第11話
揺らぐ価値観を抱えたまま、私は夕闇の迫る裏通りを静かに歩き出した。
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「変わった患者でしたね」
受付のカウンターを片付けながら、セリアが不思議そうに首を傾げた。
先ほど帰っていった四人目の患者。地味なローブを羽織ってはいたが、その所作や言葉の端々には、大聖堂の神官特有の堅苦しさが染み付いていた。おそらく、裏通りの噂を聞きつけて偵察にでも来たのだろう。
「まあな。だが、不調を抱えてたのは事実だ」
俺は首の後ろを揉みほぐしながら、短く答えた。
大聖堂の人間だろうが何だろうが、俺にとっては関係ない。目の前に不調を訴える患者がいて、一日の枠が空いているなら治す。それだけのことだ。
「さて、今日の枠はあと一人。誰も来なけりゃ店じまいだが」
伸びをしながらそう呟いた直後だった。
バンッ、と古い木扉が乱暴に開け放たれた。
「頼む! 助けてくれ!」
悲痛な叫び声とともに転がり込んできたのは、筋骨隆々だがひどくやつれた大男だった。その背中には、ぐったりとした少女が背負われている。男の片腕には、折りたたまれた車椅子のような魔導具が抱えられていた。
「大聖堂じゃ、金が足りねえって追い出された……! もうここしかねえんだ!」
男は魔導具を床に放り出すと、少女を背負ったまま、俺の足元に崩れ落ちるように土下座した。
「俺の命ならなんだって差し出す! だから、エレナを……娘を助けてくれ!」
床に額を擦りつけ、なりふり構わず懇願する男。その肩は小刻みに震え、絞り出すような声には深い絶望が滲んでいた。
セリアが息を呑み、慌てて男のそばに駆け寄る。
「頭を上げてください。ここは身分もお金も関係ありません。その日の枠さえ空いていれば、アレンは必ず診てくれます」
凛とした声で諭すセリアに、男はすがるような視線を向けた。
俺は小さく息を吐き、男を見下ろす。
「あんたの命なんざもらっても、薬草の肥料にもならねえよ。ベッドに寝かせな。今日の五人目だ」
俺の言葉に、男――ダリウスは弾かれたように顔を上げ、何度も頷きながら娘を診察台へと運んだ。
ベッドに横たえられた少女、エレナは、まだ十歳そこらだろう。色素が薄く、ガラス細工のように儚げな容姿をしていた。
彼女の呼吸は浅く、不規則だ。だが、それ以上に気になったのは、その虚ろな瞳だった。
「お父さん……もういいの」
ひび割れたような小さな声が、静かな診察室に響く。
「私のせいで、お父さんまでボロボロになって……ごめんなさい」
自分の病が家族を苦しめている。その強烈な罪悪感が、彼女から生きる気力を奪い去っていた。半ば死を受け入れたような諦めの色が、幼い顔に張り付いている。
俺は無言のまま、エレナの胸元に手をかざした。
目を閉じ、意識を深く沈める。魔力を通して彼女の生命力を感知し、その奥底を探る。
(……こいつは、ひどいな)
思わず眉間に皺が寄った。
魔力回路が知恵の輪のように絡み合い、彼女自身の生命力を吸い上げている。俺は指先から微弱な魔力を流し込み、結び目の一つを軽く弾いた。びり、と重い反発が指先に返ってくる。
俺の特級治癒魔法を使えば、根治させることはできる。
だが、一瞬で治癒できるようなものではない。絡み合った病魔を無理に引き剥がせば、エレナの衰弱した体がもたない。少しずつ、慎重に解きほぐしていく必要がある。
それは同時に、俺自身の破損した魔力回路にも、連日相当な負担を強いることを意味していた。
俺が黙り込んでいるのを見て、エレナが小さく微笑んだ。
「先生、無理しないで。私、自分がもう長くないってわかってるから……」
その言葉を聞いた瞬間、俺はエレナの額を軽く小突いた。
「痛っ」
「勝手に自分の寿命を決めるな。まだ十歳そこらだろ」
驚いて目を丸くするエレナから視線を外し、俺はダリウスに向き直った。
「一回じゃ治しきれねえ。厄介な代物だ」
その言葉に、ダリウスの顔がさっと青ざめる。絶望が再び彼を飲み込もうとした瞬間、俺は言葉を継いだ。
「だが、治らないとは言ってない」
ダリウスが息を止める。
「明日から毎日、一日五人の枠のうち、一人分をこいつのために使う。少しずつ絡まった糸を解きほぐしていくしかねえ」
数秒の空白の後、ダリウスはその場に崩れ落ち、両手で顔を覆って号泣し始めた。
「ありがとうございます……! ありがとうございます、先生……!」
大の大人が声を上げて泣きじゃくる姿に、セリアが優しく微笑みかける。
「よかったですね。アレンの腕は確かです。どうか、希望を捨てないでください」
セリアの言葉に、ダリウスは何度も何度も頷いた。
俺は再びエレナに向き直る。
「さて、一回目の治療を始めるぞ。少し熱くなるかもしれないが、我慢しろよ」
エレナはまだ信じられないというように、俺を見つめていた。その瞳の奥に、わずかながら生への執着が灯り始めているのがわかる。
俺は彼女の胸元に手を当て、生命力に直接干渉を開始した。
対象の自然治癒力を極限まで高め、病魔の根を少しずつ削り取っていく。繊細で高度な魔力操作。
数分が経過した頃、俺の胸の奥で、傷ついた魔力回路が軋むような鈍い痛みを上げた。
(……くそ、やっぱり負担がでかいな)
胃の奥が冷たくなるような感覚を覚えながらも、俺は表情を崩さず、淡々と魔力を送り込み続けた。額にじんわりと汗がにじむ。
やがて、絡みついた病魔の一部が解けたのを確認し、俺はゆっくりと手を離した。
「……あ」
エレナが小さく声を漏らす。
青白かった彼女の頬に、わずかな赤みが差していた。浅かった呼吸が、先ほどよりも深く、規則正しいものに変わっている。
「息が、少し楽に……」
「今日はここまでだ。一気にやるとお前の体がもたないからな」
俺は疲労を隠して飄々と言い放ち、袖口で額の汗を拭った。
ダリウスは娘の明らかな変化を見て、再び床に額を擦りつける勢いで礼を言った。
「明日も同じ時間に来い。遅刻したら枠を他の奴に回すからな」
「はい! 必ず!」
ダリウスはエレナを丁寧に車椅子の魔導具に乗せると、何度も振り返りながら治療院を後にした。
静けさを取り戻した診察室で、俺は小さく息を吐き出した。
「アレン、顔色が……」
セリアが心配そうに覗き込んでくる。
「平気だ。ちょっと魔力を使っただけさ」
俺は軽く手を振ってごまかし、窓の外の夕闇を見つめた。
エレナの難病治療。それは、俺の魔力回路にとっても負担の大きい長期戦の幕開けだった。
だが、見捨てるという選択肢は最初から存在しない。
胸の奥に残る鈍い痛みをやり過ごしながら、俺は明日からの戦いを見据えて静かに目を閉じた。




