第6話
訳ありの王女を臨時の受付嬢として迎え入れてからというもの、この小さな治療院の日常は少しずつ賑やかさを増し始めていた。
翌日の昼下がり。本日の上限である五人の枠を早々に終えた俺は、裏庭にしゃがみ込んでいた。
土の湿り気を指先で確かめながら、青く発光する薬草の葉についた虫を丁寧に取り除く。月光草と呼ばれるこの植物は、魔力の流れを安定させる効能がある。一見すればただの趣味に見えるだろうが、この薬草園の手入れは俺にとって欠かせない日課だった。
自身の破損した魔力回路。その修復の糸口を探るため、俺は密かにこの特殊な植物を育て、調合の実験を繰り返している。大聖堂にいた頃には、こんな風に土いじりをする時間など一秒たりとも存在しなかった。終わりのない激務の中で、ただひたすらに命を削り続けていただけだ。
「先生! いるか!」
表の方から、勢いよく扉が開く音がした。蝶番が微かに悲鳴を上げ、ドタバタとした足音が診察室に響く。
土を払いながら前へ戻ると、そこには見覚えのある少年が立っていた。
「リックか。ずいぶんと血色が良くなったな」
「おう! すっかり元気だぜ。あんたの魔法、マジですげえな!」
使い込まれた安物の革鎧を着たリックは、満面の笑みで胸を叩いた。つい先日まで魔物の毒で死にかけていたとは思えないほどの回復ぶりだ。
彼は俺への圧倒的な感謝を口にしながら、手にした麻袋を机にドンと置いた。
「これ、親父からの差し入れだ。新鮮な果物がいっぱい入ってるぜ! あんたには命を救ってもらったんだ、これくらい受け取ってくれよ」
「悪いな。ありがたく頂こう」
「ふふ、わざわざありがとうございます」
奥から姿を現したセリアが、凛とした微笑みを浮かべて頭を下げる。彼女の淹れた紅茶の香りが、部屋の中にふわりと広がった。
リックは、裏通りには似つかわしくない最高級のティーカップと、セリアの隠しきれない品格に少しドギマギした様子で頭を掻いた。
「い、いや、いいんだ。俺、あんたの腕前をあちこちの冒険者仲間に吹聴しといたからな! どんな怪我でも一瞬で治しちまう、世界一の治癒師がここにいるってよ」
「……おかげで、最近は妙にワケありの患者が増えた気がするんだが」
俺がため息をつくと、リックは悪びれずに笑った。
命を救われたお忍びの王女であるセリアが、恩返しとして身分を隠し、この治療院の受付嬢として働き始めている。彼女の真面目な働きぶりと、リックのような患者たちの口コミのおかげで、俺の静かなスローライフは少しずつ確かな形になり始めていた。
身分を問わず、先着順で丁寧に治療を行う。そんな当たり前のことが、この裏通りでは奇跡のように受け止められているらしい。
◆ーーーー◆
「そういや、今日町で妙な噂を聞いたぜ」
出された紅茶を一気に飲み干し、リックがふと真面目な顔つきになった。普段の生意気な態度とは違う、どこか警戒を含んだ声色だ。
「表通りの大聖堂の連中、最近治癒師の質がガタ落ちしてるらしい。なんでも、偉い司祭様が優秀な治癒師を血眼になって探してるって話だ」
「……へえ」
俺は興味なさそうに相槌を打ち、視線を窓の外へ向けた。
俺が筆頭治癒師の座を捨ててから、大聖堂の連中がどう動くかは予想がついていた。権力闘争ばかりにうつつを抜かし、現場の負担を見て見ぬふりをしてきたツケが回ってきたのだろう。
血眼になって探している「優秀な治癒師」というのが俺のことなのか、それとも単なる身代わりなのかは分からない。だが、誰の指図も受けないこの小さな治療院での生活を手放すつもりは毛頭なかった。
「表通りの連中、高い金ばっかり取って全然治せねえんだとよ。この前も、知り合いの冒険者が無理して大聖堂で治療を受けたのに、傷口に歪な魔力の痕が残ってて、ずっと痛んでるらしい」
リックの言葉に、俺は微かに眉をひそめた。
治癒魔法の制御が甘いと、対象の生命力と反発して不自然な魔力痕が残ることがある。俺が抜けたことで、大聖堂の治療レベルはそこまで落ち込んでいるのか。
「まあ、あんたみたいな凄腕がこんな裏通りにいるなんて、連中には想像もつかないだろうけどよ! じゃあ、俺は依頼があるから行くぜ。また来るからな!」
リックはひとしきり喋ると、嵐のように去っていった。
静けさが戻った診察室で、俺は冷めかけた紅茶を口に運んだ。
大聖堂の機能不全。それは、俺が離脱したことによる当然の結果だった。だが、今の俺には関係のないことだ。
「……あなたほどの腕を持つ方が、なぜ大聖堂を離れたのですか?」
不意に、セリアが静かな声で問いかけてきた。
彼女は空になったティーカップを両手で包み込むように持ち、まっすぐに俺を見つめている。その瞳には、単なる好奇心ではない、確かな気遣いの色が浮かんでいた。
「ただの気まぐれさ。あそこの堅苦しい空気が肌に合わなかっただけだ」
適当にはぐらかそうとしたが、セリアは納得していないようだった。
「あの夕暮れ時、フードで顔を隠し、重武装の騎士を引き連れていた私を……あなたは少しも恐れることなく、一日の最後の枠として受け入れてくれました」
セリアの言葉に、俺は小さく息を吐く。
彼女が抱えていた厄介な死の呪い。それを俺があっさりと解呪した日のことを、彼女は今でも鮮明に覚えているのだろう。
「大聖堂の治癒師であれば、私の身分を詮索し、権力闘争の道具にしようとしたはずです。ですが、あなたは違った。私を蝕んでいたあの呪いを、あなたは規格外の力で根治してしまった。あれほどの技術が大聖堂にないというのは、どう考えても不自然です」
「俺はただ、目の前の患者を治すだけだ。身分も事情も関係ない。それ以上でも以下でもないさ」
俺が淡々と答えると、セリアは少しだけ目を伏せ、やがて柔らかく微笑んだ。
「……そうですね。私は、あなたのそのお考えを深く尊敬しています」
彼女はそれ以上詮索することなく、静かにカップを片付け始めた。
その背中を見つめながら、俺は自身の胸の奥にある魔力回路の欠陥を意識する。
一日に五回。それが、俺が安全に高出力の治癒魔法を放てる限界だ。この秘密を抱えながら、俺はこれからも自分のペースを守り抜かなければならない。
◆ーーーー◆
「さて、せっかくの差し入れだ。悪くなる前に頂こうか」
俺が麻袋から赤く熟した果物を取り出すと、セリアが不思議そうな顔でそれを見つめた。
「それは……どのようにして食べるのですか?」
「皮を剥くに決まってるだろ。まさか、丸かじりするつもりか?」
「い、いえ! ただ、お城……ではなく、私の実家では、常に専属の者が剥いて綺麗に切り分けた状態で出てきたものですから」
慌てて言い繕うセリアに、俺は思わず苦笑した。高貴な身分ゆえの世間知らずな一面は、相変わらずのようだ。裏通りの常識にはまだ疎いが、それでも彼女は一生懸命にこの生活に馴染もうとしている。
俺は小刀を手に取り、手早く果物の皮を剥いていく。切り分けた果肉を皿に並べて差し出すと、セリアは少し緊張した面持ちでそれを口に運んだ。
「……美味しいです。とても甘くて、瑞々しいですね」
「ああ。悪くない」
甘酸っぱい果汁が口の中に広がり、心地よい疲労感が体を包み込んだ。
少しずつ深まる絆と、裏通りに根付き始めた小さな居場所。この前進の手応えは、確かに俺の心を温めていた。
だが、リックの言葉が胸の奥に小さな波紋を残している。
優秀な治癒師を血眼になって探す大聖堂。そして、患者の体に残る歪な魔力痕。
過去のしがらみは、確実に俺の足元へと忍び寄ってきている。
連中がこの居場所にどう干渉してくるのか。その時、俺はこの穏やかな日常を守り抜くことができるのだろうか。
窓から差し込む夕日が、静かに診察室の床を赤く染めていった。




