第10話
アレンの守ろうとする平穏な日々に、冷たい波乱の気配が、確実に忍び寄ろうとしていた。
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「クレア。お前に裏通りのネズミを調べてもらいたい」
大聖堂の奥深く、豪奢な調度品に囲まれた執務室。ビショップ司祭のねっとりとした声が、塵一つなく磨き上げられた大理石の床に響いた。
私は銀縁眼鏡の位置を直し、背筋を伸ばして深く一礼する。
「ネズミ、と仰いますと」
「最近、下賤な者たちの間で評判になっている小さな治療院があるそうだ。一日の患者を五人に絞り、どんな怪我も治すというふざけた噂が立っている」
ビショップ司祭は忌々しげに鼻を鳴らし、分厚い報告書の束をデスクに放り投げた。その表紙には、大聖堂の治療を受けたはずの患者たちが、別の場所で完治しているという事実が記されている。
「その治療痕の特徴からして、おそらくアレンだろう。我々の権威を脅かす前に、実態を探ってこい」
アレン先輩。その名を聞いた瞬間、私の胸の奥が微かにざわついた。
かつて筆頭治癒師として大聖堂にその名を轟かせていた彼は、終わりの見えない派閥争いと、際限なく押し寄せる重圧に嫌気がさし、ある日突然組織を去った。己の裁量で、手の届く範囲の者を確実に癒やすため、裏通りに小さな拠点を構えたのだという。
大聖堂の教義こそが絶対であり、規則に従うことこそが正義だと信じる私にとって、彼の逃亡は到底理解しがたいものだった。才能の無駄遣いであり、神への冒涜だとすら思っていた。
「……彼が、裏通りで治療院を」
「そうだ。我々の指導を拒み、野良犬のように生きる道を選んだ愚か者だ。だが、民衆が彼を頼るようなことがあれば、大聖堂の威信に関わる。奴がどのような手口で患者を騙しているのか、その目で確かめてこい」
ビショップ司祭の目には、権力を脅かされることへの焦りと、アレン先輩に対する執着が渦巻いていた。
「承知いたしました。直ちに調査に向かいます」
私は感情を押し殺し、冷たい声で返答して執務室を後にした。
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数日後。私は修道服を地味な平民の服に着替え、王都の裏通りに足を踏み入れた。
湿った土の匂い、煮炊きする煙、そして日々の生活に追われる人々の汗の臭いが入り混じる空気に、思わず眉をひそめる。大聖堂の清浄な空気とは程遠い、みすぼらしい環境だ。こんな場所で、あの天才治癒師がくすぶっているというのか。
行き交う人々は粗末な服を着ており、大聖堂の周辺を歩く貴族たちのような余裕はない。しかし、彼らの表情にはどこか活気があった。
入り組んだ路地を抜け、目的の建物を見つける。周囲の古びた家屋に溶け込むような小さな建物。その入り口に、粗末な木張りの看板が掲げられていた。
『アレン治療院』
私は小さく深呼吸をし、一般の患者を装って古い扉を開けた。蝶番が微かに軋む音を立てる。
「いらっしゃいませ。本日の診察をご希望でしょうか」
出迎えた声に、私は思わず足を止めた。
そこに立っていたのは、裏通りの埃っぽい空気には似つかわしくない、凛とした品を漂わせる女性だった。動きやすい平民風の服を着ているが、その所作の端々から隠しきれない気品が滲み出ている。
「あ、はい。最近、胸の奥が重苦しくて……」
「承知いたしました。本日の五枠目に空きがございます。お掛けになってお待ちください」
彼女の丁寧な応対に毒気を抜かれながら、私は待合室の丸椅子に腰を下ろした。
周囲を見渡すと、建物自体は古いが、隅々まで手入れが行き届いており、不思議と居心地の良さを感じる。大聖堂の待合室のような冷たい緊張感はない。
探りを入れるため、私は受付嬢に声をかけた。
「あの、あなたはなぜこんな裏通りで働いているのですか。その、とても洗練されていらっしゃるので、少し驚きまして」
彼女は少し驚いたように目を瞬かせた後、柔らかく微笑んだ。
「私はかつて、夕暮れ時に重武装の騎士たちを引き連れて、ここの最後の枠に駆け込んだのです。厄介な死の呪いに蝕まれており、もう助からないと諦めかけていました。ですが、先生はあっさりと解呪してくださいました」
その規格外の腕前を語る彼女の目には、深い尊敬の念が宿っていた。
「命を救われた恩返しとして、私は身分を隠し、ここで受付嬢をしています。先生の穏やかな日常のお手伝いをしているうちに、その神業は少しずつ口コミで広がり始め……今では毎日、様々な方が訪れるようになりました」
彼女は誇らしげに微笑み、奥の診察室へと視線を向けた。
「先生は、患者の身分や事情で治療を拒むことは決してありません。目の前で苦しむ方がいれば、必ず手を差し伸べてくださいます」
「ですが、大聖堂の教えでは……」
反論しかけた私の言葉は、彼女の真っ直ぐな瞳を前にして行き場を失った。そこには、アレン先輩への絶対的な信頼があった。
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「次の方、どうぞ」
セリアの声に呼ばれ、診察室に入ってきたのは、見覚えのある銀縁眼鏡の女だった。
地味な服を着て変装しているつもりだろうが、その生真面目な歩き方と、微かに漂う高級な香の匂いで一発でわかる。
大聖堂時代の後輩、クレアだ。
「……初めまして。胸の奥が痛んで」
彼女は俺と目を合わせないようにして、硬い声で言った。
俺は小さくため息を飲み込み、飄々とした態度を崩さずに丸椅子を勧める。
「座りな。今日はあんたで最後だ。枠内なら誰でも診るよ」
正体に気づいていないふりをして、俺は彼女の胸元に手をかざした。
魔力を通すと、彼女の魔力回路がひどく強張っているのがわかった。長時間の祈りと、上層部からの理不尽な重圧によるストレス。大聖堂の連中特有の職業病だ。真面目な奴ほど、こうやって自分を追い詰めていく。
「大聖堂の教えは立派だろうが、自分をすり減らしちゃ意味がないぜ」
「え……」
俺は対象の生命力に直接干渉し、強張った回路を優しく解きほぐしていく。表面的な痛みを散らす対症療法ではない、根治のための特級治癒。
温かい光が彼女の身体を包み込み、滞っていた魔力の流れが正常な循環を取り戻していく。少し疲れたような気怠げな目をしながらも、俺の手つきは無意識のうちに洗練された動きを描いていた。
ほんの数秒で、彼女の顔色が劇的に良くなり、強張っていた肩の力がふっと抜けた。
「終わったぞ。もう痛みはないはずだ」
クレアは信じられないというように、自身の胸に手を当てた。
「こんな……一瞬で。大聖堂の儀式でも、これほど完璧な治癒は……」
彼女の呟きには、純粋な驚愕が混じっていた。かつて俺が所属していた頃よりも、大聖堂の治癒技術はさらに低下しているらしい。
「あんたみたいに真面目な奴は、無理を溜め込みやすい。たまには息抜きでもするんだな」
俺が軽く手を振ると、クレアはハッとしたように顔を上げ、俺の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、かつての先輩に対する尊敬と、現在の自分の立場に対する葛藤が入り混じっていた。
「……ありがとうございました」
彼女は複雑な表情を浮かべたまま、深く一礼して診察室を出て行った。
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治療院の外に出た。
胸の奥にあった重苦しい痛みは、嘘のように消え去っている。呼吸をするたびに、新鮮な空気が身体の隅々まで行き渡るのがわかった。
大聖堂の教えが絶対であり、そこから逃げ出したアレン先輩は堕落したのだと信じていた。
しかし、あの小さな治療院には、大聖堂にはない確かな温もりと、本物の救済があった。身分を問わず、目の前の患者を確実に治す。それは、治癒師として最も純粋で、最も尊い姿ではないのか。
私は胸に手を当てたまま、王都の中心にそびえる尖塔を振り返る。
夕日に照らされた大聖堂は、かつてのように神聖な輝きを放っているようには見えなかった。むしろ、冷たく無機質な石の塊のように感じられる。
ビショップ司祭に、私は一体どのような報告を上げればいいのだろうか。
裏通りの治療院は、大聖堂の脅威となる存在ですと告げるべきか。それとも、ただの小さな治療院に過ぎませんと嘘をつくべきか。
揺らぐ価値観を抱えたまま、私は夕闇の迫る裏通りを静かに歩き出した。




