第7話
朝の冷たい空気が残る裏庭で、俺は湿った土の上にしゃがみ込んでいた。
手元にあるのは、青みを帯びた奇妙な葉を持つ薬草だ。根を傷つけないよう慎重に土へ移し、指先から微かな魔力を流し込む。
葉脈が淡く発光し、土の養分を吸い上げて根を張る感覚が伝わってきた。魔力回路の奥で小さな痛みが走るが、息を吐いてそれを散らす。この程度の出力なら、一日の制限には影響しない。
「相変わらず、妙な草ばかり育ててやがるな」
背後から降ってきたしわがれ声に振り返ると、片眼鏡をかけたトビーが立っていた。鼻をひくつかせながら、抱えた木箱を地面に置く。いつものように、服には強い薬草の匂いが染み付いている。
「あんたが質のいい変わり種を回してくれるおかげだよ、トビー」
「ふん。わしは商売でやってるだけだ。今回のもきっちりぼったくらせてもらうからな」
口ではそう言いながらも、箱の中には丁寧に処理された良質な素材がぎっしりと詰まっていた。相場よりもずっと良心的な価格であることは、わざわざ口に出さないのが俺たちの暗黙の了解だ。
俺は立ち上がり、膝の泥を払う。
大聖堂の温室にいた頃は、こんなふうに土いじりをする余裕などなかった。終わりのない権力闘争と、際限なく押し寄せる重圧。上層部の顔色を窺いながら、身分や献金の額で患者を選別する日々に、俺はすっかり嫌気がさしていた。
だからこそ、すべてを捨ててこの裏通りにやってきたのだ。誰の指図も受けず、自分のペースで目の前の患者だけを確実に救うために。
一日に診る患者は五人だけという制限は、俺が俺であるための絶対の条件だった。
「……なあ、お前さん」
トビーが声を潜め、周囲を気にするように視線を巡らせた。
「大聖堂の連中が血眼になって凄腕の治癒師を探してるって噂、もう耳にしてるか? どうやらビショップの息がかかった奴らが、最近この裏通りで怪我を治した連中の身元を洗い出し始めたらしい。嗅ぎ回る範囲が、日に日にこの治療院に近づいてきてるぞ」
「へえ。暇な連中もいたもんだな」
「他人事みたいに言ってられるのも今のうちだぞ。お前さんのその腕、いつまでも隠し通せるもんじゃない。用心するに越したことはないからな」
トビーは銀貨を数えもせずに懐へねじ込み、足早に裏庭を出て行った。
残された俺は、青く光る薬草を見下ろす。
俺の魔力回路の欠陥を補うための、ささやかな実験。これが実を結ぶまでは、何としてもこの穏やかな生活を守り抜かなければならない。
裏庭から診察室に戻ると、セリアがカウンターの奥で湯を沸かしていた。
彼女が用意してくれたお茶は、裏通りには似つかわしくない最高級のティーカップに注がれている。繊細な金糸の意匠が施されたそれは、彼女の本来の身分を静かに物語っていた。
「先生、お疲れ様です。薬草の手入れは終わりましたか?」
「ああ。いい苗が手に入ったよ。いつも悪いな」
温かいカップを受け取り、一口飲む。上品な香りが鼻を抜け、心地よい安堵感が広がった。
その時、治療院の古い扉が重々しい音を立てて開いた。
入ってきたのは、傷だらけの重装鎧を身に纏う屈強な男だった。鋭い眼光を放つ騎士、レオンだ。
「失礼する」
レオンは兜を小脇に抱え、まっすぐにセリアの前へ進み出た。そして、深く頭を下げる。
「ご無事で何よりです。不便な生活を強いていること、心苦しい限りですが……」
「顔を上げてください、レオン。私はここで、とても充実した日々を送っていますから。掃除の仕方も、少しずつ上達してきたんですよ」
セリアが微笑みかけると、レオンはホッと息を撫で下ろした。
それから、彼は向き直って俺の前に歩み寄ってきた。実直な武人らしい、隙のない足取りだ。
「アレン殿。あの日、夕暮れ時に最後の患者として駆け込んだ我々を、貴殿は救ってくださった」
レオンの声には、深い敬意が込められていた。
「死の呪いに蝕まれ、大聖堂にすら見放された命。それをあっさりと解呪してみせた貴殿の規格外の腕前……このレオン、生涯忘れることはありません」
「大げさだな。俺はただ、目の前にいた患者を治しただけだ」
「貴殿にとってはそうかもしれん。だが、我々にとっては希望そのものだった」
レオンは真剣な眼差しで俺を見据えた。
「大聖堂の動きが不穏だという噂は、私の耳にも届いている。もし貴殿の平穏を脅かす者が現れたなら、いざという時はこの剣に懸けてお守りいたします。どうか、遠慮なく頼っていただきたい」
「……その時は、ありがたく頼ませてもらうよ」
俺が軽く手を挙げると、レオンは満足げに頷き、再び重々しい足音を立てて帰っていった。
彼のような実直な男が味方にいてくれるのは、素直に心強い。少しずつだが、この裏通りに確かな絆が根付き始めているのを感じる。
やがて診療時間が始まり、セリアが受付嬢として患者を案内し始めた。
彼女の丁寧で温かみのある対応は、すっかり裏通りの住人たちにも受け入れられている。命を救われた恩返しとして身分を隠し、ここで働き始めた彼女のおかげで、俺の穏やかな日常は確かな形になりつつあった。
だが、その神業とも呼べる治癒魔法の噂は、口コミで少しずつ、しかし確実に広がり始めている。
今日の三人目の患者は、大聖堂の治療費が払えずに追い出されたという初老の男だった。
男の腕には、不自然に歪んだ魔力痕が残されていた。ただ傷を塞ぐだけの粗悪な対症療法が引き起こした、魔力の暴走の痕跡。最近、この手の症状を抱えて駆け込んでくる患者が明らかに増えている。
「痛かっただろう。もう大丈夫だ」
俺は男の腕に手を当て、深く意識を沈める。
対象の生命力を感知し、そこに直接干渉する。表面の傷を塞ぐのではなく、男自身の生命力を極限まで活性化させ、歪な魔力痕ごと根治させる。
淡い光が収まると、男の腕は元の健康な状態に戻っていた。
「あ、ああ……痛みが、嘘のように消えた……! ありがとうございます、先生!」
男は涙を流して感謝の言葉を繰り返し、セリアに見送られて帰っていった。
診察室に静寂が戻る。
大聖堂の治癒師たちの質は落ち、腐敗は進んでいる。そして、ビショップは優秀な治癒師を血眼になって探している。
外堀は、確実に埋まりつつあった。
一日の上限を頑なに守り、目立たないように振る舞っていても、広がる名声を完全に止めることはできない。
俺はこのまま、過去のしがらみから逃れ、隠れ通すことができるのだろうか。
窓の外では、表通りへと続く道に冷たい風が吹き抜けていた。




