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第37話

夜明けの冷気がまだ石畳の隙間に白く澱んでいた。


治療院の土間に立ち、作業台の上のガラス瓶を拭き清めていると、表の通りから粗い足音が響いてきた。息を切らし、靴底を擦り減らすような切迫した音だ。


扉が叩かれるより早く、俺は掛け金を外した。


「アレンさん、大変だ!」


飛び込んできたのはリックだった。擦り切れた革鎧の胸当てを上下させ、額に滲んだ汗を乱暴に腕で拭う。肩で息をする若者の背後から、裏通りの湿った朝風が流れ込んできた。


受付の奥からセリアが顔を出し、静かに陶器のカップを差し出した。


「落ち着いて、リック。何があったの?」


「水だよ、水! 宮廷医術院の連中が、下町の取水塔を鉄格子で塞ぎやがったんだ。浄水魔法の維持費だとか抜かして、樽一杯につき銀貨三枚払えって言ってる! 平民にそんな大金払えるわけねえだろ!」


セリアの手元がかすかに止まった。差し出したカップを机に置く指先が、わずかに強張る。


「銀貨三枚……それほどの額を、日々の生活水に要求するなど暴挙です。それでは誰も清流水を買えません」


「ああ、だからみんな、南の古い共有井戸に殺到してる。あそこは昔の下水溝のすぐ脇だぜ? ドロ臭くて誰も使わなかった水なのに、それしか飲むもんがねえんだよ」


リックの吐き捨てるような言葉に、昨晩の地下から漂っていた澱んだ気配が脳裏をよぎる。


医術院が下水道を封鎖した真の意図が、早くも形を取り始めていた。浄化の名目で生活の生命線を締め上げ、金のない者を危険な濁り水へと追いやる。そうして起こる混乱など、連中の頭には入っていないのだ。


「セリア、裏庭の大鍋を出してくれ。トビーが来たら、変異銀鈴草の葉を刻んで湯を沸かすように頼む」


「アレン様、それは……」


「嫌な予感がする。リック、その井戸へ案内しろ」


俺は麻の外套を羽織り、履き古した革靴を履いて治療院を出た。



朝の光が斜めに差し込む共有井戸の広場は、怒号と悲鳴で埋め尽くされていた。


錆びついた手押しポンプの周りに、桶や瓶を手にした下町の住民が何重にも群がっている。だが、その手前には槍を構えた私兵たちが並び立ち、冷ややかな壁を築いていた。


私兵の背後で、仕立ての良い白い医師服を着た恰幅のいい男が、上等な絹のハンカチで鼻口を押さえている。宮廷医術院の監察官、ベルナールだった。丸々と肥えた頬に、蔑みの色が露骨に張り付いている。


「下がれ、汚らわしい連中め。この井戸の利用を黙認してやっているだけでも、医術院の寛大さに感謝すべきだろう」


「ふざけるな!」


群衆の前で、食堂のマリーさんがエプロンを握りしめて叫んだ。


「取水塔を勝手に塞いでおいて、どの口が言うんだい! こんな濁った泥水を子供に飲ませろって言うのか!」


ベルナールはハンカチ越しに小さく鼻を鳴らした。


「身の丈に合わぬ清流水を望むのが間違いなのだよ。金が払えぬなら、それ相応の水を口にするのが道理というものだ。濁り水を飲んで腹を下そうが、それは自己責任というものだろう」


嘲弄を含んだ声に、押し寄せた住人たちから激しい罵声が飛ぶ。私兵たちが一斉に石突きで地面を叩き、鋭い金属音が広場を威圧した。


人垣の外縁に、薬草籠を背負ったトビーが立っていた。片眼鏡の奥の目を険しく細め、俺が近づくのを待って低く呟く。


「……ひどいもんじゃな、アレン。あれを見よ」


トビーが顎で指したのは、足元にこぼれ落ちた汲みたての井戸水だった。


一見すると、単に泥が混じっただけの濁水に見える。だが、しゃがみ込んで指先をかざすと、皮膚の奥に針で刺されたような冷たい感覚が走った。


水中に、極めて微細だが確実に混ざり合っている。地下水脈を通じて染み出した、あの古代の呪毒だ。人為的に希釈され、下町全域の古い井戸へと広がり始めている。


「飲んだ奴らはどうなる」


俺の問いに、トビーが白髭を噛み締めた。


「抵抗力のない年寄りや子供からやられるわい。微弱じゃが、体内に蓄積すりゃ黒枯れ病の引き金を引くのは時間の問題じゃ」


ベルナールは平民たちの怒りを浴びながらも、退屈そうに袖口の汚れを払い、護衛に守られながら広場を去ろうとしていた。力尽くで引き留めることなどできない。彼らは法の枠組みを盾にし、平民の命を値踏みしているのだ。


手出しのできない無力感が、重苦しい鉛のように胸の底に溜まる。


「トビー、治療院に戻るぞ。そろそろ来る」


俺の言葉が終わらぬうちに、広場の端で桶を抱えていた男が、喉を押さえてその場に倒れ込んだ。



昼過ぎには、治療院の前は黒山の人だかりとなっていた。


「腕が熱いんだ、急に真っ黒な斑点が出てきやがった!」

「喉が焼けるように痛い! アレン先生、助けてくれ!」


狭い路地を埋め尽くす住民たちの叫び声。セリアが門前に立ち、凛とした通る声で人々を押し留めていた。


「皆さん、押さないでください! 順番を守ってください、診察できる数には限りがあります!」


高貴な生まれの彼女が、怒号渦巻く平民たちを前に一歩も退かずに立っている。だが、その瞳の奥には隠しきれない痛ましさが滲んでいた。


俺は診察室の扉を開け、最も顔色の悪い、呼吸を乱した青果商の男を招き入れた。本日の四人目の患者だ。


診察台に腰掛けさせた男の腕をめくると、以前に荷車で擦りむいたという古傷の周囲が、赤黒く腫れ上がっていた。皮下を這う血管が黒ずみ、微弱な黒枯れ病の病巣が形成されつつある。


「痛えよ、先生……ただの擦り傷だったはずなのに、あの井戸水を飲んで傷を洗ったら、急に……」


男の腕にそっと手を添え、意識を沈める。


患部の深層に触れた瞬間、指先にざらりとした感触が伝わった。以前、新米冒険者の打撲傷の奥に見つけたものと酷似している。あの時は微小な違和感に過ぎなかった歪な魔力痕が、汚染された水を取り込んだことで急激に活性化し、組織を蝕んでいた。


やはり偶然ではない。大聖堂から医術院へと引き継がれた術式の残滓が、水を通じて人々の傷口を選び、毒を根付かせているのだ。


俺は息を整え、掌に集中させた生命活性の力を患部へ流し込んだ。黒ずんだ血管が淡い光を帯び、澱んでいた異常魔力が霧散していく。腫れは引き、肌は見る間に健康な血色を取り戻した。


「あ……痛みが、消えた……」


男が呆然と自分の腕を見つめる。これで四人目。そして次の重症者を受け入れれば、今日の五枠は完全に埋まる。


だが、外にはまだ数十人の住民が立ち尽くしているのだ。


「セリア、トビー! 湯が沸いたな。大鍋を玄関前へ運ぶぞ」


五人目の処置を終えた後、俺は裏庭で煮出していた大鍋を土間へと運び出させた。


立ち上る湯気と共に、澄んだ青草の香りが治療院を満たす。変異銀鈴草を刻み、じっくりと魔力を通しながら煎じた特製茶だ。


玄関の扉を開けると、絶望に暮れていた町人たちが一斉に顔を上げた。


「今日の診療枠はここまでだ。だが、喉の渇きや軽い痛みがある奴は、これを一杯ずつ飲んでいけ」


リックが器を配り、セリアが柄杓で温かい茶を注いでいく。押し合おうとする人々をトビーが怒鳴りつけ、列を作らせた。


疑心暗鬼のまま茶を口にした中年の女性が、ふと足を止めた。


「あら……胸のつかえが、すっと消えていく……?」


「おい、見ろ! 手の甲の黒い滲みが薄くなってるぞ!」


茶を飲み干した人々の皮膚から、微弱な黒い気配が淡い燐光となって空気中に溶け出していった。体内に潜んでいた初期の呪毒が、変異銀鈴草の触媒効果によって中和され、霧消していく。


「治った……本当に効いたぞ!」

「アレン先生、ありがとう! 神様だ、あんたは下町の救い主だ!」


空の器を抱えて涙ぐむ者や、泥のついた額を擦りつけて拝む者たちで、狭い路地は一気に沸き立った。


だが、感謝の言葉を浴びる俺の胸中は、少しも晴れなかった。



夕暮れが路地を赤黒く染める頃、ようやく人波が引いた。


空になった巨大な鉄鍋が、土間に冷たく鎮座している。セリアが疲れを見せまいと背筋を伸ばしながら、鍋の底を布で拭っていた。


俺は裏庭へ出た。後からついてきたトビーが、足元を見下ろして低く息を吐く。


「……持たんぞ、アレン」


トビーの言う通りだった。昨晩あれほど丁寧に株分けし、青白い光を揺らしていた変異銀鈴草の畝が、今日一日で半分以上も刈り取られていた。茶を振る舞うために、成長した葉を根こそぎ使ってしまったのだ。


土に残された苗は頼りなく、次の収穫までには到底時間が足りない。


「今日配った茶は、あくまで体内の毒を洗い流しただけだ。明日もあの井戸水を飲めば、また同じ症状が出る」


俺は屈み込み、湿った黒土に指を埋めた。


土の底、遥か地下深くから、微かな振動が伝わってくる。


規則的で、人為的で、冷酷な魔力の脈動。医術院が仕掛けた呪毒の根源が、下水道の暗渠の奥で脈を打ち、王都の地下水脈を刻一刻と黒く染め上げている。


対症療法で茶を配り続けたところで、この小さな庭の薬草が尽きれば終わりだ。下町の人々の生活水が断たれている現実は、何一つ変わっていない。


「アレン様……」


庭口に立ったセリアが、不安げにこちらを見つめていた。夕闇が彼女の横顔に濃い影を落としている。


目の前の数人を救う術はある。だが、街全体を飲み込もうとする濁流の前に、俺たちが立っている足場はあまりにも脆く、狭かった。


冷え切った夜風が吹き抜け、刈り取られた銀鈴草の茎を小さく揺らした。

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