第12話
翌日の午後。約束の時間ぴったりに、ダリウスがエレナを連れてやってきた。
「先生、今日もよろしくお願いします」
車椅子の魔導具に座るエレナが、控えめに頭を下げる。昨日の治療で呼吸が楽になったおかげか、その顔色にはわずかながら生気が戻っていた。
「ああ。さっそく始めようか」
俺は診察台に彼女を移し、静かに目を閉じた。
エレナの体を蝕む病魔は、根が深い。表面的な症状を散らすだけなら造作もないが、完全に根絶するには彼女の生命力の奥底にまで干渉し、絡みついた病の根を一つずつ焼き切る必要がある。
それは、通常の治癒魔法とは比較にならないほど精密で、術者自身の魔力回路に過酷な負荷を強いる作業だった。
右手を彼女の胸元にかざし、魔力を流し込む。
途端に、俺の胸の奥でバチリと嫌な音が鳴った。ひび割れたガラスに無理やり熱湯を注ぎ込むような、鋭い痛みが走る。
奥歯を噛み締め、呼吸を細く保つ。額から冷たい汗が滲み出すのがわかった。
「……先生?」
エレナが不安げな声を漏らす。彼女の聡明な瞳が、俺の顔色の変化を逃さず捉えていた。
「無理を、していませんか。私のために……」
「馬鹿言え。ただの準備運動だ」
俺は無理やり口角を上げ、飄々とした声を作った。
「お前の病気はしぶといからな。少し気合を入れてるだけさ。ほら、息を吸って」
痛みを悟られないよう、慎重に魔力の出力を調整する。ひび割れた回路から漏れ出そうになる魔力を押さえ込みながら、病魔の根を一つ、また一つと確実に焼き切っていく。
永遠にも感じられる数十分の後、俺はゆっくりと手を離した。
「今日はここまでだ。よく頑張ったな」
「ありがとうございます……」
エレナは深く息を吐き出し、安堵の表情を浮かべた。ダリウスが何度も頭を下げながら彼女を連れて帰っていくのを見送り、俺は診察室の椅子にどさりと腰を下ろした。
「アレン、お茶を淹れました。少し休んでください」
セリアが心配そうにカップを差し出してくる。
「悪いな。ちょっと裏庭の様子を見てくる」
俺はお茶を受け取らずに立ち上がり、足を引きずるようにして裏口へ向かった。
◆ーーーー◆
裏庭に出た瞬間、張り詰めていた糸が切れた。
「ぐっ……」
膝から崩れ落ち、湿った土に手をつく。
胸の奥で、暴走した魔力が荒れ狂っていた。焼け焦げるような激痛に、視界がぐらりと歪む。
這うようにして薬草園の隅へ向かう。そこに植えてあるのは、一般的な傷薬の材料ではない。俺の破損した魔力回路を鎮静化させるためだけに育てている、特殊な薬草だ。
震える手で葉を数枚むしり取り、そのまま口に放り込んで噛み砕く。
強烈な苦味が舌を刺すが、構わず飲み込んだ。薬効が胃から全身へ広がり、荒れ狂っていた魔力が少しずつ凪いでいく。
荒い息を吐きながら、冷たい土の上に仰向けに転がった。
「……情けねえな」
空を見上げ、自嘲気味に呟く。
一日五人。それが今の俺の限界だ。エレナのような重症患者を診れば、その負担はさらに跳ね上がる。
「アレン……?」
不意に、背後から声が降ってきた。
弾かれたように身を起こすと、木戸のそばにリックとマリーが立っていた。マリーの手には、湯気を立てる鍋が握られている。差し入れを持ってきてくれたのだろう。
二人の目は、土にまみれ、青ざめた顔で座り込む俺を真っ直ぐに捉えていた。
「お前ら、いつからそこに……」
「今来たところさ。あんた、その顔色はなんだい」
マリーが鍋を近くの台に置き、ずかずかと歩み寄ってくる。
「いや、ちょっと立ちくらみがしただけだ。最近、寝不足でな」
俺は立ち上がり、服についた土を払いながらいつものように笑ってみせた。
しかし、リックは鋭い視線で俺の足元を指差した。
「立ちくらみで、そんな苦しそうに薬草をかじるのかよ」
「これは、その……新しい薬の味見だ」
「嘘つけ!」
リックの怒鳴り声が、裏庭に響いた。
「あんた、ずっと何か隠してるだろ! 俺の毒を治してくれた時も、他の奴らを診る時も、たまにすげえ辛そうな顔をしてる。一日五人しか診ないのも、その薬草を育ててるのも、ただの趣味なんかじゃない!」
「リックの言う通りだよ」
マリーが静かに、だが有無を言わさぬ声で続けた。
「あたしたちは、あんたに何度も助けられてきた。なのに、あんたが苦しんでる時に蚊帳の外ってのは、どうにも腹の虫が治まらないんだよ。話してごらん」
二人の真剣な眼差しに、俺は小さく息を吐いた。
これ以上、誤魔化しきれる相手ではない。それに、彼らには知る権利があるのかもしれない。
「……大げさな話じゃないんだ」
俺は近くの木箱に腰を下ろし、ぽつりと口を開いた。
「俺の魔力回路は、壊れてるんだよ」
リックが息を呑む音が聞こえた。
「大聖堂にいた頃の話だ。あそこには、毎日数え切れないほどの患者が押し寄せてきた。俺は、目の前で苦しむ奴を見捨てるのが嫌でな。自分の限界を超えて、無理やり魔力を引き出し続けた」
当時の記憶が脳裏をよぎる。終わりのない治療。権力闘争に明け暮れる上層部。そして、ある日突然、胸の中で何かが決定的に砕け散る音。
「結果として、回路が焼き切れた。今は、高出力の治癒魔法を安全に使えるのが、一日に五回まで。それが『一日五人』の理由だ。それ以上やれば、俺自身が壊れる」
俺は足元に生える薬草を指差した。
「こいつは、治療の後に暴れる魔力を抑え込むための鎮静剤だ。これがないと、まともに立ってることもできなくなる」
静寂が下りた。
マリーは口元を手で覆い、リックは拳を強く握りしめて俯いている。
「だから言ったろ、大げさな話じゃないって。ただのガス欠みたいなもんさ。自分のペースでやってりゃ、どうってことはない」
俺は努めて明るく言い放ち、立ち上がった。
「さあ、立ち話もなんだ。せっかくの差し入れが冷める前に……」
「ふざけんなよ」
リックの声が震えていた。
彼が顔を上げると、その目には涙が浮かんでいた。
「自分の身を削って……俺たちを助けてくれてたのかよ。俺、そんなことも知らずに、あんたのことを世界一の治癒師だって、あちこちで自慢して……」
「リック、それは……」
「あんたは馬鹿だ!」
リックが叫ぶ。
「なんで一人で抱え込むんだよ! 俺たちは、あんたに命を救われたんだぞ! 少しぐらい頼ってくれたっていいだろ!」
「そうさ」
マリーがリックの肩に手を置き、俺を真っ直ぐに見据えた。
「あんたは不器用で、お人好しすぎるんだよ。自分の痛みを隠して、他人の痛みばかり背負い込んで。……でもね、あたしたちはもう、あんたの秘密を知っちまった」
彼女は一歩前に出て、俺の胸元を指差した。
「これからは、あたしたちがあんたを守る番だ。あんたが一日五人の患者を安心して診られるように、周りの面倒事は全部引き受けてやる。だから、もう一人で無理をするんじゃないよ」
リックも力強く頷く。
「俺、もっと強くなる。あんたの治療院に手出しする奴がいたら、俺が全部ぶっ飛ばしてやるからな!」
二人の言葉に、俺は言葉を失った。
大聖堂を去ってから、ずっと一人で抱え込んできた秘密。誰にも理解されないと思っていた、壊れた魔力回路という欠陥。
それを知ってもなお、彼らは俺を哀れむのではなく、共に背負うと言ってくれた。
胸の奥で燻っていた痛みが、少しだけ和らいだような気がした。
「……勝手にしろ」
俺は照れ隠しに頭を掻き、そっぽを向いた。
「ただし、俺の邪魔だけはするなよ」
「わかってるさ。さあ、中に入ろう。冷めないうちに食べな」
マリーが笑い、リックが俺の背中を軽く叩く。
裏通りの小さな治療院。
ここはただの職場ではなく、俺が守り、そして俺を守ってくれる者たちがいる、確かな居場所になりつつあった。
夕闇が迫る空を見上げながら、俺は小さく息を吐き、二人の後を追って温かな光の漏れる扉へと歩き出した。




