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第33話

夜明けの冷たい空気が、裏庭の土の匂いを鋭く研ぎ澄ましていた。


膝をついて泥を払い、茎の根元に指を滑らせる。昨日、市場で木箱ごと買い取った泥まみれの規格外品の中に、わずかに根が息づいている株がいくつか混ざっていた。試しに裏庭の畝へ植え直しておいたのだが、昨夜のうちに驚くほどの勢いで根付いたらしい。昨日まで固く閉じていたはずの蕾が、淡い銀青色の光を帯びて静かにほどけていた。朝露を吸い上げた花弁が、触れると微かに震える。


「おい、アレン。手が止まっておるぞ。早く刈り取らんと、陽が昇りきってしまうわい」


背後からしゃがれた声が飛んできた。粗末な麻袋を抱えた老薬師のトビーが、腰を叩きながら畝の向こうから歩み寄ってくる。片眼鏡の奥の濁った瞳が、俺の手元に落ちた瞬間、ぴたりと動きを止めた。


「……なんじゃ、その株は。野生種の銀鈴草にしちゃ、色が異様に透き通っておるのう。市場の泥まみれの束から根付きそうなのを選んで植えたとは聞いておったが、こんな変異、山でも見たことがないわい」


「俺も今朝気づいたんだよ、トビー。ただ伸びてるだけじゃない」


親指の腹で葉の裏をそっとなぞる。かすかな魔力の脈動が伝わってきた。庭の隅に滞留していた湿っぽい淀みが、この銀青色の葉に向かって細い糸のように吸い寄せられ、澄んだ冷気へと濾過されている。


「周囲の魔力を吸着して、質を変えてるな。普通の銀鈴草なら鎮痛と気付け程度だが、この変異株は……余計な濁りを引き剥がす触媒になりそうだ」


「ふん、気味の悪い草を咲かせおったな。だがまあ、品質としては極上じゃ。市場に出せば金貨が飛ぶぞ」


「売りに出す気はないよ。うちの薬棚に収める」


小刀で手際よく根元を切り離し、籠へと移す。銀鈴草の変異株は全部で十株ほど。丁寧に土を落として束ね、トビーと共に勝手口から診療所の中へと運び込んだ。


板張りの廊下を抜けて待合室へ足を踏み入れると、乾いた木屑と蜜蝋の心地よい香りが鼻腔をくすぐった。


「お、アレン先生。薬草の収穫かい」


長椅子の脇で雑巾を手にしたダリウスさんが、丸太のような太い腕を止めて笑いかけてきた。作業着の袖をまくり、額に汗を浮かべている。長椅子は傷んでいた座面が滑らかな無垢材に取り替えられ、角という角が丁寧に削り落とされていた。


「ダリウスさん、もう終わったんですか。早いですね」


「エレナを助けてもらった恩に比べりゃ、これくらい造作もねえよ。待合の椅子がギシギシ鳴ってちゃ、具合の悪い連中が落ち着かねえだろ。ガタつきは全部直しておいたからな」


厚い手のひらで座面を叩くダリウスさんに、トビーが鼻を鳴らす。


「相変わらず手際だけは無駄に良いのう、ダリウス」


「職人に向かって無駄とは何だ、トビー。お前さんこそ、変な草ばかり持ち込んで先生を困らせるんじゃねえぞ」


軽口を叩き合う二人の背後で、受付の小机からさらさらと羊皮紙を走らせる音が響いていた。


「ふふ、お二人とも朝から賑やかですね」


机の上に受付帳を几帳面に広げ、インク瓶の蓋を閉めたセリアが顔を上げた。仕立てのいい平民風の服を着こなしてはいるが、背筋の伸び方や指先の所作には隠しきれない気品が残っている。


「おはようございます、アレン様。すでに表通り側の診療所から断られた方々が、何名か路地を覗きに来ていました。本日の診療枠についてご案内し、落ち着いてお帰りいただきましたので、混乱はありません」


「助かるよ、セリア。無理に追い返すような形にならなかったか?」


「はい。順番を待てないほど切迫した容態の方はおられませんでしたから。ただ……」


セリアの凛とした眉が、わずかに曇った。


「宮廷医術院の診察料が急騰してから、表の施薬所は門前払いを強めているようです。その煽りが、確実にこの界隈へ押し寄せています」


「……そうだな」


俺は短く頷き、籠を薬棚の前の作業台に置いた。ダリウスさんが道具袋を肩に担ぎ、「じゃあ俺は仕事場に戻るよ」と手を挙げて玄関を出ていく。トビーもまた、残りの薬草を仕分けながら奥の調合室へと引っ込んでいった。


診療室に一人戻った俺は、白木の執務机に向き直り、羊皮紙を広げて昨日書き留めておいた術式の記録に目を落とした。


昨日の昼下がり、新米冒険者の打撲痕を診た際、傷の奥底に触れて指先から感じ取った異質な魔力痕の感触だ。


指先をかざし、回路を静かに巡らせる。かつてのような激しい軋みこそ薄らいでいるが、まだ快復の途上にある魔力回路だ。無理に過負荷をかけぬよう慎重に意識を研ぎ澄まし、あの青年の患部から読み取った魔力の波形を脳裏で深く掘り下げていく。


「……これは」


知覚した術式構造を丹念に読み解くにつれ、奥歯が自然と噛み合わさった。


単なる打ち身や魔物の爪創ではない。患部の奥底で起きていたのは、ごく初期段階の皮膚組織の変性――炭化だ。生きている肉体を、内側からじわじわと焼き焦がして壊死させるような、歪な壊死の痕跡。


さらにその周囲には、人為的に編まれた魔力の循環痕が微かにこびりついていた。現代の大聖堂や宮廷医師が用いる術式体系とは明らかに異なる、何層にも折り重なった冷たく粘りつく構造。百年以上前の、禁忌として封印されたはずの古代呪詛の組み方に極めて近い。


あの一見ただの軽傷に見えた青年は、王都のどこかで、この呪毒の初期散布に触れたのだ。


「アレン様?」


開け放たれた診察室の扉から、セリアが湯気の立つ白磁のティーカップを載せた盆を手に静かに入ってきた。俺の強張った横顔を見て、盆を机の端に置く。


「何か、良くないことが?」


「……昨日の冒険者の傷だ。ただの怪我じゃない。患部の奥底で、肉体が炭のように変質しかけていた」


セリアの藍色の瞳が見開かれた。


「炭化……? 病ではなく、呪いの一種なのですか」


「ああ。それも自然発生したものじゃない。誰かが意図して培養し、循環させている気配がある。表通りの急な医療費の高騰と、市場での薬草の買い占め……全部が一本の糸で繋がっているとしたら、嫌な符合だな」


「宮廷医術院が、何らかの実験を……? ですが、それほどの異変であれば、王宮の監査が入るはずです」


「表沙汰にできない場所で進行しているなら話は別だ。たとえば――俺たちの足元とかな」


羊皮紙を丁寧に畳んで引き出しの奥へ滑り込ませ、鍵をかける。セリアは机の上のティーカップを見つめたまま、微かに唇を引き結んでいた。


◆ーーーー◆


日没から数時間が過ぎ、王都の裏通りは深い闇に沈んでいた。


街灯のまばらな小路を、二つの影が並んで音もなく歩く。肩幅の広い大柄な巨躯と、黒い外套の下に鈍い鉄の光を忍ばせた引き締まった体躯。


「おい、レオン。さっきから一言も喋らねえな。鎧が擦れる音すら立てねえってのは、近衛様のお行儀の良さってやつか?」


ガルドが肩を回し、首の骨を鳴らしながらからかい半分に視線を向けた。かつてアレンに治療された右腕は、夜風の中でもびくともせず軽快に動く。


レオンは歩調を崩さず、正面の暗闇を鋭い眼光で射抜いたままだ。


「哨戒中に無駄口を叩く趣味はない。貴殿こそ、腰の鉈がガチャガチャと煩わしいぞ、ガルド」


「けっ、山育ちの冒険者捕まえて行儀を求めるなよ。それにしても、ここ数日の裏通りは気味が悪い。酔っ払いすら早々に引っ込んじまいやがる」


「……表通りの締め付けが厳しくなっている影響だ。施薬所を追い出された貧民が、夜間に路地へ流れ込んでいる。セリア殿の身辺に万が一のことがあってはならん」


「へいへい。お嬢様思いの真面目な騎士様だこった。だが、俺たちの先生に仇なす野郎がいるなら、大聖堂の残党だろうが医術院の手先だろうが、この右腕で叩き潰すだけだ」


軽口を交わしながら角を曲がった、その瞬間だった。


不意に吹き抜けた夜風に、二人は同時に足を止めた。


路地の吹き溜まりから漂ってきたのは、生活排水やゴミの臭いではない。何十匹もの獣が腐乱し、さらにそれが硫黄とともに焦げついたような、吐き気を催す強烈な悪臭。


「……っ、なんだこの臭いは」


ガルドが顔をしかめ、鼻を覆う。レオンは無言で柄に手をかけ、切っ先をわずかに浮かせた。


悪臭の元は、足元の石畳だった。王都の地下全体に張り巡らされた巨大下水道へと繋がる、太い鉄格子の排気口。普段なら微かな温気が立ち上るだけのその隙間から、まるで冬の底のような氷のように冷たい魔力の揺らぎが、黒い靄となって噴き出していた。


「下水から……? おい、見ろ」


ガルドが指差した排気口の頑丈な鉄格子は、異様な変貌を遂げていた。


湿気による赤錆ではない。格子の中央部分が、まるで高熱の炎で焙られたかのように、ボロボロと脆い黒炭の塊に変質していたのだ。指で触れれば、炭化しかけた鉄屑が音もなく崩れ落ちる。


「鉄が……炭のように崩れているだと?」


レオンの喉から乾いた声が漏れた。ただの腐敗や魔力漏れではない。物体そのものの命脈を根本から焼き枯らすような、禍々しい術の余波。


二人が息を呑んで立ち尽くす中、排気口の奥底――光の届かない下水道の闇から、微かに水音を立てて何かが蠢く気配が、湿った空気と共に這い上がってきた。


暗渠の底から響くその蠢きは、裏通りの平穏を足元から食い破るように、確かに王都の直下へと迫りつつあった。

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