第1話
王都の空は、表通りも裏通りも同じように青い。だが、足元に広がる景色はまるで違う。
大聖堂の尖塔がそびえ立つ華やかな中心部。そこは権威と富の象徴であり、石畳は塵一つなく磨き上げられている。行き交う人々は上質な絹を纏い、誰もが余裕のある微笑みを浮かべていた。
対して、俺が今立っているのは、そこから遠く離れた薄暗い裏通りだ。
湿った土の匂い、煮炊きする煙、そして日々の生活に追われる人々の汗の匂いが混ざり合うこの場所に、俺は小さな木張りの看板を打ち付けた。
『アレン治療院 ――診察は一日五人まで』
最後の釘を打ち終え、金槌を下ろす。歪みなく掛けられた文字を眺めながら、俺は小さく息を吐いた。
大聖堂の重苦しい空気から抜け出して、ようやくここまで漕ぎ着けた。
あそこには、終わりのない派閥争いと、際限なく押し寄せる重圧しかなかった。誰が誰を蹴落とし、誰の顔色を窺うか。高位の神官たちは権力闘争に明け暮れ、治療を必要とする者たちは身分や献金の額で選別されていく。
そんなことばかりに気を取られ、目の前で苦しむ者から目を逸らすような日々に、すっかり嫌気がさしていた。
これからは違う。
誰の指図も受けない。自分のペースで、目の前の患者だけを確実に救う。そのための場所だ。
地味で動きやすい麻の服の袖をまくり上げ、俺は治療院の入り口となる古い扉を開け放った。
蝶番が微かに軋む音を立てる。表通りの喧騒はここまでは届かない。静かな始まりだった。
「ちょっと、あんた。本当にこんなところで店を開く気かい?」
背後から掛けられた声に振り返ると、ふくよかな体つきの女性が腕組みをして立っていた。
近所の食堂を切り盛りしている女将のマリーだ。使い込まれた清潔なエプロンを身につけ、呆れたような視線を看板に向けている。
「おはよう、マリーさん。見ての通り、今日から開業だ」
「おはようじゃないよ。昨日引っ越してきたばっかりで、もう店を開けるなんてね。それに、なんだいこのふざけた看板は」
マリーはずかずかと歩み寄り、看板の文字を指差した。
「『診察は一日五人まで』? あんた、商売する気があるのかい。こんな裏通りじゃ、ただでさえ客なんて寄り付かないのに。大聖堂の施しを受けられない貧乏人ばかりなんだから、薄利多売でいかないと食っていけないよ」
「俺はこれで十分なんだよ。無理してたくさん診ても、手が回らなくなったら意味がないだろ」
「飄々と言ってくれるねえ。生活能力の低そうな顔して、餓死でもされたらあたしの寝覚めが悪いんだよ」
そう言いながら、マリーは抱えていたバスケットを俺に押し付けてきた。
中からは、焼きたてのパンと香草を利かせた肉料理の匂いが漂ってくる。
「開業祝いの差し入れだよ。しっかり食べて、少しは体力をつけな。あんた、なんだかいつも疲れたような目をしてるんだから」
「悪いな、マリーさん。ありがたくいただくよ」
「ふん。困ったことがあったら、いつでも食堂に来な。裏通りのルールってやつを教えてやるからね。大聖堂のお膝元とは勝手が違うんだから」
チャキチャキとまくし立てるマリーの背中を見送りながら、俺は苦笑した。
お節介で遠慮がないが、その温かさが今の俺には心地よかった。
バスケットから漂う湯気に少しだけ心が緩む。この裏通りでなら、静かで穏やかな日常を守り抜けるかもしれない。
午後になると、裏通りにも少しずつ活気が出てくる。
マリーの差し入れで腹を満たし、治療院の掃除を終え、近所の老人たちの軽い腰痛や擦り傷をいくつか診た後のことだった。
表から、慌ただしい足音と怒声が響いてきた。
「おい、誰か! 治癒師はいねえか!」
扉が乱暴に開かれ、血相を変えた男たちが転がり込んでくる。
彼らが担いでいたのは、使い込まれた安物の革鎧を着た少年だった。顔にはそばかすがあり、まだ十五、六といったところか。
少年の顔色は土気色を通り越し、どす黒く変色している。浅い呼吸のたびに、口の端から紫色の泡がこぼれていた。
「どうした」
「魔物の毒だ! 依頼の帰りに奇襲されて……頼む、金なら払う! こいつを助けてくれ!」
男たちの悲痛な叫びを聞きながら、俺は少年の状態を素早く確認した。
脈は弱く、毒が全身に回りきっている。普通の治癒魔法で傷を塞ぐだけの対症療法では、到底間に合わない。大聖堂に運び込んだとしても、高額な寄付金がなければ門前払いだろう。
「ベッドに寝かせろ。あんたたちは外で待っててくれ」
男の一人が少年の冷たくなった手を握りしめ、躊躇する。
「邪魔だ。死なせたくないなら言う通りにしろ」
俺の低い声に、男たちは息を呑み、慌てて外へ出て行った。
静かになった診察室で、俺は少年の胸に手を当てる。
大聖堂の連中が見たら、こんな下級冒険者のために特級の技術を使うなんて正気の沙汰ではないと喚き散らすだろう。だが、俺にとって患者の身分などどうでもいいことだ。目の前で苦しんでいる者がいるなら、治す。それだけのことだ。
目を閉じ、意識を深く沈める。
対象の生命力を感知し、そこに直接干渉する。毒を中和するのではなく、少年自身の生命力を極限まで活性化させ、病魔ごと根治させる。
手のひらから淡い光が溢れ、少年の体を包み込んだ。光は脈打つように強さを増し、少年の体内に巣食う毒素を次々と分解していく。
大聖堂の治癒師たちが得意とする、魔力で無理やり傷を塞ぐだけの荒っぽい治療とは違う。患者自身の生きる力を引き出す技術だ。
「……っ!」
数秒後、少年が大きく息を吸い込み、激しく咳き込んだ。
どす黒かった顔色に赤みが戻り、紫色の泡が消えていく。呼吸が安定し、閉じていたまぶたがゆっくりと開いた。
「ここは……?」
「俺の治療院だ。あんた、魔物の毒で死にかけてたんだぜ」
俺が声をかけると、少年は跳ね起きようとして、バランスを崩してベッドに倒れ込んだ。
「痛っ……! いや、痛くねえ。体が、軽い……?」
「無理するな。毒は抜いたが、体力は落ちてる。少し休んでいけ」
「あんたが、俺を治したのか?」
少年――リックと名乗った彼は、信じられないものを見るような目で俺を見上げた。
「ああ。俺はアレン。ここの治癒師だ」
「すげえ……! あんな毒、大聖堂の高位神官様じゃなきゃ治せねえって言われてたのに。あんた、何者なんだよ!」
生意気そうな顔つきが一変し、リックの瞳には熱烈な光が宿っていた。
「ただの町医者だよ。それより、あんたで今日は五人目だ。もう店じまいだから、仲間を呼んで帰ってくれ」
「えっ? 五人目? まだ昼過ぎだぜ?」
「表の看板を見なかったのか? 『診察は一日五人まで』だ」
リックはぽかんと口を開けたが、すぐに慌てて立ち上がった。
「わ、わかった。でも、あんたの腕は本物だ! 俺、絶対に恩は返すからな! 世界一の治癒師だって、町中に吹聴して回ってやる!」
外で待っていた仲間たちを呼び入れ、リックは何度も頭を下げながら帰っていった。
嵐が去ったような静寂の中、俺は小さく息を吐き、椅子に深く腰掛けた。
手のひらには、まだ微かな熱が残っている。
「……五回。今日はこれで限界か」
疲労で軋む体を起こし、少年の血が染みた布を洗い桶に放り込む。
夕暮れ時。
表の看板を『本日の診察は終了しました』に裏返し、俺は治療院の奥にある裏庭へと向かった。
四方を古いレンガの壁に囲まれた、日当たりの悪い小さな庭。そこには、俺が持ち込んだ木箱がいくつも並べられている。
木箱の中には、黒っぽい土が敷き詰められ、見慣れない形の葉を持つ薬草が植えられていた。青みがかった葉脈が、夕暮れの光を受けて微かに発光しているように見える。
じょうろに水を汲み、一つ一つの鉢に丁寧に水をやっていく。
端から見れば、趣味の園芸を楽しむ怠け者のように見えるだろう。マリーさんが見たら、また呆れた顔で小言を言うに違いない。
だが、これはただの趣味ではない。
俺は薬草の葉を指先でそっと撫でた。ひんやりとした感触が、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
体の奥底に、チリチリとした嫌な熱が燻っている。
大聖堂での無茶な働き方が祟り、俺の体には決して消えない歪な感覚が刻み込まれてしまった。
先ほどリックの毒を抜いた際も、胸の奥で火種が爆ぜるような痛みが走った。
「一日五人」という制限は、俺の気まぐれではない。
それ以上魔法を使えば、俺は二度と治癒魔法が使えなくなる。最悪の場合、命すら危うい。
目の前で苦しむ患者を見捨てることだけは、絶対に避けなければならない。そのためには、この制限を何があっても守り抜く必要があった。
水やりを終え、俺は空を見上げた。
茜色に染まった雲が、ゆっくりと流れていく。
この薬草が育ち切るまで、俺の体は持ちこたえられるだろうか。
そして、明日はどんな患者がこの裏通りの扉を叩くのだろうか。
体の奥で燻る熱をなだめるように深く息を吸い込み、俺は静まり返った治療院へと戻っていった。




