堂での権力闘争に疲れ果てていた心は、この温かい日常と仲間たちによって、確実に癒されている。
傷ついた魔力回路に、ほんの少しだけ回復の兆しが見え始めているのも、気のせいではないだろう。
この穏やかな日々を、ずっと守り抜きたい。
過去の因縁がどれほど追いすがってこようとも、俺は俺のやり方で、この場所を守る。
そう決意を新たにした時だった。
ドン、ドン、ドン!
突然、表の扉が激しく叩かれた。
俺とセリアは顔を見合わせる。
「……こんな時間に、誰だ?」
今日は定休日だ。看板も出していない。
だが、扉を叩く音は切羽詰まっており、ただ事ではない気配が漂っていた。
「先生! アレン先生、いるか!」
くぐもった男の声が響く。その声には、深い絶望と焦燥が入り混じっていた。
俺は立ち上がり、扉へと向かう。
セリアも緊張した面持ちで、俺の背後についてきた。
かんぬきを外し、重い木扉を開ける。
夕暮れの冷たい風とともに、血と泥の匂いが流れ込んできた。
そこに立っていたのは、見知らぬ大男だった。
ボロボロの外套を羽織り、その腕には、ぐったりとした小さな人影が抱えられている。
「頼む……大聖堂では、見放されたんだ……!」
男は膝から崩れ落ちそうになりながら、必死に俺にすがりついてきた。
抱えられた人影――幼い少女の顔色は青白く、その首筋には、不自然に歪んだ魔力痕が赤黒く脈打っていた。
ただの怪我や病気ではない。
大聖堂の粗悪な治癒魔法が引き起こした、最悪の暴走状態。
俺は少女の首筋に触れ、その状態を瞬時に把握した。
「……中へ入れ。ベッドに寝かせるんだ」
俺の低い声に、男は弾かれたように頷き、診察室へと転がり込んだ。
「セリア、お湯と清潔な布を。それから、裏庭の薬草園から青い葉の草を三枚摘んできてくれ」
「はい、すぐに!」
セリアが駆け出していく。
新たなワケあり患者。
しかも、大聖堂の影が色濃く落ちる、厄介な症状。
俺の平穏な日々に、再び波乱の兆しが訪れようとしていた。
だが、迷いはない。
目の前で苦しむ者がいるなら、治す。
俺は静かに息を吸い込み、少女の胸に手を当てた。
次に俺の元を訪れたこの患者が、どんな過去と因縁を抱えているのか。
それはまだ、誰にもわからない。
ただ一つ確かなのは、俺の戦いが、ここからまた始まるということだけだった。
窓の外では、夕闇が裏通りを深く包み込もうとしていた。




