第2話
翌日の夕暮れ時。
裏通りは、夕餉の支度をする匂いと、家路を急ぐ人々の足音で満ちていた。
俺は治療院の入り口に立ち、四人目の患者だった大工の男を見送った。足場から落ちて折れた腕は、もうすっかり元通りになっている。男は何度も頭を下げながら、上機嫌で帰っていった。
「さて、あと一人か……」
小さく欠伸を噛み殺し、首の骨を鳴らす。
昨日のリックの一件が、思いのほか早く広まったらしい。朝からひっきりなしに患者が訪れ、あっという間に四枠が埋まってしまった。
体の奥底で、チリチリとした嫌な熱が燻っている。魔力回路が悲鳴を上げる一歩手前の、いつもの感覚だ。
これ以上は危険だ。五人目の患者が来なければ、このまま店仕舞いにして裏庭の薬草の世話でもしよう。
そう思い、看板を裏返そうと手を伸ばしたその時だった。
重々しい金属音が、裏通りの喧騒を切り裂いた。
ガチャリ、と乱暴に扉が開け放たれる。
入り口の枠を塞ぐように立っていたのは、傷だらけの重装鎧を身に纏った屈強な男だった。鋭い眼光が、狭い治療院の中を値踏みするように見回す。
その後ろには、深いフードを目深に被った小柄な人物が立っていた。さらに外の通りには、同じような重武装の騎士たちが十数人、周囲を警戒するように控えている。
裏通りには到底似つかわしくない、異様な集団だった。
「ここが、どんな怪我でも治すという治療院か?」
鎧の男が、地を這うような低い声で問う。
俺は伸ばしかけた手を下ろし、飄々と答えた。
「ああ。ただし、診察は一日五人までだ。あんたたちでちょうど五人目になる」
「ふざけるな」
男が一歩踏み出し、剣幕で詰め寄ってきた。鎧がガチャリと鳴る。
「こんな薄汚い裏通りのモグリに、あの方の命を預けられるはずがない! 貴様、大聖堂の神官でもないくせに、デタラメな噂を流して……」
「レオン、やめなさい」
凛とした声が、男の怒鳴り声を遮った。
フードの人物が一歩前に出る。声の響きからして、若い女性のようだ。
「ですが……!」
「大聖堂でも見放されたのです。もう、ここしか……ありません」
女性の声は、ひどく掠れていた。立っているのがやっとというように、肩で息をしている。
レオンと呼ばれた騎士は、悔しげに唇を噛み、それ以上は何も言わなかった。
「……で、患者はそっちのあんたか」
俺は女性に向かって顎をしゃくった。
彼女は無言で頷き、ふらつく足取りで診察室の中央へ進み出る。
俺は丸椅子を勧め、彼女を座らせた。
「フードを取ってくれ。患部を見ないことには始まらない」
レオンが鋭い視線を向けてきたが、女性は静かにフードを下ろした。
現れたのは、透き通るような白い肌と、気品のある顔立ちだった。だが、その顔色は土気色を通り越し、生気を全く感じさせない。
何より目を引いたのは、彼女の首筋から鎖骨にかけて這い回る、どす黒い痣のような紋様だった。それはまるで生き物のように脈打ち、彼女の生命力を少しずつ啜り上げている。
「……死の呪いか」
俺が呟くと、レオンが弾かれたように顔を上げた。
「ひと目見ただけで分かるのか!?」
「まあな。これだけ進行してりゃ、普通の治癒魔法じゃどうにもならない。大聖堂の連中が匙を投げるのも無理はないさ」
大聖堂の治癒魔法は、あくまで魔力で傷を塞ぐ対症療法に過ぎない。呪いのように生命力そのものを蝕むものに対しては、根本的な解決にはならないのだ。
「治せるのか……? 貴殿に、この呪いが解けるというのか!」
レオンがすがるような目で俺を見る。先ほどの高圧的な態度はすっかり鳴りを潜めていた。
俺は短く息を吐き、袖をまくり上げた。
「治すよ。あんたは五人目の患者だからな」
身分が何だろうと、どんな事情を抱えていようと関係ない。目の前で苦しんでいる者がいるなら、治す。それがこの治療院のルールだ。
「少し痛むかもしれないが、我慢してくれ」
俺は女性の首筋、呪いの中心に手をかざした。
目を閉じ、意識を深く沈める。
昨日の毒の治療と同じ要領だが、相手は生命力を直接喰らう悪質な呪いだ。中途半端な魔力では逆にこちらが呑み込まれかねない。
俺は呪いの根源を正確に見極め、手のひらから一気に高密度の光を叩き込んだ。
同時に、胸の奥で火種が爆ぜるような激痛が走る。
破損した魔力回路が、高出力の魔法に悲鳴を上げているのだ。
だが、ここで力を抜くわけにはいかない。俺は歯を食いしばり、痛みをねじ伏せるように魔力を注ぎ込み続けた。
「っ……!」
女性が小さく呻き声を上げる。
黒い痣が、光に焼かれるようにして悲鳴を上げ、霧散していく。
やがて、彼女の肌から呪いの痕跡が完全に消え去った。
「……終わったぞ」
俺が手を離すと、女性はゆっくりと目を開けた。
浅かった呼吸は落ち着き、土気色だった頬にはほんのりと赤みが差している。
「信じられん……」
レオンが呆然と呟いた。
「大聖堂の司教ですら手も足も出なかった呪いを、たった一瞬で……貴殿は、一体何者なのだ……?」
「ただの裏通りの治癒師だよ」
俺は気怠げに答えながら、額に浮いた汗を手の甲で拭った。
体の奥の熱は、まだチリチリと燻り続けている。今日の限界は、これで完全に使い切った。
女性は自身の首筋に触れ、呪いが消え去ったことを確かめると、立ち上がって俺に向き直った。
「ありがとうございます。この御恩は、決して忘れません」
凛とした声で、彼女は深く頭を下げた。高貴な身分らしい品のある所作だった。
「気にするな。これで今日の診察は終わりだ。あんたたちも、早く帰って休んだ方がいい」
俺はそう言って、入り口の扉を指し示した。
レオンが頷き、女性に声をかける。
「さあ、お帰りしましょう。すぐに城へ戻り、ご無事を知らせねば」
だが、女性は動かなかった。
彼女は俺の顔をじっと見つめたまま、静かに首を振った。
「いいえ。私は、ここに残ります」
「……は?」
俺は思わず間の抜けた声を上げた。
レオンも驚いたように目を見開いている。
「何を仰るのですか! このような裏通りの怪しげな場所に、貴女様を置いていくわけには……!」
「レオン、先ほどの非礼を詫びなさい。彼は私の命の恩人です」
女性の鋭い声に、レオンは言葉を詰まらせた。
俺は頭を掻きながら、ため息をついた。
「いや、ここは治療院だぞ。あんたみたいな身分の人間が居座る場所じゃない。呪いは解けたんだから、さっさと帰ってくれ」
「受けた恩は必ず返さねばなりません。それに……」
女性はそこで言葉を切り、俺の胸元に、すっと視線を向けた。
その瞳の奥に、ただの感謝とは違う、何かを探るような光が宿っているのを見逃さなかった。
「私は、あなたに興味があります」
外にはまだ、重武装の騎士たちが控えている。
夕闇が深まる中、治療院の中だけが異様な静寂に包まれていた。
高貴な身分の女性が、なぜ裏通りの治療院に固執するのか。
彼女の真意が読めないまま、俺はただ、体の奥で燻る熱を持て余していた。




