第3話
「……興味って、なんだよ」
俺はため息をつきながら、首の後ろを掻いた。
「ただのしがない治癒師だぞ。あんたみたいな高貴な身分のお嬢様が、こんな裏通りの埃っぽい治療院に長居する理由なんてないだろう」
「いいえ。あなたは私の命を救ってくださった。この御恩は、必ずお返ししなければなりません」
フードを深く被ったままの女性――セリアと名乗った彼女は、凛とした声で言い切った。
「だから、恩返しなんていらないって。今日の五人目として診ただけだ。ルール通りにやった結果にすぎない」
「ルール、ですか」
セリアは少しだけ首を傾げた。
「一日五人まで。身分を問わず、先着順。……不思議な方ですね。大聖堂に属していれば、その腕前でどれほどの富と名声を得られたことか」
「あそこの息苦しさは俺には合わないんだよ。静かに暮らしたいだけだ。だから、あんたも早く帰ってくれ」
俺が手をシッシッと振ると、セリアは一歩前に出た。
「では、私がここで働きます」
「……は?」
「受付嬢として、あなたの助けになりましょう。それが一番の恩返しになるはずです」
突拍子もない提案に、俺は言葉を失った。
だが、俺以上に慌てふためいたのは、背後に控えていた重装騎士のレオンだった。
「せ、セリア様! 何を仰るのですか! このような裏通りの怪しげな――いえ、アレン殿の腕は確かですが、貴女様が受付などと!」
レオンは慌ててセリアの前に進み出た。
「すぐに安全な場所へお戻りください。あの呪いをかけた者が、まだどこに潜んでいるやもしれません」
「だからこそよ、レオン」
セリアの声が、少しだけ低くなった。
「私が戻れば、また同じことが起きるかもしれない。それに、私を救ったこの場所に迷惑をかけるわけにはいかないわ。私が身分を隠し、ここで働くことで、少しでも彼の助けになりたいの」
「しかし、それでは貴女様の身の安全が……」
「私の決意は変わりません」
セリアの言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。
レオンは何度か口を開きかけたが、主君の固い意志を前に、やがて深く頭を垂れた。
そして、ゆっくりと俺の方へ向き直る。
ガチャリと重い鎧の音を響かせながら、屈強な騎士は俺の目の前で片膝をついた。
「アレン殿」
「……なんだよ、急に」
「先ほどの非礼、改めてお詫び申し上げる。貴殿の腕は、間違いなく本物だ。大聖堂の司祭どもが束になっても敵わぬほどの、奇跡の御手だ」
レオンの鋭い眼光が、真っ直ぐに俺を射抜く。
「どうか、あの方を……セリア様を頼む。私が必ず、背後の憂いを断ち切ってみせる。それまでの間、あの方の居場所を、ここに置かせてはもらえないだろうか」
「……勝手に話を進めないでくれないか」
俺は頭を抱えた。
静かで穏やかな日常を守り抜くために、大聖堂を飛び出したというのに。こんな厄介そうな事情を抱えた連中に関われば、面倒ごとが増えるのは目に見えている。
だが、レオンの必死な顔と、セリアの真っ直ぐな瞳を見ていると、どうにも無碍に追い出す気になれなかった。
目の前で困っている人間を見捨てるのは、俺の性に合わない。
「……好きにしろ。ただし、俺の治療の邪魔はするな。それから、一日五人のルールは絶対だ」
俺が渋々そう告げると、セリアはフードの奥でふわりと微笑んだような気がした。
「ありがとうございます、アレン。精一杯、努めさせていただきます」
こうして、俺の静かなスローライフは、思いがけない形で賑やかなものへと変わっていくことになった。
◆ーーーー◆
翌朝。
俺が欠伸を噛み殺しながら診察室の扉を開けると、そこにはすでにセリアの姿があった。
彼女はフードを外し、動きやすそうな平民風の服に着替えていた。だが、その立ち振る舞いや、透き通るような銀糸の髪、そして凛とした美貌は、どう見ても裏通りの住人には見えない。
「おはようございます、アレン。本日の準備は整っております」
セリアは受付の机に座り、背筋をピンと伸ばして俺を迎えた。
「……早いな。掃除でもしてくれたのか?」
「はい。見よう見まねですが、箒という道具を使ってみました。なかなか奥が深いですね」
セリアが真面目な顔で言うので、俺は周囲を見渡した。
床には埃が隅に追いやられているだけで、綺麗になったとは言い難い。どうやら、彼女にとって家事というものは未知の領域らしい。
「まあ、いい。徐々に慣れてくれれば」
俺が苦笑しながら言うと、セリアは机の上に置かれた見慣れない茶器に手を伸ばした。
「お茶を淹れました。よろしければ、どうぞ」
差し出されたのは、裏通りの埃っぽい治療院には到底似つかわしくない、最高級の白磁のティーカップだった。
縁には金糸のような細工が施され、繊細な花の模様が描かれている。
「……なんだ、この高そうなカップは」
「私物です。受付の仕事には、来客への茶の振る舞いも含まれると聞きましたので」
「いや、うちに来る患者は、そんな優雅にお茶を飲んでる余裕のない連中ばかりだぞ」
俺は呆れながらも、差し出されたカップを受け取った。
立ち上る湯気からは、嗅いだことのないような芳醇な香りが漂ってくる。一口飲むと、驚くほど澄んだ味わいが口の中に広がった。
「美味いな」
「お気に召して光栄です」
セリアは嬉しそうに目を細めた。
その時、入り口の扉が控えめに叩かれた。
「先生、開いてるかい……?」
顔を出したのは、近所に住む大工の親方だった。腕を布で押さえており、顔をしかめている。
「どうした、親方。また仕事中に怪我か?」
「ああ、丸太の下敷きになっちまってな。骨が折れてるかもしれねえ」
俺が立ち上がろうとすると、セリアがすっと前に出た。
「おはようございます。本日の第一号の患者様ですね。こちらへどうぞ」
セリアの丁寧すぎる案内に、親方は目を丸くした。
「お、おう……。先生、この綺麗な嬢ちゃんは?」
「今日から雇った受付嬢だ。気にしないでくれ」
俺はため息をつきながら、親方を診察台へ案内した。
親方の腕は、確かに骨が折れていた。
俺は患部に手を当て、静かに意識を集中させる。
魔力回路の奥底から力を引き出し、対象の生命力を活性化させる。骨の断面が繋がり、周囲の組織が瞬時に修復されていく。
「よし、終わりだ。もう動かしても痛くないはずだ」
「おおっ! 相変わらずすげえ腕だ! ありがとよ、先生!」
親方は腕をぐるぐると回し、満面の笑みを浮かべた。
「治療費は銀貨三枚だ」
「おう! 嬢ちゃん、頼むわ」
親方が銀貨を差し出すと、セリアは両手で丁寧にそれを受け取った。
「確かに頂戴いたしました。お大事になさってください」
セリアの完璧なお辞儀に、親方は照れくさそうに頭を掻きながら帰っていった。
「……意外と様になってるじゃないか」
俺が言うと、セリアは少しだけ胸を張った。
「受けた恩を返すためですから。これくらいは当然です」
それから数日。
セリアが受付嬢として居着いてから、治療院の様子は少しずつ変わり始めていた。
彼女の美貌と丁寧な接客は、裏通りの住人たちの間で瞬く間に噂となった。それに加えて、俺の治癒魔法の確かな腕前が口コミで広がり、朝から患者が列を作る日も珍しくなくなった。
「本日の五人目、終了いたしました。皆様、申し訳ありませんが、本日の診察はここまでとなります」
セリアが外に向かって告げると、並んでいた患者たちは残念そうにしながらも、大人しく帰っていく。
「一日五人という制限は、本当に厳格なのですね」
扉を閉めながら、セリアが不思議そうに尋ねてきた。
「ああ。それ以上は俺の体がもたないからな」
俺は軽く肩をすくめた。
大聖堂時代の過労で焼き切れた魔力回路。一日に五回以上の高出力の治癒魔法を使えば、俺自身が壊れてしまう。
その秘密を彼女に話すつもりはなかった。
「そうですか。アレンにも、色々と事情があるのですね」
セリアはそれ以上深く詮索することはなく、静かにティーカップにお茶を注ぎ始めた。
「お疲れ様でした。どうぞ」
「サンキュ」
俺は椅子に深く腰掛け、セリアの淹れた紅茶を受け取った。
窓の外では、夕暮れの裏通りを歩く人々の喧騒が聞こえる。
面倒ごとが増えたとぼやきつつも、こうして誰かと一緒に過ごす時間は、悪くないと思えた。
だが、ふと手元のティーカップに目を落とした時、俺の視線はそこに描かれた小さな紋章に釘付けになった。
金糸の細工に紛れるように刻まれていたのは、二つの剣が交差する意匠。
それは、大聖堂の奥深く、異端審問を司る特務機関の紋章に酷似していた。
なぜ、彼女の私物にこんなものが刻まれているのか。
彼女を蝕んでいた死の呪いは、単なる暗殺の手段ではなかったのではないか。
「アレン? どうかしましたか?」
セリアが不思議そうに小首を傾げる。
「……いや、なんでもない」
俺は平静を装い、紅茶を喉に流し込んだ。
芳醇な香りの奥に、微かな苦味が混ざっているような気がした。
彼女の正体と、大聖堂の暗部。
俺が捨てたはずの過去の影が、すぐそこまで迫っている。
そんな不穏な予感が、静かな治療院の空気に、じわりと染み出していた。




