第34話
四人目の患者だった青果店の店主が、軽くなった足首を回しながら診察室を出ていく。軽度の捻挫だった。腫れを引かせて骨の歪みを整えるだけなら、大して集中を要する作業でもない。
「ありがとうございます、先生! 嘘みたいに痛みが引いたよ」
「無茶して重い木箱を担ぐなよ。湿布は二日ほど貼っておけ」
軽く手を振って送り出し、俺は丸椅子に背を預けて息を吐いた。
待合室の受付カウンターでは、セリアが帳簿から顔を上げ、整った唇に柔らかな笑みを浮かべていた。平民風の簡素な麻の長衣を着ていても、背筋の伸び方や所作の端々に滲む気品は隠しきれない。
「お疲れ様でした、アレン様。これで本日は四名ですね」
彼女は細い指先で、木製の受付札を一枚だけ手元に残し、棚へと整頓した。最後の一枠を示す札が、カウンターの端で静かに光を受けている。大聖堂を離れて以来、この決まり事だけは揺るがしたことがない。己の器量を見誤れば、救えるはずの命すら手から零れ落ちるからだ。
「ああ。あと一人診たら、裏庭の様子を見に行くとするよ。変異した銀鈴草の葉が、いい具合に陽を吸っているはずだ」
「ふふ、アレン様は本当にあの薬草がお好きですね。お茶の用意をしておきます」
セリアが陶器のポットに手を伸ばしかけた、その時だった。
静まり返っていた治療院の扉が、凄まじい勢いで蹴破るように開け放たれた。
蝶番が悲鳴を上げ、乾いた風と共に、鼻腔の奥を焼き焦がすような悪臭が雪崩れ込んでくる。下水の澱みに、肉の焼けた脂の匂いが混ざり合ったような、耐え難い腐敗の気配だ。
「アレン殿! 無礼を承知で押し通らせてもらう!」
重厚な甲冑を鳴らして飛び込んできたのは、息を切らしたレオンだった。そのすぐ後ろから、筋骨隆々たる巨躯のガルドが、泥と煤にまみれた革の作業着を着た大男を背負い込んで転がり込んでくる。
「先生、頼む! 下水の排気口のそばでぶっ倒れてやがったんだ!」
ガルドの太い腕に抱えられた男は、すでに意識を失っていた。浅く不規則な呼吸の合間に、喉の奥からひゅうひゅうと擦れた音が漏れている。
「おい、何があった」
俺は立ち上がり、診察室の扉を広く開けた。
「作業着の紋章からして王都の下水道清掃員、胸元の札にはハンスとある」
レオンが険しい表情のまま、鋭い眼光を男に向けた。
「昨晩、排気口の鉄格子が炭のように脆く朽ちているのを見つけ、朝の交代に合わせて見回りを強化していたのだが……地下の通用口から這い出してきたところで力尽きたらしい。腕の変色は、あの鉄格子が炭化した状態と酷似している。通常の負傷ではない。一刻を争う」
「寝かせろ。セリア、診察室の窓を開けて布とぬるま湯を」
「はい!」
セリアは動じることなく迅速に動き、待合室の札を引っくり返して診察室へと滑り込んできた。
ガルドが慎重に、だが素早く男の巨体を診察台の上へ横たえる。男の右腕が露わになった瞬間、セリアの喉から小さく息を呑む音が漏れた。
男の右腕は、肘から指先にかけて、まるで高熱の業火でじっくりと炙られたかのように真っ黒に変色していた。
皮膚は水分を失って炭のようにひび割れ、組織の境目から黒ずんだ体液がわずかに滲んでいる。指先などはすでに本来の形を失いかけ、微かな振動だけでも脆く崩れ落ちそうだった。
「……これは、火傷じゃないな」
「ああ。熱気煙道の事故などではない」
レオンが眉根を寄せて頷く。
セリアが濡らした清潔な布を手に取り、男の額の脂汗を拭った後、恐る恐る炭化した前腕の汚れを拭おうと手を伸ばした。
その瞬間だった。
炭化した患部から、冬の底のような冷たい魔力の霧が微かに噴き上がり、セリアの手元をパチンと弾いた。濡れ布が宙に浮き、セリアの指先が一瞬で霜に触れたように白く強張る。
「きゃっ……!?」
「触るな、セリア」
俺はセリアの肩を引き、その前に割り込んだ。
「アレン様、今のは……」
「普通の負傷なら、傷口からこんな冷気は出ない」
俺は男の黒く焼け焦げた手首に、慎重に二本の指を添えた。
指先を伝って、禍々しい魔力の脈動が流れ込んでくる。泥水のような粘り気を持った悪意が、男の血管と魔力回路を逆流し、心臓に向かってじわじわと侵食を広げていた。
一昨日の昼下がりに新米冒険者の傷口を診て、今朝その魔力波形の記録から読み解いた、あの不気味な呪毒の残滓と同じ気配だ。だが、濃度と侵食速度が桁違いだった。昨晩レオンたちが目撃したという下水道の腐敗臭、排気口の鉄格子を炭化させていたあの現象そのものが、生きた人間の体内で暴れ狂っている。
「黒枯れ病だ」
俺の呟きに、レオンの表情が強張った。
「黒枯れ病……? 聞いたことがない病名だな」
「病気というよりは、人為的な古代呪毒の類だ。感染した組織の魔力を燃料にして、生きたまま肉体を炭化させていく。大聖堂の古典記録の隅にしか載っていないような代物だが……まさか下水道の中でこれほど綺麗に培養されているとはな」
「培養だと!?」
ガルドが太い眉を吊り上げ、拳を握りしめた。
「じゃあ先生、こいつは誰かが仕組んだ罠にかかったってことかよ!」
「仕組んだのか、垂れ流したのかは知らん。だが、放置すればあと半刻で毒が心臓に届く。そうなれば、全身が炭になっておしまいだ」
「……治せるのか、アレン殿」
レオンの問いは静かだったが、その瞳には切迫した光が宿っていた。普段は頑なな武人が、町医者の手腕を心の底から測りかね、そして縋るように見つめている。
大聖堂の通常の高位治癒魔法では、この手の呪毒は払えない。患部へ無造作に光を注げば、その清浄な魔力すら燃料として取り込み、炭化の勢いを加速させてしまうからだ。表通りの宮廷医術院に運び込んだところで、腕ごと切り落とされるのが関の山だろう。
だが、俺のやり方は違う。
「セリア、男の頭を支えてやってくれ。舌を噛まないようにな」
「承知いたしました」
セリアは恐怖を押し込め、男の頭元に回ってしっかりと両手で固定した。その瞳に迷いはない。俺が治すと口にした以上、彼女は結果を疑わない。
俺は息を深く吸い込み、両手を男の炭化した腕の上にかざした。
手のひらから、淡い純白の燐光が滲み出る。一日五回と決めた限界の中で、これが今日最後の診察だ。かつてのように無理をして命を削る必要はない。ただ、己の技術を極限まで澄ませ、対象の生命の波長に合わせる。
魔力を注ぎ込むと同時に、黒い患部が拒絶するように激しく脈打った。凍りつくような冷気が吹き荒れ、室内の空気が一気に張り詰める。
「先生、腕が軋んでやがるぞ!」
「削り取るんじゃない。生きている細胞の側を呼び起こして、毒の方から出ていってもらうんだ」
俺は低い声で言った。
無理矢理に呪毒を攻撃すれば、宿主の肉体が耐えきれずに壊死する。必要なのは、死んだ組織を攻撃することではない。まだ生きている正常な皮膚と血管、その奥底に眠る自己修復の力を、通常の数百倍の密度で賦活させることだ。
光の粒子が、炭化した皮膚のひび割れへと沈み込んでいく。
純白の光は毒と戦うのではなく、男の腕そのものが持つ『生きようとする意志』を強力に後押ししていった。冷気によって活動を止められていた血流が、猛烈な勢いで再開する。止まっていた脈動が、力強い鼓動となって皮膚を押し上げた。
ピシリ、と乾いた音が室内に響いた。
「……あ」
セリアが小さく声を漏らした。
男の腕を覆っていた黒い炭化殻に、無数の白い亀裂が走る。次の瞬間、まるで脱皮するかのように、カサカサに乾いた黒い殻がポロポロと診察台の上へ剥がれ落ちていった。
殻の下から現れたのは、淡い桜色をした、生まれたてのように瑞々しい皮膚だった。失われかけていた指先が、見る間に本来の厚みを取り戻し、爪が滑らかに整っていく。
冷たい魔力の濁流は、押し出されるようにして体外へと弾き飛ばされ、俺の手のひらが放つ光の膜に捕らえられて霧散した。
「う……、あ……」
診察台の上で、男がかすれた声を漏らし、まぶたを震わせた。
深く規則正しい呼吸を取り戻し、黒ずんでいた肌に血色が差した。
「嘘だろ……」
ガルドが呆然と呟いた。
「炭みたいになってた腕が……丸ごと元通りになりやがった……」
「信じられん……」
レオンもまた、息を呑んだまま動けずにいた。王家の近衛を務める彼とて、数々の高位神官による治癒を目にしてきたはずだ。だが、壊死して崩れかけた肉体をその場で新生させるような真似は、教義の枠に収まる魔法ではない。
レオンは深く頭を下げ、革の手袋を握り締めた。
「見事だ、アレン殿。疑っていたわけではないが……これほどの神業を、一介の町医者が平然と成し遂げるとは。主君を救っていただいた折の奇跡、決して偶然ではなかったと改めて骨身に沁みた」
「大げさだな。生きようとしてたのはこいつ自身だ。俺はその背中をちょっと押してやっただけに過ぎない」
俺はそう言って苦笑し、診察台の上に散らばった黒い破片を視線で追った。
剥がれ落ちた炭化殻の残骸だ。だが、その中の一つ――小指の爪ほどの大きさの黒い結晶片が、宿主から切り離された今もなお、微弱に脈打つように黒い靄を吹き出している。
俺は棚から小さな硝子瓶と細身の金属鉗子を取り出し、その結晶片を慎重に摘まみ上げた。
瓶の中に落とし込み、しっかりとコルクの栓を塞ぐ。透明な硝子の内側で、黒い呪毒の塊がカチリと音を立てて身悶えするように蠢いた。
「……アレン様、それは?」
セリアが心配そうに覗き込んでくる。
「男の腕から追い出した毒の燃えカスだ。ただの毒素なら体外に出れば霧散するはずだが、こいつはまだ活動しようとしている。裏庭で育てている変異した銀鈴草なら、この澱みを吸い寄せて無力化できるかもしれない。あとで調べてみるよ」
「……お、俺は……?」
診察台の上で、男が完全に意識を取り戻し、ゆっくりと上体を起こした。無骨で泥にまみれた顔に、困惑と脂汗の跡が広がっている。
男は恐る恐る、自分の右腕を持ち上げた。袖は破れ、黒い汚れがこびりついているが、そこから覗く腕はどこにも傷一つなく、健康そのものの皮膚に覆われていた。
「腕が……動く? 炭になって、もげて落ちそうだったのに……」
「ハンス、夢じゃねえぞ」
ガルドが歩み寄り、男の肩を力強く叩いた。
「あんた、裏通りのアレン先生に命を拾われたんだぞ。大聖堂でも治せねえような呪いを、一瞬で消し飛ばしてくれたんだ」
「アレン……先生……?」
ハンスと呼ばれた下水道清掃員は、診察室の簡素な内装と、俺の地味な麻の服を茫然と見比べ、それから自らの右手を何度も開閉させた。やがて、その大柄な体の端々が小刻みに震え始める。
男の濁った瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち、診察台を濡らした。
「あ、あああ……! 助かった……! 昨日の夕方、腕がおかしくなり始めた時に医術院へ駆け込んだのに、『下水呑みの腕など切り落とせ、金がないなら路地で野垂れ死ね』って追い払われて……仕事に戻って耐えてたがどんどん悪化して、今朝通用口から這い出したところで意識が飛んで……俺は、もう死ぬんだと……!」
ハンスは診察台から転がり落ちるように床に膝をつき、額を床板に擦り付けて嗚咽した。
「ありがとうございます……! この命、この腕、一生かけて先生にお返しします……! どんな下水の泥仕事でも、頼まれたら命を張ってやりますから……!」
「大げさだ、顔を上げろ」
俺はため息をつきながら、ハンスの脇に手を入れて引き起こした。
「一日五人の中の、最後の枠にあんたが入った。それだけのことだ。礼なら、連れてきてくれたガルドとレオンさんに言ってくれ」
ハンスは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、二人の騎士と冒険者に向かって何度も何度も頭を下げ続けた。レオンは気まずそうに視線を逸らしつつも、その口元を微かに緩めている。
診察室の空気が、張り詰めた緊張からようやく解放された。
セリアが胸に手を当て、安堵の息を吐く。受付帳の五人目の欄に、彼女の端正な文字で『ハンス・下水清掃』と丁寧に書き加えられた。
「これで、本日の診療は終了ですね」
「ああ。店じまいだ」
俺はコルク栓をした硝子瓶を指先で弄びながら、診察室の小窓から空を見上げた。
日差しは穏やかで、裏通りの狭い路地にも温かな光が差し込んでいる。だが、机の上に置かれた瓶の中では、黒い破片が今もなお、生き物のように微かに拍動を繰り返していた。
王都の足元、光の届かない地下深部で、確実に何かが蠢いている。そして、表通りの医術院が見捨てる者たちを救う場所として、この小さな治療院の存在は、いやでも目立っていくはずだ。
「セリア、予定通り裏庭へ行くぞ。変異株の葉を何枚か摘んで、こいつの反応を試す」
「はい、アレン様。すぐにお茶をお持ちしますね」
セリアが微笑み、治療院の表扉には『本日の診察は終了しました』という木札が掛けられた。小さな前進の手応えを噛みしめながら、俺は瓶を手に取り、裏庭へと続く扉を開けた。




