第5話
翌朝。裏通りの空はまだ薄暗く、冷たい空気が路地に淀んでいた。
俺は裏庭での作業を切り上げ、治療院の入り口に続く土間へ向かった。そこではすでに、不器用な物音が響いている。
「……こう、でしょうか。いや、これでは埃が舞い上がるばかりですね」
真剣な呟きとともに、セリアが箒を振り回していた。
彼女は動きやすい平民風の服に身を包んでいるが、その所作には隠しきれない品がある。ただ、掃除という行為そのものに絶望的なほど慣れていない。箒の先が床を叩くたび、集めたはずの土埃が元気に宙を舞っていた。
「お前、それは敵を薙ぎ払う動きだ。床を掃く時はもっと力を抜け」
俺が呆れ混じりに声をかけると、セリアはびくっと肩を揺らし、慌てて姿勢を正した。
「申し訳ありません。城……いえ、以前の住まいでは、このような道具を使ったことがなく」
「だろうな」
恩返しとして受付嬢になると宣言した彼女だが、庶民の常識には驚くほど疎い。それでも、彼女の眼差しは真剣そのものだった。
「おやまあ、お嬢ちゃん。そんなへっぴり腰じゃ、いつまで経っても綺麗にならないよ」
入り口の扉が開き、ふくよかな影が飛び込んできた。食堂の女将、マリーだ。彼女は手にした籠を近くの机に置くと、ずかずかと上がり込んでセリアの手から箒を奪い取った。
「いいかい、箒ってのはこうやって使うんだ。手首のスナップを利かせて、埃を隅に追い詰めるようにね」
マリーが手本を見せると、床の埃が魔法のように一箇所へまとまっていく。セリアは目を丸くし、感嘆の声を漏らした。
「素晴らしい技術です。まるで熟練の剣士のような無駄のない動き……」
「大袈裟だねえ。裏通りの女なら誰でもできることさ」
マリーは豪快に笑い、セリアの背中をバンバンと叩いた。セリアは少しむせながらも、真剣な顔で箒を受け取り、見よう見まねで掃除を再開する。
放っておけない不器用な息子を見るような目で俺を世話焼きに来るマリーだが、どうやらその対象が一人増えたらしい。
◆ーーーー◆
昼下がり。治療院には次々とワケありの患者が訪れていた。
一日の上限である五人の枠。その最後の患者を見送り、俺は小さく息を吐いた。
「本日の診療はこれで終了ですね。お疲れ様でした、あなた」
セリアが受付の帳簿を閉じ、労いの言葉をかけてくる。彼女は今日一日、俺が身分を問わず先着順で患者を診る姿を、じっと見つめていた。
「ああ。今日もなんとか終わったな」
首の後ろを揉みほぐしながら、俺は椅子に深く腰掛ける。
酷使した魔力回路が微かに軋み、指先に鈍い痺れが残っていた。一日に五回。それが俺の限界だ。
セリアは俺の疲労を察したのか、奥の給湯室へ向かい、やがて盆を手に戻ってきた。
盆の上には、裏通りの埃っぽい空気には到底似つかわしくない、最高級の意匠が施されたティーカップが乗っている。彼女が持ち込んだものだ。
「少し休んでください。お茶を淹れましたから」
「悪いな」
差し出されたカップを受け取ると、芳醇な茶葉の香りが鼻をくすぐった。
セリアは自分の分のカップを両手で包み込むように持ち、俺の向かいに座る。
「……今日、あなたが町の方々を治療する姿を見て、改めて思いました」
彼女は湯気越しに俺を見つめ、静かに口を開いた。
「あの日、夕暮れ時に私がここを訪れた時のことを」
セリアの言葉に、俺は紅茶を啜る手を止めた。
重武装の騎士を引き連れ、深いフードで顔を隠した彼女が、五人目の患者として現れた日のことだ。
「私の体を蝕んでいた死の呪い。大聖堂の高位神官でさえ匙を投げたそれを、あなたはあっさりと解呪してのけました」
彼女の瞳に、深い敬意の色が浮かぶ。
「その規格外の腕前を、あなたは身分や財力で出し惜しみすることなく、目の前の苦しむ者のために使っている。本当に、素晴らしいことだと思います」
「よせ。俺はただ、自分の手の届く範囲でやりたいようにやってるだけだ」
照れ隠しに視線を逸らし、俺は再び紅茶に口をつけた。
大聖堂の連中が見たら、特級の技術をこんな裏通りで安売りしていると喚き散らすだろう。だが、俺にとって患者の身分などどうでもいい。目の前で苦しんでいる者がいるなら、治す。ただそれだけのことだ。
「それでも、私はあなたに救われました。だからこそ、この場所の助けになりたいのです。あなたの治療の邪魔は、絶対にさせません」
セリアの凛とした声には、揺るぎない決意が込められていた。受けた恩は必ず返す。それが彼女の譲れない価値観なのだろう。
「……まあ、掃除の腕はもう少し上げてもらわないと困るがな」
俺が意地悪く言うと、セリアは頬を染めて俯いた。
「善処します……マリー殿に、もっと教えを乞うつもりです」
その真面目すぎる反応に、俺は思わず吹き出しそうになった。
夕暮れ時。
マリーが再び治療院を訪れ、今度は夕食の入った鍋を置いていった。
「あんたたち、ちゃんと食べてるのかい? ほら、今日は特製の煮込みだよ」
「助かる。ちょうど腹が減ってたところだ」
「あたしがいなきゃ、あんたはすぐ干からびちまうからね。お嬢ちゃんも、遠慮せずにしっかりお食べ」
「ありがとうございます、マリー殿。この恩は必ず……」
「だから大袈裟だっての」
三人で小さな食卓を囲み、温かい煮込み料理を口に運ぶ。
マリーの賑やかなお節介と、それに真面目に答えるセリアのやり取りを聞きながら、俺はふと、大聖堂にいた頃のことを思い出した。
あそこには、終わりのない派閥争いと、際限なく押し寄せる重圧しかなかった。
誰が誰を蹴落とし、誰の顔色を窺うか。高位の神官たちは権力闘争に明け暮れ、治療を必要とする者たちは身分や献金の額で選別されていく。
そんな日々に嫌気がさし、俺はすべてを捨ててこの裏通りにやってきた。
自分のペースで、目の前の患者だけを確実に救う。
誰の指図も受けない、この小さな治療院。
温かいスープが胃の腑に落ちていくのを感じながら、俺は今の生活に確かな心地よさを覚えていた。
権力闘争も、理不尽な重圧もない。ただ、目の前の命と向き合い、こうして温かい飯を食う。
俺が求めていたのは、こういう静かな日常だったのだ。
「あなた? どうかしましたか?」
セリアが不思議そうに首を傾げる。
「いや。なんでもない」
俺は曖昧に笑い、再び匙を動かした。
お忍びの王女が受付嬢として働き始め、少しずつ裏通りの空気に馴染んでいく。
彼女の淹れる紅茶と、マリーの差し入れ。そして、毎日訪れる五人の患者たち。
俺の静かなスローライフは、確かに形になり始めていた。
だが、心の奥底には常に冷たい不安が横たわっている。
酷使した魔力回路の限界。そして、大聖堂が残す歪な魔力痕の存在。
過去のしがらみは、そう簡単に俺を逃がしてはくれないだろう。
食後の片付けを不器用ながらも手伝うセリアの背中を眺めながら、俺は静かに息を吐いた。
少しずつ深まる絆と、小さな前進の手応え。
この穏やかな日常は、果たしていつまで続くのだろうか。
窓の外では、裏通りの夜が静かに更けていった。




