第35話
裏庭へと通じる勝手口の扉を開け、外の空気を吸い込もうとしたその時だった。
「……おいハンス、本当に腕が元通りになったんだな。夢じゃねえよな」
診察室の奥で、巨躯を屈めたガルドが、相棒の肩を抱きかかえるようにして何度も覗き込んでいた。ハンスをここまで背負って駆け込んできた鍛冶屋の親方は、まだ信じられないといった面持ちで、熱い吐息を漏らしている。
「夢なもんかい、ガルド。指の先までちゃんと温けえよ……アレン先生のおかげだ」
ハンスは真新しい皮膚に覆われた右腕を確かめるように握り締め、深く頭を下げていた。先ほど床に額をつけて泣き崩れたばかりだが、その瞳にはようやく生きる気力が満ちている。
「二人とも、まだ油断は禁物だぞ。腕の組織は再生したが、体力はごっそり削られてる。急に動いちゃ駄目だ」
俺は手に持った小さな硝子瓶を軽く揺すりながら声をかけた。瓶の中には、ハンスの患部から摘出したばかりの、小指の爪ほどの大きさの黒い結晶片が収まっている。密閉された瓶の中でも、その結晶は不気味な微弱の拍動を続けていた。脈打つたびに、硝子の内壁をじりじりと腐食させるような濁った気配を放っている。
「ハンスさん、ガルドさん。温かいハーブティーを淹れました。少しでも胃を温めて、落ち着いてくださいね」
セリアが陶器のカップを二つ載せたトレイを運び、柔らかな笑みを向ける。ガルドは太い手で申し訳なさそうにカップを受け取り、ハンスもまた両手でカップを包み込むようにしてすすった。
「すまねえ、嬢ちゃん……何から何まで世話になっちまって」
その安堵の空気を切り裂くように、表の通りから硬質な金属音が響いてきた。
規則正しい複数の足音。石畳を無遠慮に踏み鳴らす革靴の底に、鉄の鋲が打たれている音だ。ただの町人の往来ではない。
診察室の隅に控えていたレオンの眉根が、鋭く跳ね上がった。彼は無言のまま腰の長剣の柄に指を掛け、窓の隙間から外の気配を伺う。
「……アレン殿、セリア殿。表に不審な一隊が接近している。足取りから見て、宮廷医術院の息がかかった衛兵だ」
「医術院……? もう嗅ぎつけてきたのか」
俺が眉をひそめると同時に、待合室の正面扉が乱暴に蹴破られるような勢いで開け放たれた。
◆ーーーー◆
鈴の甲高い警戒音が響き渡り、荒々しい怒声が静かな治療院を震わせた。
「ここだな! 下水道の汚染源を匿っている無認可の治療所というのは!」
入ってきたのは、仕立ての良すぎる豪奢な医師服を纏った肥満体の男と、青銅の胸当てを着けた四人の衛兵だった。男は鼻の頭に脂汗を浮かべ、常に薄ら笑いを貼り付けたような小狡い顔立ちをしている。宮廷医術院の監察官、ベルナールだ。
ベルナールは部屋の狭さに露骨な嫌悪の視線を向け、仕立ての良い袖口で鼻先を覆った。
「まったく、貧民街の掃き溜めのような場所だ。おい、下水道で劇毒を撒き散らした重症患者を引き渡してもらおうか。あのような危険な保菌者を野放しにはできん。医術院の隔離棟へ即刻連行する!」
衛兵たちが抜剣こそしないものの、威圧するように柄へ手を伸ばして歩み出ようとした。
ガルドが太い眉を逆立て、「てめえら、ハンスを実験台送りにする気か!」と前に出ようとするのを、セリアが手で静かに制した。
彼女は静かに受付カウンターの前へと進み出ると、背筋をすっと伸ばし、氷のように研ぎ澄まされた視線をベルナールへと据えた。その佇まいには、下町の受付嬢の装いでは覆い隠せない、圧倒的な品格が宿っている。
「勝手な立ち入りはご遠慮願えますか。ここは許可を得て診療を行っている個人の敷地です。いかなる権限をもって踏み込んできたのですか」
ベルナールは予想外の気品ある美しさに一瞬たじろいだが、すぐに嘲るような笑みを浮かべ、懐から一枚の羊皮紙を取り出して見せびらかした。
「ふん、小娘が生意気な口を利くな。これは医術院総監の署名が入った緊急査察令状だ。王都を未曾有の奇病から守るため、感染の疑いがある者は速やかに連行・隔離する義務がある。貴様らのようなもぐりの治癒師に口を挟む権利はないのだよ」
突き出された令状を、セリアは指先ひとつ触れずに一瞥した。そして、冷徹な声で告げる。
「総監の私印しか押されていませんね。王宮法務局の認可印も、衛生監察局の連名署名も欠落しています。王都の治安法制において、私的な組織の令状で民家に押し入り、市民を強制拘束することは明白な違法行為。不法侵入および職権の濫用にあたります」
淀みなく紡がれた法理の指摘に、ベルナールの丸い顔が怒りで赤黒く染まった。
「なっ……な、何をたわごとを! 平民の分際で、医術院の公務を妨害する気か!」
「妨害しているのは貴殿らの方だ」
低く、内臓を揺らすような声が診察室の扉の向こうから響いた。
レオンがゆっくりと姿を現す。鎧の擦れ合う硬質な音が狭い待合室に反響した。手入れの行き届いた重装鎧を纏い、歴戦の修羅場を潜り抜けてきた近衛の覇気が、冷気のようにベルナールたちを包み込む。レオンは剣を抜きはしなかったが、柄を握る拳に込められた力が、いつでも相手の首を撥ね飛ばせる間合いを物語っていた。
「無断で踏み込み、理を欠く脅迫を重ねるなら、王都警邏隊および騎士団への反逆行為と見なす。この場で身柄を拘束しても構わんのだぞ」
「ひっ……!」
衛兵の一人が息を呑んで後ずさり、ベルナールも肥えた顎を引いて恐怖に怯えた。レオンが放つ実戦の気迫は、宮廷の温室で小金を稼ぐだけの役人には耐え難いものだった。
ベルナールは引きつった笑みを貼り付け直そうと必死になりながら、忌々しそうに足を踏み鳴らした。
「ええい、野蛮な連中め……! 覚えていろよ、所詮は裏通りの小ネズミどもだ!」
捨て台詞を吐きながら玄関の扉へと逃げ戻り、外の路地に飛び出したベルナールは、勝ち誇ったような甲高い声を張り上げた。
「どれほど強がろうと無駄だ! 下水道全域は本日付で完全に封鎖された! 汚染の拡大を防ぐため、下町の住人が表通りへ出る際には、一人あたり銀貨五枚の防疫検査料を徴収することになったのだからな! 払えぬ者は路地裏で朽ち果てるがいい!」
あざ笑うような嘲笑を残し、ベルナールと衛兵たちは逃げるように表通りへと去っていった。
扉が閉ざされ、待合室に重苦しい沈黙が落ちる。
「銀貨五枚……」
ハンスが青ざめた顔で立ち尽くし、拳を震わせていた。
「下水清掃の稼ぎが一日銅貨数十枚だっていうのに……そんなの、俺たち下町の人間を閉じ込めて飢え死にさせろって言ってるようなもんじゃねえか……」
「清掃員を連行しようとしたのも、検査料を口実にした封鎖も、すべては実態を隠すためでしょうね」
セリアが唇を小さく噛み締め、悔しさを滲ませる。その端正な横顔には、理不尽に虐げられる民を前にした強い義憤が宿っていた。
「地下で起きている異常を、自分たちの管理失敗として表沙汰にしたくない。だから情報を遮断し、貧しい人々を締め出して口を塞ごうとしているのです……あまりに卑劣です」
「レオン、ありがとな。助かったよ」
俺が声をかけると、レオンは剣から手を離し、硬い表情を崩さずに頷いた。
「礼には及ばん、アレン殿。だが、奴らの締め付けは本物だ。下町の人々が医術院の食い物にされかねん」
俺は白く塗られた壁に背を預け、腕を組んだ。平穏にやっていきたいだけなんだが、向こうから土足で踏み込んでくるなら話は別だ。だが、今はまず、目の前にある脅威の正体を掴むのが先決だった。
「ガルド、ハンスを連れて奥の空き部屋を使ってくれ。今夜はここで休ませた方がいい。外に出たらすぐに医術院の衛兵に嗅ぎつけられる」
「ああ、恩に着るぜアレン先生! ほらハンス、肩を貸すから奥へ行くぞ」
「すまねえ、ガルド……先生、すみません……」
ガルドに支えられ、ハンスは恐縮と感謝を繰り返しながら、奥の部屋へと消えていった。セリアが毛布と換えの水を用意しに後を追う。
◆ーーーー◆
夜の帳が下り、裏通りの屋根瓦が青暗い闇に沈む頃、俺は裏庭の片隅にしゃがみ込んでいた。
周囲には、俺が暇を見つけては土を耕し、手入れを続けてきた薬草園が広がっている。夜風が吹くたびに、青臭い若葉の香りと湿った土の匂いが鼻先をくすぐった。
木製の作業台の上に、先ほどの硝子瓶から取り出した黒い結晶片を置く。小指の爪ほどの大きさの黒い結晶片だが、周囲の空気をわずかに冷え込ませていた。
「普通の解毒草じゃ、歯が立たないか」
俺は乾燥させた月見草の葉と、清浄作用を持つ白仙草の絞り汁をその結晶片に垂らしてみた。だが、薬草のエキスが触れた瞬間、ジュウと耳障りな音を立てて葉が黒ずみ、瞬く間に炭化して崩れてしまった。毒素を分解するどころか、薬草の生命力を貪り食って肥大化しようとしている。
やはり、これはただの病や魔物の毒ではない。生命そのものを蝕み、魔力の流れを歪めて壊死させる、人為的な呪詛の類だ。
「アレン様」
背後から軽やかな足音が近づいてきた。振り返ると、セリアが湯気の立つ茶器を盆に載せて立っていた。裏通りには不釣り合いな、繊細な白磁の陶器ポットとカップだ。夜風に揺れる金糸の髪を耳にかけながら、彼女は俺の隣に腰を落とした。
「ハンスさんは横になってすぐに寝息を立てました。ガルドさんも付き添って見守ってくれています。よほど気を張っていたのでしょうね」
「そうか。明日の朝にはもう少し顔色も良くなってるはずだ」
セリアは盆を台の端に置き、俺の手元で黒く燻る毒片を見つめた。その瞳に深い憂いが差す。
「医術院は、本当にこの毒を制御できているのでしょうか。下水道を塞ぎ、人々を閉じ込めて……彼らが何を行おうとしているのか、考えるだけで胸が痛みます」
「制御できてるなら、あんな下水夫が真っ先に犠牲になるはずがない。奴らも手枷が外れて慌ててるのさ」
俺は苦笑交じりに呟きながら、足元の畝に視線を向けた。
そこには、先日市場で木箱ごと買い取った泥まみれの規格外品から植え直し、一晩で銀青色に変異した銀鈴草の株が植わっている。収穫した十株ほどは薬棚に保管してあるが、診察室で言った通り、この変異株が呪毒にどう反応するかを確かめるために裏庭へ出てきたのだ。
丸みを帯びた通常の緑葉とは異なり、その葉は細長く伸び、脈に沿って白銀の筋が幾重にも走っている。
「……予告通り、こいつで試してみるか」
俺はその変異株から、瑞々しい銀青色の葉を一枚だけ指で摘み取った。
作業台の上に戻り、黒く拍動する呪毒の結晶片へ、その葉の切断面をそっと近づける。
もしこれも炭化して消えるなら、別の触媒を探すしかない。そう思いながら見守った瞬間だった。
チリ、と小さな火花が爆ぜるような微細な音が鳴った。
変異銀鈴草の葉が、毒片に触れた途端に黒ずむことはなかった。それどころか、葉脈を走る白銀の筋が、生き物のように脈動を始めたのだ。
「これは……?」
セリアが息を呑み、身を乗り出す。
葉は黒い毒素を弾くのではなく、急速にその組織内へと吸い上げていた。まるで濁った汚水を清らかな砂が濾過していくように、黒い靄が銀の葉脈へと吸い込まれていく。そして、毒素を完全に呑み込んだその瞬間――。
変異銀鈴草の葉全体が、澄み渡った淡い青白い燐光を放った。
暗がりを優しく照らすその光は、熱を持たず、ただ静謐で清らかな魔力の残滓だけを空気中に漂わせている。光が収まった後、台の上にあった黒い結晶片は跡形もなく消え失せ、残された葉は傷一つなく、瑞々しい露を宿したままそこにあった。
毒素を無害化し、完全に分解したのだ。
「……毒を、吸着して消した……?」
セリアが驚愕に目を見張り、光の消えた葉を指先でそっと撫でる。
「アレン様、この薬草は一体……」
「市場で買い取って植え直した変異株だ。まさか、あの古代呪毒をそのまま呑み込んで中和するとは思わなかったがな」
俺は指先で葉をつまみ上げ、月明かりに透かしてみた。
葉の奥底には、毒を吸い上げた後も濁ることのない、冷たく澄んだ魔力が微かに脈打っている。通常の薬草学ではあり得ない反応だ。大聖堂の分厚い医学書にも、宮廷医術院の権威ある薬草録にも、こんな現象の記述は一行たりとも存在しない。
だが、目の前で起きたことは紛れもない事実だった。
王都の足元を腐食させ、人々の腕を炭化させる正体不明の呪毒。それに唯一対抗できる鍵が、偶然にもこの狭い裏庭の片隅で、静かに芽を吹いていたのだ。
「セリア、この株は特別に増やしておく必要があるな」
「はい……! 明日の朝から、私も株分けと水やりを手伝います」
セリアの凛とした声に頷きながら、俺は暗い夜空を見上げた。
表通りの豪奢な医術院が下水道を封鎖し、巨額の金を要求してまで覆い隠そうとしている闇。奴らが地下で何を掘り起こし、何を実験しているのかはまだ分からない。
だが、夜の静寂の中、手元に残された銀鈴草の変異株は、青白い光の余韻を宿したまま、闇の深奥に抗うようにかすかな脈動を繰り返していた。




