第38話
冷え切った夜風が吹き抜けた後、裏庭には静まり返った闇が降りてきていた。
大鍋の底をごしごしと木べらで擦る鈍い音が、静寂の中に響く。腕まくりをしたトビーが、深い溜め息とともに顔を上げた。
「すっからかんじゃ。鍋底を舐めても、もう茶の一杯も出んわい。さっき見せた通り、変異株の畝も半分以上刈り取っちまったしの」
トビーが視線を向けた先には、まばらに千切れた茎と踏み荒らされた黒土が広がっていた。昼間のうちに押し寄せた町人たちへ振る舞うため、育っていた銀鈴草の葉を半分以上摘み取ってしまったのだ。
傍らに立つセリアが、薄暗がりの中で青ざめた顔を伏せる。
「私がもっと早く配分の調整をしていれば……。これでは、明日の朝にまた井戸水で苦しむ方々が来られた時、お出しできる煎じ薬がありません」
「自分を責めるなよ、セリア。あんたが手際よく捌いてくれたから、昼間の混乱で怪我人が出ずに済んだんだ」
俺は腰を落とし、湿った黒土に両手を差し入れた。指先で土を払い、地中に残された株の感触を確かめる。
「トビー、葉は刈り取られたが、根はしっかり生きているぞ。変異種は生命力が桁違いに強い。むしろ、適度に間引かれたことで株自体は若返っているくらいだ」
「生きてはおってもな、育つのを待つ間はどうする気じゃ? うちの庭だけで賄おうとしたって、下町中の喉を潤すにゃ広さが足りん。取水塔を塞がれ、井戸水まで呪毒に冒されたとあっちゃ、明日も明後日も持たんぞ」
老薬師のぼやきは至極もっともだった。だが、俺は土の付いた根株を小刀で手際よく四つに切り分けながら、軽く肩をすくめた。
「なら、庭を広げればいい。この敷地の外までな」
「はあ? 隣の空き家でも買い取る金があるっちゅうのか」
「そうじゃない。治療院だけで抱え込むから足りなくなるんだ。この変異株は、日当たりと適度な水さえあれば素人の軒先でも簡単に根付く。下町の連中の手を借りるのさ」
俺が持ち上げた根株を素焼きの小鉢に据えると、セリアがハッと目を見開いた。
「街の人たちに、苗を託すのですか……?」
「ああ。各々の家や仕事場で一鉢ずつ育ててもらえれば、いざという時の蓄えになる。俺たちが毎回大鍋で煮出さなくても、自分たちで茶を煎じて身を守れるだろ」
トビーが片眼鏡を指で押し上げ、呆れたように、しかし口元を緩めて唸った。
「なるほどな。医術院が締め付けを強めて薬草を買い占めようが、路地裏のそこら中に苗が散らばっちまえば、奴らも手を出せんわい。根絶やしにするのは不可能じゃ」
「そういうことだ。さあ、土が乾かないうちに鉢へ移すぞ。手を動かしてくれ」
三人がかりで作業を進めるうちに、作業台の上には青白い葉芽を宿した小さな鉢植えがいくつも並んでいった。
待合室の扉が遠慮がちに叩かれたのは、作業がひと段落した頃だった。
板戸の隙間から顔を覗かせたのは、大きな工具袋を肩に担いだダリウスと、湯気を立てる木桶を抱えたマリーさんだった。
「夜分にすまねえ、アレン先生。まだ起きてるかい?」
「お邪魔するよ。昼間のお茶のお礼に、みんなで少しばかり腹の足しになるもんを作ってきたんだ」
待合室のランプに照らされた二人の表情には、昼間の切迫した影は消え、穏やかな色が戻っていた。マリーさんがテーブルに置いた木桶からは、干し肉と根菜を煮込んだ温かいスープの香りが立ち上る。
「マリーさん、ダリウスさん。わざわざすまないね」
「何言ってるのさ。礼を言わなきゃいけないのはこっちだよ。あのお茶のおかげで、井戸水を飲んで倒れかけてたうちの若い衆も、すっかり腹の痛みが引いたんだから」
ダリウスも深く頷き、太い腕を組んだ。
「大聖堂の門前払いに続いて、今度は医術院の法外な水代だ。俺たち下町の職人は、もう王都の偉い連中には何の期待もしていねえ。だが、先生がいてくれたおかげで、今日を生き延びられた」
「礼なら十分受け取ったよ。それより、ちょうどいいところに来てくれた。二人に頼みたいことがあるんだ」
俺は裏庭から運んできた十数個の鉢植えを、診察台の上に並べた。青白い微光を帯びた丸い葉が、室内の明かりの下でかすかに揺れる。
「これは……裏庭の薬草かい?」
マリーさんが不思議そうに葉へ触れようとして、そっと指を止めた。
「昼間に配った特製茶の原料だ。変異した銀鈴草でね、毒を吸い取って散らす性質がある。これを、下町の信頼できる連中に配って育ててほしい」
俺の言葉に、ダリウスが目を見張る。
「俺たちに、この貴重な薬草を?」
「治療院の敷地だけじゃ、街中の分を賄い切れないんだ。幸い、こいつは下町の土でも勝手に増えるほど頑丈だ。井戸水を使う前に、各自でこの葉を一枚浮かべて湯を沸かしてほしい」
ダリウスは鉢植えをじっと見つめた後、無骨な手でしっかりと小鉢の縁を掴んだ。
「分かった。木工仲間や鍛冶屋の連中に、明日の朝一番で配って回る。手入れの仕方も俺がきっちり叩き込んでおくよ。先生一人に重荷を背負わせるわけにはいかねえ」
「あたしの食堂でも裏手の日当たりがいい場所に置くよ」マリーさんがエプロンで手を拭いながら、力強く微笑んだ。「井戸を使う連中には、あたしからしっかり言い聞かせるさ。薬草を浮かべて煮沸してから口にしなさいってね。下町の結束を舐めてもらっちゃ困るよ」
「助かるよ。頼りにしてる」
「任せときな。これくらいしか恩返しできねえんだ」
ダリウスは笑い、素焼きの鉢同士がぶつからないよう藁を挟んで麻袋へ手早く詰め込んだ。
公的な機関がどれほど冷酷に民を切り捨てようと、この裏通りには、互いの傷を埋め合う確かな生活の知恵と絆が息づいていた。
二人が鉢植えを抱えて帰路につき、治療院の周囲が深い静寂に包まれた深夜。
俺は調合室の机に向かい、昼間の患者の患部から採取した微小な黒い結晶を銀の平皿に載せた。
戸口のカーテンを引いて、セリアが静かな足取りで入ってくる。彼女の手には、湯気を立てる質素な白湯の入った器があった。
「アレン様、少しお休みになられては……」
「これの正体だけは、今夜中に確かめておきたいんだ」
俺は右手をかざし、指先から魔力の糸を極めて細く紡ぎ出した。青白い光の筋が、黒い結晶の周囲を幾重にも取り囲む。
かつて大聖堂で培った解析の術式。今は過剰な負担をかけることなく、指先一本の制御で淡々と対象の構造を解きほぐしていく。
針先ほどの結晶が魔力に触れてパチリと弾け、幾重にも重なる術式の膜が剥がれ落ちていった。
「これは……」
セリアが息を呑み、皿の上の光景を凝視する。
黒い澱みの中心から現れたのは、自然界の毒素にはあり得ない、冷徹な幾何学模様の魔法陣だった。八角形の輪郭の中に、緻密な階層構造を描く制御術式。
そしてその最奥には、小さな意匠が浮かび上がっていた。天秤と白百合を象った、王立宮廷医術院の秘匿印章。
「古代の呪毒をただ撒いたんじゃない。意図的に希釈し、水に溶けやすく、かつ特定の魔力波長で活性化するように調整されている」
俺は静かに魔力の糸を収め、平皿の上に残った灰を布で拭い去った。
「過失でも事故でもない。宮廷医術院は最初から、下町の地下水脈を使ってこの毒の効能を確かめていたんだ」
「そんな……。人の命を救うはずの方々が、どうしてこのような惨い実験を」
セリアの声がかすかに震えていた。怒りというよりは、あまりの理不尽に対する深い困惑が彼女の瞳を曇らせている。
だが、俺の胸の中にあったのは、激昂ではなく澄み渡るような冷たさだった。
大聖堂にいた頃から、上層部の腐敗は見てきた。民の命を数式のように扱い、自らの権威と利益の天秤にかける手口は、場所が変わっても何一つ変わっていない。
「あいつらが何を企んでいようと、俺たちがやるべきことは決まってる」
俺は窓の外に目を向けた。暗闇に沈む下町の家々には、今ごろ幾つもの窓辺に、小さな銀鈴草の鉢が置かれているはずだ。
「力づくで押し通そうとする連中のやり口に、付き合う義理はない。俺はこの小さな場所で、手の届く連中を確実に守るだけだ」
セリアが俺の顔を見つめ、やがてその表情から迷いが消えていく。彼女は背筋をすっと伸ばし、いつもの凛とした受付嬢の顔で静かに頷いた。
「はい、アレン様。私も、この治療院と、下町の皆様の暮らしを共にお守りいたします」
風が吹き抜け、調合室の窓ガラスを静かに震わせた。
夜はまだ深い。だが、暗闇の中で息づく裏通りの明かりは、誰にも踏みにじらせはしない。俺は冷めた白湯を一口飲み干し、穏やかな心持ちで明日の診療の準備を整え始めた。




