第39話
翌朝、治療院の頑丈なオーク材の扉が、外側からの激しい圧力で軋んだ。
ドンドンと拳で叩く鈍い音が、路地裏の静けさを完全に粉砕している。隙間風に乗って流れ込んでくるのは、恐怖と絶望に駆られた人々の切迫した叫び声だった。
「開けてくれ! 頼む、黒枯れ病なんだ!」
「うちの亭主の腕が真っ黒に変色して動かないんだよ!」
「宮廷医術院からは門前払いを食らった! ここしか頼れる場所がないんだ!」
怒号と悲鳴が入り混じり、扉の隙間から細かな埃が落ちてくる。昨夜、下町に配った変異銀鈴草の株分けや、地下水脈の異変の噂が、夜明けとともに急速に裏通り全体へ広がった結果だった。
俺は調合台の上で清潔な白布を揃えながら、扉の方へ視線を向けた。昨夜のうちに大鍋の茶は一滴残らず底を突いていたため、今朝は夜明け前に裏庭の畝に残っていたわずかな葉をかき集め、かろうじて大鍋いっぱいの薄い煎じ茶を煮出しておいたのだ。だが、押し寄せる群衆を無秩序に迎え入れれば、狭い待合室は一瞬で恐慌に飲み込まれる。
「アレン様、私が参ります」
セリアが静かに進み出た。彼女は手早くエプロンの紐を締め直し、乱れのない足取りで玄関の閂へと向かう。昨日の今日で押し寄せる人々の切迫感は桁違いだったが、その横顔には、王宮仕込みの冷徹なまでの気品が宿っていた。
「無理はするなよ、セリア。危なくなったらすぐに下がれ」
「ご心配には及びません。この場所の秩序を保つことこそが、私の役目ですから」
セリアは息を吸い、迷いのない手つきで閂を外した。扉がわずかな隙間を開けた瞬間、前方に押し寄せていた数人の男たちが雪崩れ込もうとする。
「そこまでになさい!」
セリアの凛とした通る声が、路地の喧騒を鋭く切り裂いた。それは怒鳴り声ではない。だが、群衆の胸の奥底を直接揺さぶるような、有無を言わせぬ絶対的な威厳を含んでいた。
飛び込もうとした男たちが、気圧されたようにその場に立ちすくむ。
「ここは傷病者を救うための診療所です。昨日の混乱を繰り返すおつもりですか? 押し合いへし合いして怪我人を増やし、治療の場を乱すのなら、扉を完全に閉ざします」
セリアの毅然とした視線が、青ざめた民衆を一人ひとり射抜いていく。裏通りの住人たちも、普段の穏やかな受付嬢の纏う凄まじい気迫に、思わず息を呑んでいた。
「当院が受け入れられるのは、どんな日であっても厳格に定められた定員までです。例外はありません。ですが、命の瀬戸際にある方を放置するつもりもありません。重篤な方を前に通し、壁沿いに一列に整列してください。秩序を守れない方の診察は、一切お断りいたします」
群衆の中から不満の声が上がりかけたが、セリアは一歩も引かずに静かに佇み続けた。その揺るぎない防波堤のような佇まいに、やがて人々は顔を見合わせ、促されるように重傷者を前に送り出しながら列を作り始めた。
俺は待合室の小窓を開け、今朝未明にかろうじて煮出した貴重な変異銀鈴草の煎じ茶を、陶器のカップに注いで前方にいる者たちへ手渡していった。湯気とともに広がる澄んだ薬草の香りが、張り詰めていた人々の神経をわずかに解きほぐしていく。
列の先頭から、俺は冷徹な観察眼で患者たちの皮膚と呼吸を見極めた。
「あんたは息苦しそうだが、まだ魔力の循環は保たれてる。この茶を飲んで、家で安静にしてろ。……そっちの爺さんは皮膚の壊死が急速に進んでるな。入れ。……次、その子供を連れた母親、すぐ中へ」
感情を挟まず、極限の選別を行う。心苦しさはある。だが、全員を救おうとして共倒れになれば、誰も救えなくなる。かつて大聖堂で身をもって味わった苦い限界を、二度と繰り返すわけにはいかなかった。
五枠の枠板が埋まり、セリアが静かに扉を閉めた。
外にはまだ多くの人々が残されていたが、銀鈴草の茶を受け取ったことで、暴動のような混乱はひとまず鎮まっていた。
◆ーーーー◆
診察室に運び込まれた二人目の患者は、運河沿いの倉庫で働く四十前後の荷揚げ人だった。
男の左腕は、肘から指先にかけて炭のように真っ黒に変色し、皮膚の表面には無数の細かい亀裂が入っていた。亀裂の奥からは、膿ではなく、煤のような黒い微粒子が煙のように立ち上っている。
「う……ぐ……、熱い……腕の中に、火を突っ込まれたみたいだ……」
男は寝台の上で脂汗を流し、激しく喘いでいた。意識が混濁し始めている。
「じっとしてろ。今、熱を抜いてやるからな」
俺は男の左肩を軽く押さえ、右手の指先を立てた。魔力を極細の糸状に紡ぎ出し、炭化した皮膚の境界面へと慎重に滑り込ませる。
一般的な治癒魔法であれば、この患部を見た瞬間に切断を選択するだろう。組織が完全に死に絶えているように見えるからだ。だが、俺の知覚は、その奥で蠢く異常な構造を捉えていた。
「セリア、鑷子と遮蔽布を用意してくれ。それから、裏庭に残った葉から絞ったわずかな銀鈴草の青汁を滴下皿に」
「かしこまりました」
セリアが無駄のない動きで器具を並べ、男の患部の下に清潔な布を敷く。
俺は自らの生命活性魔力を、針の穴を通すような精密さで男の組織へと浸透させていった。患部の内部を走る魔力回路を、層ごとに丹念に紐解くように見極めていく。
昨夜、結晶を解析して突き止めた通り、この病は医術院が下町の地下水脈へ人為的に流し込んだ呪毒だ。だが、生きた人間の体内で蠢く現物は、事前の予想をさらに上回る凶悪さを見せていた。
「……なるほどな。体内に入ると、こういう動きをするのか」
思わず低い呟きが漏れた。
男の体内に侵入している病魔は、自然界に存在する毒素の類ではなかった。細かく枝分かれした黒い微細な結晶構造が、男自身の生体魔力の流れに食らいつき、その魔力を養分にして爆発的に自己増殖を繰り返しているのだ。
これは、魔力摂食性の呪詛術式だ。
体内の生体魔力そのものを燃料として燃焼させ、宿主の魔力回路を内側から炭化させながら拡大していく、古代の軍用呪詛。魔力を持たない生物には感染せず、わずかでも魔力を宿す人間ほど、急速に食い破られていく悪魔のような構造をしていた。
「アレン様、これは……?」
患部から立ち上る煤の異様な臭気を嗅ぎ取り、セリアが眉をひそめた。
「昨夜の結晶で見た通り、やはり医術院が仕組んだ人為的な呪毒だ。だが、思っていた以上に厄介だな……宿主の魔力を食って増殖する術式だ。井戸水から微量を取り込んだだけで、体内の魔力を燃料にして一気に燃え広がる」
下町の地下水脈を実験場に選んだのも、水を通じて多くの民へ均等に毒を行き渡らせ、生きた人間を標的にして呪詛の効能を確かめるためだったのだ。民の命を、恐るべき呪詛兵器を実用化するための使い捨ての検体として弄びながら。
怒りで視界が赤く染まりそうになるのを、俺は冷たい呼気とともに吐き出した。目の前の患者を救うことが先決だ。
「銀鈴草の搾り汁を、亀裂の中心に落としてくれ」
セリアが指示通りに透明な緑色の液体を滴下する。液体が黒い皮膚に触れた瞬間、ジュッと音を立てて白い蒸気が上がった。
変異銀鈴草が持つ特異な浄化作用が、呪詛の魔力摂食反応を一時的に麻痺させる。貪食が止まり、術式の結節点が浮き上がった一瞬の隙を、俺は見逃さなかった。
生命活性魔力を高密度で編み上げた光の刃を、患部の基部へと打ち込む。呪詛の根を宿主の生体回路から精密に切り離し、男自身の生命力を一気に跳ね上げた。
黒く炭化していた皮膚がボロボロと剥がれ落ち、下から赤みを帯びた新しい皮膚が急速に再生していく。男の荒い呼吸が次第に落ち着き、やがて安らかな寝息へと変わった。
「……よし、峠は越えた。脈も呼吸も安定している」
額の汗を白布で拭い、俺は息を吐いた。二枠目の治療が完了した。だが、病魔の凶悪な生態が判明したことで、胸の内に広がったのは安堵ではなく、鉛のような重苦しさだった。
対症療法で一人ずつ治していくだけでは、いずれ下町全体が食い尽くされる。元凶を根絶しなければ、この連鎖は止まらない。
◆ーーーー◆
その日の五人すべての診察を終えた頃には、西の空が赤黒い夕暮れに染まっていた。
裏庭の薬草棚を確認するため、俺は裏口から細い路地へと出た。ひんやりとした夕風が、火照った皮膚を撫でていく。壁伝いに置かれた植木鉢の土の湿り気を確認し、立ち上がったその時だった。
路地の曲がり角、壊れた煉瓦塀の影に、不自然な人影があるのに気づいた。
夕闇の中に浮き上がる、宮廷医術院の紋章が銀糸で刺繍された仕立ての良すぎる白い外套。銀縁の眼鏡の奥から、こちらを凝視している鋭い視線があった。
見覚えのない若い男だったが、その身なりからして、ベルナールら医術院に仕える宮廷医師の一人に違いなかった。
視線が交錯した瞬間、青年医師はハッとしたように身を引き、背を向けて逃げ去ろうとした。
「おい、待てよ」
俺が声をかけると、男の足がピクリと止まった。彼は忌々しそうに振り返り、胸元の白い外套をかき抱くようにして俺を睨みつけてきた。
遠目からでも、彼の異常な状態は一目瞭然だった。血走った眼、青ざめて窪んだ頬。そして何より、外套の袖から覗く彼の両手の指先が、目に見えて赤く腫れ上がり、痛々しくひび割れていた。
医術院の救療所で、休む間もなく粗雑な対症療法を繰り返させられ、強力な消毒液と魔力過剰で指先の皮膚が悲鳴を上げているのだ。その震える手先が、彼が現場でどれほど過酷な激務に追われているかを無言で物語っていた。
「……何の用だ、裏通りの町医者が」
男の声は枯れ果て、酷くかすれていた。敵意を露わにしているが、その底には隠しきれない極度の疲弊と動揺が滲んでいる。
「用があるのはあんたの方だろ。宮廷医師がこんな薄汚い裏通りまで、わざわざ偵察に来るなんてな。……その手、ちゃんと手入れしないと指が動かなくなるぞ」
俺が淡々と言うと、男は弾かれたように自分の両手を外套のポケットへと隠した。
「ふん、余計なお世話だ! 貴様のような無資格のモグリに心配される筋合いはない! ……僕はルシアン。宮廷医術院の医師だ。貴様らに忠告に来てやっただけだ。医術院の権威を舐めるな」
ルシアンと名乗った若き宮廷医師は、声を絞り出すようにして、早口に言葉を吐き捨てた。
「貴様らが下町で勝手な薬を配り、診察を続けていることは、既に上層部の知るところとなっている。医術院の統制を乱す分子を、組織がこのまま見逃すはずがないんだ……っ」
その瞳の奥には、俺への敵対心と同じくらい、医術院上層部に対する深い恐怖と、医療者としての葛藤が渦巻いていた。彼は何かに怯え、警告を発しながらも、自分自身を正当化しようと必死にもがいているように見えた。
「これ以上目立つ真似はするな。後悔することになるぞ……!」
ルシアンはそれだけ言い残すと、足をもつれさせながら路地の闇の中へと走り去っていった。
遠ざかる足音を聞きながら、俺は静かに腕を組んだ。彼の指先の荒れ方は、医術院の内部でも現場の医師たちが限界を迎えている証拠だった。だが、上層部はそんな現場の悲鳴を無視して、次なる手を打とうとしている。
夜の冷気が、路地裏を満たしていく。
ルシアンの残した警告の鋭さに、胸の奥で嫌な予感がざらりと音を立てた。医術院が下町に向けて繰り出してくる『公式の締め付け』の正体は、もはや単なる嫌がらせの域にとどまらないはずだ。




