第36話
午後の光が傾き、診察机の上に細長い影を落としていた。
「はい、これで手当ては終わりだ。無理に重い槌を振るなよ。あと二日は冷水で患部を冷やして、手をしっかり休めること」
「おお……痺れと熱が綺麗に引いてる。助かったよ、アレン先生! 工房の鍛冶仕事が滞るところだった」
鍛冶職人の男が、火傷と筋違いの手当てを受けた太い腕を軽く回し、驚いたように破顔した。銅貨を数枚トレイに置くと、軽快な足取りで待合室へと去っていく。
蝶番が軋む音とともに木の扉が閉まるのを聞きながら、俺は軽く肩を回した。魔力回路の巡りは滑らかだ。過剰な負荷をかけず、丁寧に生命力を整える感覚が指先に心地よく残っている。
昨夜、奥の部屋に泊めていたハンスとガルドの二人は、今朝方にはすっかり呪毒の熱も引き、血色を取り戻してそれぞれの家へ戻っていった。寝台のシーツも綺麗に整えられ、治療院にはいつもの穏やかな空気が戻っている。
「アレン様、お疲れ様でした。これで本日の枠は、残り一名となります」
受付カウンターの帳簿から顔を上げたセリアが、穏やかな笑みを向けた。手元に置かれた羽ペンを几帳面に揃え、本日の記録にさらさらとインクを走らせている。
「了解した。急患が来なきゃ、日暮れには閉められそうだな」
俺は診察室の裏窓から裏庭の木枠を見下ろした。以前に市場で買い求めて植え直した銀鈴草は、一夜にして変異を遂げ、銀青色の葉に白銀の筋をくっきりと浮かび上がらせている。昨夜はその葉を一枚摘んでハンスたちの解毒茶に使ったが、株自体は毒素を吸い上げた痕跡も残さず、みずみずしい光を木漏れ日に揺らしていた。
無理をせず、余力を残す。かつての大聖堂で身を削り尽くした過ちを繰り返さないためにも、この規律だけは崩すわけにいかない。
そう思いながら窓を閉めようとした瞬間、表の路地から低く擦れた咳払いが聞こえた。
単なる風邪の咳ではない。肺の奥に煤でも詰まったかのような、湿り気と重苦しさを帯びた呼吸音だった。
受付カウンターにいたセリアが身を乗り出し、開いた玄関の向こうの通りへと不審そうに視線を向けている。
俺は地味な麻の服の袖を整え、玄関の扉を押し開けて外へ出た。
夕暮れの薄紅が差し込む裏通りの石畳に、一人の男が壁に背を預けてへたり込んでいた。仕立ての良い白外套は泥と煤で薄汚れていたが、襟元に見える精緻な金糸の刺繍が、宮廷医術院の正規医師であることを雄弁に物語っている。
「……あんた、そこで何してる」
声をかけると、深く被っていた外套のフードが揺れた。銀縁の眼鏡の奥から、充血した瞳が俺を射抜く。
ルシアンだった。
市場で顔を合わせたときは、迷信じみた呪術まがいの治療だと俺を冷淡に見下していた青年だ。しかし今の彼には、あの整然とした冷徹さは微塵も残っていなかった。頬はげっそりとこけ、唇は乾いてひび割れている。何より異様だったのは、彼が抱え込むように押さえている右手だった。
「……見世物ではない。立ち去れ、町医者」
掠れた声でルシアンが言い放つ。だがその呼吸は浅く、額には脂汗がびっしりと浮いていた。彼が身じろぎした拍子に、上質な革手袋の隙間から覗いた皮膚が目に入った。
指先が、赤黒く炭化しかけていた。
微弱だが紛れもない、あの呪毒の気配。皮膚が硬化し、内側から生命力が削り取られていく独特の爛れが、爪の生え際まで侵食している。
「強がりを言える状態じゃないだろ。五人目の診察だ。入れ」
「ふざけるな……! 宮廷医師が、このような不潔な陋屋に這入るなど……」
「患者が医者を選べても、病気は患者を選ばない。それとも、その指を根元から切り落とす覚悟がもうできてるのか」
淡々と告げると、ルシアンの喉が小さく鳴った。屈辱と恐怖に揺れる瞳を見返しながら、俺は扉を大きく開け放った。
受付から出てきたセリアが無言で会釈し、ルシアンの背後から手を貸そうとしたが、彼はそれを頑なに拒絶し、ふらつく足取りで待合室の敷居を跨いだ。
診察室の丸椅子に腰を下ろしたルシアンは、荒い息を繰り返しながら、痛む右手を膝の上に固く握りしめていた。
「手袋を外せ」
「……触れるな。他者へもうつる呪毒の壊疽だ。お前のような下級の治癒師が軽率に手を触れれば、その身まで穢れに冒される」
「なら、あんたの手がそうなってる理由を説明してもらおうか。医術院の立派な術式防護服を着ていて、どうして現場の医師がそんな毒に蝕まれてる?」
俺の問いに、ルシアンの唇がわなないた。答えられないのだ。それが過酷な激務と、隠蔽工作の最前線で浴びせられたものだと、己のプライドが認めることを拒んでいる。
彼の手を無理に取ろうとはせず、俺は作業台に向かった。採取し、乾燥させて細かく刻んでおいた変異銀鈴草の葉をひとつまみ、陶器の小鍋に落とす。湯を注ぎ、微小な魔力を通して短時間で成分を抽出した。
立ち上る湯気は、裏庭に咲く草花特有の、冷涼で澄んだ香りを帯びている。茶器に注ぎ、診察机の上にことりと置いた。
「飲め」
「……毒見もされていない民間薬など、口にできるか」
「変異銀鈴草茶だ。毒を吸着して変質した薬草から淹れた。あんたの血肉を焼き尽くそうとしてるその煤を、体の中から洗い流す」
ルシアンは銀縁眼鏡を押し上げ、湯気を立てる茶を睨みつけた。猜疑心と激痛の狭間で葛藤していたが、やがて脂汗に濡れた震える左手で茶器を掴み、一気に喉へと流し込んだ。
直後、ルシアンの動きが凍りついた。
「……な……」
声が漏れると同時に、彼の右腕から微かな燐光が立ち上った。皮膚の下で暴れていた黒い澱みが、胃の腑から広がる冷涼な魔力に触れた瞬間、朝露が日に溶けるように霧散していく。爪の生え際を覆っていた赤黒い炭化が薄らぎ、血色の良い柔らかな肌が急速に取り戻されていった。
わずか数秒。呼吸を一つ置く間に、彼を苛んでいた激痛が完全に消失していた。
ルシアンは目を見開き、自身の右手を凝視した。指を曲げ、伸ばし、手のひらを裏返す。荒れ果てた皮膚の質感だけを残し、あの悪夢のような呪毒の痕跡は綺麗さっぱり消え去っていた。
「あ、あり得ない……。壊死組織の切除も、高純度の聖水洗浄も施さずに……なぜだ? いかなる術式だ……!」
「術式じゃない。草を煎じて飲ませただけだ」
俺が椅子を引き戻して座ると、ルシアンは取り乱したように立ち上がった。陶器の茶器がカタカタと音を立てる。
「出鱈目だ! 院長も総監も、この病変には既存の解毒薬が一切通用しないと結論づけた! だからこそ、隔離と隠蔽を……現場の我々に、効きもしない防護呪文を維持させながら、泥水を掻き出させているというのに……!」
叫びかけたルシアンは、自らの失言に気づいたように息を呑み、口元を手で覆った。
「……そうか。医術院の連中、特効薬もなしに現場を使い潰してるのか」
俺が静かに返すと、ルシアンの顔から血の気が引いていった。組織の欺瞞、己が信じてきた権威の空虚さ、そして目の前で起きた説明のつかない奇跡。それらが一挙に押し寄せ、彼の誇りを無残に砕いていた。
「私は……何も言っていない。貴様のような路地裏のペテン師に、施しを受けた覚えなどない……!」
ルシアンは激しく首を振ると、乱れた足取りで診察室を飛び出していった。蝶番の軋みとともに扉が乱暴に閉まり、待合室を駆け抜けていく足音が遠ざかる。
セリアが静かに診察室へ入ってきて、空になった茶器を盆に乗せた。
「追いかけなくて、よろしいのですか」
「いいさ。命の危機は脱した。あとは、あいつ自身が何を信じるかの問題だ」
日の光は完全に沈み、外からは夜の冷たい風が吹き込み始めていた。今日の枠は、これでちょうど満ちた。
夜、居間の卓には湯気を立てる大きな鉄鍋が置かれていた。
「はいはい、熱いうちに食べな! 下町の牛すじと根菜を丸一日煮込んだんだ、精がつくよ」
食堂のエプロンをかけたマリーさんが、豪快にお玉を振るってシチューを深皿に取り分けてくれる。濃厚な香草と肉の匂いが、冷えた室内に広がった。
「かたじけない、マリー殿。……アレン殿、表通りの検問が厳しさを増している。医術院の息がかかった衛兵が、下水溝の周囲に防壁を築き始めているようだ」
鎧の擦れる音を微かに鳴らしながら、レオンが渋い面持ちでスプーンを取った。彼は夜警の合間に、裏通りの巡回を怠らず続けてくれている。
「朝方無事に帰っていったハンス殿たちも、街の不穏な空気に不安を漏らしておられました。ルシアン医師の様子を見るに、医術院の内部も一枚岩ではないようですね」
セリアがパンを千切りながら、静かに言葉を継いだ。
「現場の医師に責任を転嫁し、混乱を力ずくで押し込めようとしている。焦っている証拠です。ですが……彼らが次に何を仕掛けてくるか」
「下水溝の封鎖だけじゃ収まらないだろうな。原因を外に押し付けようとしてる」
俺はシチューを口に運んだ。染み渡る温かさが、張り詰めた神経をほどいていく。もし昔のように、一日に何十人もの患者をがむしゃらに診ていたら、こうして落ち着いて飯を食う余裕も、迫る異変を観察する時間も持てなかったはずだ。
制限を課し、余力を手元に残す。だからこそ、相手の足元を見極め、次の一手を打つための思考を保つことができる。
夕食を終えた後、俺たちは裏庭へ出た。レオンがランタンを掲げ、セリアが小さな移植ごてを手にする。マリーさんも「あたしにゃ難しい魔法は分からないけどね」と言いながら、苗床の土を運ぶのを手伝ってくれた。
夜風の中、変異銀鈴草の群生が、淡い青白い光を灯していた。
「株分けを急ごう。この草が、下町全体を救う唯一の防壁になるかもしれない」
俺が言うと、セリアが力強く頷き、丁寧に根を掘り起こしていった。仲間たちと共に土を弄り、命を繋いでいく作業は、静かで確かな熱を帯びていた。
だが、作業の手を止めて夜空を見上げたとき、微かな異臭が鼻腔をかすめた。
下水から漂う腐敗臭とは違う。もっと深く、地下水脈そのものが澱み、冷たく腐敗していくような――得体の知れない魔力の揺らぎ。
医術院が下水道を塞ぎ、その奥で何を堰き止めているのか。暗闇に沈む王都の底で、より巨大で冷徹な企みが、着実に輪郭を現そうとしていた。




