第4話
芳醇な香りの奥に、微かな苦味が混ざっているような気がした。
彼女の正体と、大聖堂の暗部。
俺が捨てたはずの過去の影が、すぐそこまで迫っている。
そんな不穏な予感が、静かな治療院の空気に、じわりと染み出していた。
◆ーーーー◆
翌朝。
王都の空は、表通りも裏通りも同じように青い。だが、足元に広がる景色はまるで違う。
湿った土の匂い、煮炊きする煙、そして日々の生活に追われる人々の汗の匂いが混ざり合うこの裏通りは、大聖堂の重苦しい空気とは無縁の場所だ。
俺は治療院の古い木扉を開け放ち、朝の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
終わりのない権力闘争と過労に嫌気がさした筆頭治癒師のアレンは、大聖堂を自主退職する。――そんな風に、まるで他人事のように自分の過去を振り返ってみる。
あそこには、際限なく押し寄せる重圧しかなかった。誰が誰を蹴落とし、誰の顔色を窺うか。高位の神官たちは権力闘争に明け暮れ、治療を必要とする者たちは身分や献金の額で選別されていく。
そんなことばかりに気を取られ、目の前で苦しむ者から目を逸らすような日々に、すっかり嫌気がさしていたのだ。
これからは違う。自分のペースで、目の前の患者だけを確実に救う。そのために、この裏通りに「診察は一日五人まで」の小さな治療院を開いた。
誰の指図も受けない、静かな日常。
それを守り抜くことだけが、今の俺の望みだった。
「おはようございます、アレン」
背後から、凛とした声がかけられる。
振り返ると、平民風の簡素な服に身を包んだセリアが、箒を手に立っていた。
「ああ。朝から精が出るな」
「受付嬢として雇っていただいたのですから、これくらいは当然です」
彼女は真面目な顔で頷き、不慣れな手つきで床を掃き始める。
数日前の夕暮れ時。重武装の騎士を引き連れたフードの女が、その日の五人目の患者として訪れた。俺は彼女を蝕む死の呪いをあっさりと解呪し、結果として規格外の腕前を見せつけることになった。
命を救われたお忍びの王女であるセリアは、恩返しとして身分を隠し、この治療院の受付嬢となった。
彼女が淹れてくれる紅茶の香りと共に、俺の静かなスローライフが始まった。そして、その神業は少しずつ裏通りで口コミとして広がり始めている。
◆ーーーー◆
「おうアレン、頼まれてた『月光草』の乾燥葉、きっちり三束持ってきたぞ」
昼前、大きな麻袋を抱えた老薬師のトビーがやってきた。
「悪いな、トビー。いつも助かるよ」
「ふん、金さえ払えばどこへでも届けてやるさ」
ぶっきらぼうに言いながら、トビーは袋をカウンターに置く。その時、奥からお茶を運んできたセリアと目が合い、彼は片眼鏡の奥の目を丸くした。
「なんだ、お前さん。いつの間にこんな上玉を雇ったんだ?」
「色々あってな。うちの新しい受付嬢だ」
「セリアと申します。以後、お見知りおきを」
セリアが優雅に一礼する。その洗練された所作に、トビーは一瞬たじろいだ。
「お、おう……。なんだか裏通りには似合わねえ気品だが、まあいい」
トビーは咳払いをして、俺に向き直る。
「お前さんの腕の噂、最近よく耳にするぜ。どんな怪我でもたちどころに治しちまうってな。わしの薬草がなくてもやっていけるんじゃないか?」
「そんなことないさ。あんたの卸す素材は一級品だ。これがないと始まらない」
「へっ、口の減らない若造だ」
悪態をつきながらも、トビーの顔にはどこか嬉しそうな色が浮かんでいた。彼は金にがめついふりをしているが、常に適正価格で良質な素材を回してくれる。
代金を支払い、トビーを見送る。
セリアが不思議そうに首を傾げた。
「あの方は、いつもあのような口調なのですか?」
「ああ。口は悪いが、腕は確かで面倒見がいい。この辺りじゃ頼りになる爺さんさ」
世間知らずな彼女には、裏通りの荒っぽいコミュニケーションが新鮮に映るらしい。
◆ーーーー◆
午後になり、その日の四人目の患者が帰った後のことだった。
「先生……頼む、診てくれ……」
入り口の扉にすがりつくようにして、一人の男が転がり込んできた。
使い込まれた革鎧を着た、中年の下級冒険者だ。顔面は蒼白で、脂汗を滝のように流している。
「どうした。ベッドへ運ぶぞ」
セリアと協力して男を寝台に横たえさせる。
男が押さえている右腕の袖をまくり上げると、そこには赤黒く腫れ上がった無惨な傷跡があった。
魔物の爪痕だろうか。だが、ただの化膿ではない。
傷口の周囲の皮膚が引きつり、不自然に捻じれた魔力の残滓がこびりついている。
「……大聖堂で治療を受けたな?」
俺の問いに、男は苦しげに頷いた。
「ああ……。なけなしの銀貨を払って、治癒魔法をかけてもらったんだ。その時は痛みが引いたんだが、今朝になって急に……」
患部に残された歪な魔力痕。
それは、治癒魔法の制御に失敗し、患者自身の生命力と外部からの魔力が反発を起こしている証拠だった。
大聖堂の治癒師たちは、魔力で無理やり傷を塞ぐだけの対症療法を行っている。技術が未熟な者が高出力の魔法を使えば、こうして後から組織が崩壊を始めるのだ。
「セリア、清潔な布と湯を頼む」
「はい、ただいま」
俺は男の腕に両手をかざし、静かに目を閉じた。
意識を深く沈め、対象の生命力を感知する。
絡み合った歪な魔力を丁寧に解きほぐし、男自身の生命力を活性化させていく。
大聖堂を牛耳るビショップの顔が脳裏をよぎった。
寄付金の額で患者を選別し、権力闘争に明け暮れる高位の神官たち。彼らは治癒師としての技術研鑽を蔑ろにし、その結果がこの惨状だ。
怒りと呆れが胸の奥で渦巻く。
だが、俺はそれを表情には出さず、ただ目の前の傷を消し去ることに集中した。
淡い光が収まると、男の腕の腫れは嘘のように引き、綺麗な皮膚が再生していた。
「……よし。もう痛みはないはずだ」
「本当だ……! 嘘みたいに軽い。ありがとう、先生……本当にありがとう!」
男は何度も頭を下げ、涙ぐみながら治療院を後にした。
◆ーーーー◆
夕暮れ時。
その日の五人の診療を終えた俺は、裏庭の小さな薬草園にしゃがみ込んでいた。
周囲を板塀で囲まれたこの場所には、青く発光する特殊な薬草が植えられている。
土の湿り気を確認し、慎重に雑草を抜いていく。
「アレン、私にも手伝わせてください」
背後から声がして振り返ると、セリアが袖をまくり上げて立っていた。
「いや、いい。土仕事はお嬢様の手に合わないだろ」
「そんなことはありません。受付嬢として、できることは何でも……」
「気持ちはありがたいが、これは俺の命綱だからな。素人に触らせるわけにはいかないんだ」
俺は冗談めかしてはぐらかし、再び土に視線を落とした。
「命綱、ですか?」
セリアが不思議そうに小首を傾げる。
「ああ。こいつの機嫌を損ねると、俺の明日がなくなるかもしれないからな」
曖昧に笑ってごまかすと、彼女は少し不満そうに唇を尖らせたが、それ以上は踏み込んでこなかった。
青く発光する薬草の葉を一枚摘み取ると、酷使した魔力回路が軋み、指先に微かな痺れが走った。
大聖堂の治癒師たちが残す歪な魔力痕。
そして、俺がこの裏庭で密かに育てている薬草。
俺の魔力回路に刻まれた致命的な欠陥は、まだ誰にも言えない。一日に五回。それが、俺が高出力の治癒魔法を安全に放てる限界だ。
もしこの秘密が知られれば、今の穏やかな日常は確実に崩れ去る。
夕風が青い葉を揺らし、冷たい空気が頬を撫でた。
静かな日常の裏で、過去の因縁と自身の秘密が、じわりと足元から這い上がってくるような不穏な気配。
俺の魔力回路の秘密が暴かれる日が来るのだろうか。
答えの出ない問いを胸の奥に押し込め、俺はただ黙々と土を掘り返し続けた。




