第13話
夕闇が迫る空を見上げながら、俺は小さく息を吐き、二人の後を追って温かな光の漏れる扉へと歩き出した。
翌日の昼下がり。午前中の診療を終え、待合室の長椅子で背伸びをしたときだった。
「ほら、アレン! 今日は特別に精がつく肉の煮込みを持ってきたよ。冷めないうちにしっかり食べな!」
診察室の古い扉が勢いよく開き、湯気を立てる大鍋を抱えたマリーが乗り込んできた。香ばしい肉の脂と、裏通りでは珍しい香辛料の匂いが一気に部屋を満たす。
「おいおい、いくらなんでも量が多すぎないか? 昼からこんなに食えないぞ」
「何言ってんだい。あんたはもっと体力をつけなきゃ駄目なんだよ。昨日あんな顔色してたくせに、今日も朝から働き詰めじゃないか。リックだって心配して、朝早くから薬草園の水やりを手伝いに来てたんだからね」
マリーは俺の抗議など意に介さず、ずかずかと上がり込んでテーブルに鍋をドンと置いた。彼女は俺の魔力回路の欠陥を知ってからというもの、こうして何かと理由をつけては大量の食事を差し入れてくるようになった。
奥の部屋から、お盆に食器を乗せたセリアが現れる。
「マリーさんの言う通りです。あなたには十分な休息と栄養が必要です」
セリアは手際よく木の器を並べ、鍋からたっぷりと煮込みをよそっていく。その動きには一切の無駄がなく、かつて深々とフードを被り、庶民の常識にいちいち驚いていた世間知らずな面影は薄れつつあった。彼女が淹れる茶も、最初は茶葉の量を間違えて泥水のようなものを出してきたが、今では完璧な濃さと温度を保っている。
「お前まで……。俺は別に病気じゃないんだぞ。魔力回路が少しイカれてるだけで」
「ですが、限界を超えて魔法を使えばどうなるか、私にも想像がつきます。受付や掃除、薬草の仕分けといった雑務は私が完璧にこなしますから、あなたは治療にだけ専念してください」
セリアの真っ直ぐな視線に、俺は思わず言葉を詰まらせた。彼女には直接秘密を明かしたわけではないが、マリーたちとのやり取りや俺の様子から、事情を正確に察しているのだろう。
「……勝手にしろ」
照れ隠しに頭を掻き、俺は大人しく椅子に腰を下ろした。
三人でテーブルを囲む。マリーの特製料理は、よく煮込まれた肉が口の中でほろりと崩れ、相変わらず胃袋の底から温まるような美味さだった。
「どうだい? ちゃんと食えそうかい」
「ああ、悪くない。肉も柔らかいしな」
素直に頷くと、マリーは満足そうに目尻を下げた。セリアもまた、俺が匙を動かすのを見て安堵の息を吐いている。
かつて大聖堂にいた頃、食事はただの義務的な栄養補給でしかなかった。冷え切った広い食堂で、誰とも言葉を交わさずに流し込むだけの味気ない時間。高位の神官たちは派閥争いに明け暮れ、隣の席の人間が明日には左遷されているかもしれないような環境だった。
だが今は違う。狭い治療院の待合室には、温かい料理の匂いと、他愛のない笑い声が満ちている。
俺が守りたかったものは、案外こういう些細な日常だったのかもしれない。
「午後からは、ダリウスさんの娘さんの治療ですね。準備は私が済ませておきました。清潔な布と湯も用意してあります」
セリアが食後の茶を淹れながら、凛とした声で報告する。
「助かる。……無理はするなよ」
「それはこちらの台詞です」
セリアは小さく微笑み、俺の前に湯気を立てる茶を置いた。
俺は温かい茶をすすりながら、窓の外の青空を見上げた。壊れた魔力回路は元には戻らない。だが、この場所があれば、もう少しだけやれそうな気がした。
◆ーーーー◆
待合室の隅の長椅子で、私は周囲の患者たちに紛れるように息を潜めていた。
修道服の上から地味な外套を羽織り、顔を隠すように深くフードを被っている。手元には、偽名で書かれた軽い擦り傷のカルテ。
ビショップ司祭の命を受け、アレンの動向を探るためにこの治療院へ患者として潜入し始めて、数日が経っていた。
最初は、大聖堂を裏切った男が裏通りでどんな堕落した生活を送っているのか、その証拠を掴むつもりだった。規律を乱し、身勝手な理由で組織を飛び出した彼を、私は心の底から軽蔑していた。
だが、目の前で繰り広げられているのは、私の予想とはまるで違う光景だった。
「先生、本当にありがとうございました……! この子が助かるなんて、思ってもみなかった」
午後の診療時間。涙ながらに頭を下げる母親と、その腕の中で安らかな寝息を立てる子供に対し、アレンは気怠げに手を振った。
「大げさだな。熱が引いたとはいえ、まだ体力は戻ってない。さっさと帰って休ませろ」
ぶっきらぼうな口調だが、その声には確かな温もりがあった。
そして、彼が次の患者を呼ぶために奥の部屋へ引っ込んだ後、私は微かに乱れる魔力の残滓を感じ取った。
治癒魔法を専門とする私にはわかる。あれは、ただの魔法ではない。対象の生命力を感知し、そこに直接干渉する特級の技術だ。術者自身の生命力を削り、病魔ごと根治させている。
それを、彼は一日に五回も行っている。
魔力回路が悲鳴を上げているのは明らかだった。顔色は青白く、時折、隠すように息を乱している。彼が制限を設けている理由は、怠慢などではない。それ以上魔法を使えば、彼自身の命に関わるからだ。
「なぜ、あそこまで……」
私は無意識のうちに呟いていた。
かつて大聖堂で、彼が瀕死の騎士を無表情のまま一瞬で完治させたとき、私はその完璧な手技に密かに憧れを抱いていた。
だが今は、泥臭く、不器用で、それでいて誰よりも真摯に命と向き合っている。
周囲の人々が彼に向ける眼差しも、大聖堂のそれとは違っていた。
権力や保身のための媚びへつらいではない。純粋な敬意と、家族に向けるような深い愛情。受付の女性も、食堂の女将も、皆が彼を支えようと必死になっている。
その絆の強さに、私は胃の奥が冷たくなるような感覚を覚えた。自分が立っている場所の脆さを、突きつけられたような気がしたからだ。
脳裏に、ビショップ司祭の冷酷な声が蘇る。
『金のない平民など放っておけ。我々が救うべきは、大聖堂に貢献できる者だけだ』
大理石の床が磨き上げられた豪華な執務室で、彼は吐き捨てるようにそう言った。派閥争いに明け暮れ、患者を身分や献金の額で選別する大聖堂。
そして、裏通りの小さな治療院で、身を削って患者を救い続けるアレン。
どちらが真の治癒師の姿なのか。答えは、すでに私の心の中で出ているような気がした。
外套のポケットの中で、書きかけの報告書を強く握りしめる。指先が微かに震えていた。
これをビショップ司祭に提出すれば、アレンの平穏な日常は確実に破壊されるだろう。大聖堂は彼を異端として断罪するか、あるいは無理やり連れ戻して再び道具として使い潰すはずだ。
大聖堂の規律に従うべきか、それとも目の前の真実を信じるべきか。
「次の方、どうぞ」
受付の女性――セリアという名らしい――の凛とした声が響き、私はハッと我に返った。
「あ、いえ……私は、今日はこれで」
誤魔化すように立ち上がり、逃げるように治療院の扉を開ける。
「お大事になさってください」
背後からかけられた誠実な声に振り返ることもできず、私はポケットの中の報告書を握りつぶしながら、逃げるように裏通りへと飛び出した。
夕暮れの裏通りに出ると、冷たい風が火照った頬を撫でた。
アレンへの軽蔑は、いつの間にか確かな敬意へと変わっていた。彼がなぜ大聖堂を去ったのか、今なら痛いほどよくわかる。
だが、私には大聖堂で築き上げてきた立場と、守るべき信仰がある。彼のように、すべてを捨てて裏通りで生きる覚悟などない。
揺れ動く心を抱えたまま、私は石畳の道を歩き出した。
背後から聞こえる温かい笑い声が、いつまでも耳から離れなかった。




