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第32話

夜明けの冷気が薄く残る王都の東門近く、薬草市場は早くも熱気と埃に包まれていた。


露店が立ち並ぶ通路を歩きながら、俺は鼻をかすめる土の匂いを嗅ぎ分ける。大聖堂の騒動が落ち着いてからというもの、この朝の買い出しは俺にとって気楽な日課の一つになっていた。必要な分だけを吟味し、手頃な値段で仕入れる。それだけで十分だった。


だが、馴染みの老舗が並ぶ一角に差し掛かったとき、いつもと違うざわめきが耳に届いた。


「……ですから、こちらの荷はすべて当院が一括で買い上げると申し上げております。個人の買い付けに回す余裕などありませんよ」


冷ややかな、よく通る声だった。人垣の隙間から見えたのは、仕立ての良い豪奢な白外套を纏った痩身の青年だ。銀縁の眼鏡の奥から、神経質そうな双眸が競り台の店主を射抜いている。


宮廷医術院の紋章が刻まれた銀の留め具。あんな上等な外套を着たエリートが、泥臭い市場まで自ら出向いてくるとは珍しい。


「そうは言われましても、ルシアン様。裏通りの薬師連中にも卸さねぇと、あちこちで干上がっちまう店が出ちまいますんで……」


「王都の公的な医療基盤を支える医術院の要請です。学術的根拠に基づいた適正な配分を行うのが最優先でしょう。路地裏の無資格同然の調合に回すなど、貴重な資源の浪費にすぎません」


青年の言葉には、微塵の悪意も混ざっていなかった。混ざっていないからこそ、根深い選民思想が透けて見える。彼は純粋に、自分たちの権威と組織こそが正義だと信じ切っている風情だった。


台の上に並んでいるのは、傷薬の基剤となる青紫色の香葉草だ。確かに良品だが、医術院が裏通りの分まで根こそぎ買い占めるほどのものか。


「おい、アレン」


背後から低くしゃがれた声が掛かった。振り返ると、片眼鏡を掛けた老薬師のトビーが、背負い籠を抱えて立っていた。


「トビー。朝から精が出るな」


「ふん、減らず口を叩くでないわ。見てみい、あの医術院の若造を。昨日から市場中の目ぼしい薬草を片っ端から競り落としていきおって。おかげで相場は跳ね上がり、下町の薬屋は商売あがったりじゃ」


トビーは苦々しく唾を吐き捨てた。その視線の先で、ルシアンと呼ばれた青年医師が、ふとこちらに顔を向けた。


薄汚れた作業着のような俺のなりと、背の曲がった老薬師の姿を一瞥する。その瞳に露骨な蔑みの色が宿るのを、俺は見逃さなかった。


「……そこの男。裏通りの町医者か何かか?」


ルシアンがすたすたと足音を響かせて近づいてくる。整えられた指先で眼鏡の位置を直しながら、俺の足元を値踏みするように見下ろしてきた。


「そうだが。何か用か」


「忠告をしておこうと思ってね。君たちがどのような迷信めいた民間療法を行っているかは知らんが、粗悪な素材をいくら煮出したところで、現代医術の薬理効果には遠く及ばない。身の丈に合わない買い付けなど諦めて、残った泥付きの根でも拾って帰るのが賢明だ」


怜悧な声の奥に、過密な職務ゆえか、微かな苛立ちが滲んでいる。だが俺の目は、彼が外套の袖口から覗かせた指先に留まった。


爪の生え際がひどく荒れ、薬液による軽い爛れが散見される。徹底的に研鑽を積み、現場で手を動かしている証拠だ。頭でっかちの特権階級というわけでもないらしい。ただ、その頑なな視界には、自分たちが定めた枠組みの外にあるものが一切映っていないようだった。


「ご親切にどうも。だが、泥の中にも悪くないものが転がってるもんだぜ」


俺はルシアンの横を通り過ぎ、競り台の隅に転がされていた木箱へ視線を落とした。土にまみれ、葉先が萎れかけている雑多な草の束だ。


「店主。この隅の箱、銀貨二枚で引き取るよ」


「え? あ、ああ、そいつは湿地から引き揚げたばかりの規格外品だが……いいのかい?」


店主が戸惑いながら頷く。ルシアンが鼻で笑った。


「泥を被った廃棄屑を買い取るとはね。選別眼の欠如を露呈しているようなものだ。時間と金の無駄遣いというほかない」


「そうかい」


俺は木箱の中から、泥にまみれた一本の細い茎を指先でつまみ上げた。爪先で泥を弾き、表皮の薄皮をほんのわずかだけ削る。


朝の光を浴びて、芯の部分から淡い白銀の輝きが微かに放たれた。


「……なっ!?」


ルシアンの息が詰まった。眼鏡の奥の瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。


「銀鈴草の野生種だ。しかも土壌の鉄分を吸って葉肉が厚くなってる。外見は泥まみれだが、薬効の芯は市場のどの栽培種よりも詰まってるぞ」


「ば、馬鹿な……銀鈴草の野生種が、そんな無造作に紛れ込んでいるはずが……いや、しかしその茎の繊維密度は……」


理論派らしいルシアンは、瞬時にその価値を理解してしまったのだろう。青白かった頬が屈辱と驚愕でわずかに朱に染まる。


「トビー、箱ごと運ぶのを手伝ってくれ」


「へっ、言われんでも分かっとるわい。目だけは無駄に肥えておるのう」


トビーが手際よく木箱を背負い籠へと移し替える。呆然と立ち尽くすルシアンを一瞥することもなく、俺は市場の出口へと足を向けた。


「……待ちなさい!」


背後から鋭い呼び止めがかかる。振り返ると、ルシアンが唇を噛み締めながら、プライドを必死に繋ぎ止めるような眼差しで俺を睨みつけていた。


「偶然の掘り出し物に頼るなど、再現性のない児戯にすぎない。医術院の体系化された知見こそが、この王都の民を救う唯一の道だ。下町の無秩序な医療がいつまでも通用すると思うな」


吐き捨てるように言い放ち、彼は身を翻して大通りの方角へと去っていった。その足取りには、先ほどの余裕は消え失せ、焦燥に似た険しさが混じっていた。


「やれやれ、若気の至りというやつかのう。じゃがアレン、医術院の買い占めは本物じゃ。裏で妙なことになっておらねばええが」


トビーの低いつぶやきに、俺は無言で頷いた。平民向けの薬草まで独占しようとする医術院の動き。表通りの診療費高騰といい、何かが確実に歪み始めている。


◆ーーーー◆


裏通りの治療院に戻ると、待合室の扉の前にはすでに十数人の町人たちが詰めかけていた。


押し合いへし合いになりそうな気配を制していたのは、受付カウンターに立つセリアだった。質素な平民風の衣装を着ていながらも、その立ち振る舞いには凛とした気品が宿っている。


「皆様、どうか落ち着いてください。本日の午前の受付枠はすでに埋まりました。緊急性のない外傷や慢性の痛みについては、明日以降の順番をお待ちいただくことになります」


「頼むよ嬢ちゃん! 表通りの医術院じゃ、以前の三倍もの金を要求されたんだ! あんなの払えるわけねぇだろ!」


「うちの爺さんの咳がひどいんだよ! アレン先生に診てもらえれば一発で治るって聞いたんだ!」


すがるような悲痛な叫びが飛ぶ。セリアの眉が微かに痛ましげに寄せられた。困窮する人々への同情が、その瞳の奥に揺れている。だが、彼女は決して首を縦には振らなかった。


「心苦しい限りですが、規則は規則です。一度に診られる人数には限りがございます。無理に割り込めば、今まさに中で処置を必要としている方々の命を脅かすことになります。どうか、ご理解を」


毅然とした、しかしどこか慈愛の籠もった声に、詰め寄っていた町人たちも次第に気圧され、肩を落として散り始めた。セリアでなければ、この混乱を言葉だけで収めることはできなかっただろう。


「セリア、助かった」


木箱を抱えて裏口から回り込んだ俺が声をかけると、セリアはハッとして振り返り、胸を撫で下ろした。


「アレン様、お戻りになられたのですね。……申し訳ありません。大聖堂の診療所が医術院に引き継がれてから、行き場を失った方々が今朝早くから押し寄せてきておりまして」


「あんたが謝る筋合いじゃないさ。見事な捌き方だったよ」


作業台に木箱を置き、持ち帰った銀鈴草を仕分け始める。セリアも手慣れた様子で道具を揃え、隣で葉の選別を手伝い始めた。陶器のような白い指先が、的確に茎を揃えていく。


「表通りの状況は、想像以上に深刻なようです。医術院は平民の受け入れを露骨に制限し、高額な薬を処方しているとか。……このままでは、裏通りに溢れ返る人々を支えきれなくなってしまいます」


「俺たちのやることは変わらないさ。手の届く範囲で、目の前の患者を確実に治す。それ以上を背負い込もうとすれば、かつての二の舞になる」


自分自身の過去の過ちを思い出しながら、俺は低く言った。魔力回路が快復に向かっているとはいえ、際限なく人を抱え込めば、待っているのは破綻だけだ。セリアは静かに頷き、それ以上は何も言わずに作業に没頭した。


◆ーーーー◆


午後の診察が始まって間もなく、治療院の引き戸が乱暴に開け放たれた。


「アレンさん! 頼む、診てやってくれ!」


飛び込んできたのは、使い込まれた革鎧を着たリックだった。そばかすだらけの顔を紅潮させ、肩で息をしている。その背後には、同じく下級冒険者とおぼしき痩せた青年が、右腕を痛そうに抱えながら縮こまっていた。


「リックか。騒々しいぞ」


「す、すまねぇ! でもこいつ、ダンジョンの浅層で足を踏み外して派手に階段から転げ落ちちまってよ! 腕が折れてるかもしれねぇんだ!」


「午後の最後の枠が空いてる。おい、そこの台に座れ」


俺が促すと、新米冒険者の青年はおずおずと診察台に腰掛けた。青ざめた顔で、痛む右腕を差し出してくる。


「せ、先生……俺、新人だから金あんまり持ってなくて……」


「規定の診察料でいい。動かすなよ」


青年が羽織っていた粗末な上着を捲り上げさせると、前腕部から肘にかけて、痛々しい青紫色の鬱血が広がっていた。骨に異常はないようだが、筋組織が強く挫滅している。典型的な打撲挫傷だ。


俺は息を整え、青年の患部にそっと右手を重ねた。


指先から魔力を滲ませる。傷を無理やり塞ぐのではなく、青年の体内に眠る生命力そのものを呼び覚まし、自然治癒の速度を数百倍に跳ね上げる。淡い緑色の燐光が患部を包み込み、皮膚の下で潰れていた毛細血管が瞬く間に再生していった。


「うわ……すげぇ、痛みが引いていく……!」


青年が感嘆の声を上げる。鬱血していた紫色の皮膚は、みるみるうちに健康的な肌色を取り戻し、腫れも完全に引いていく。


だが、患部の深層へと意識を巡らせ、組織の微細な走査を行っていた俺の指先が、唐突に止まった。


「……?」


違和感だった。


筋繊維の隙間、肉眼では決して見えない細胞の極小の隙間に、何かが引っかかっている。冷たく、湿り気を帯びた、淀んだ澱のような感触。


魔力痕だ。


通常の打撲や転倒による負傷であれば、そこに他者の魔力が残るはずがない。だが、この青年の傷跡の深部には、極微小ながらも、明らかに人為的で異質な魔力の揺らぎが癒着していた。


それはかつて大聖堂の不完全な施術で組織が変質した患者たちが見せた痕跡にも似ていたが、もっと陰湿で、組織そのものを内側から侵食しようとするような、名状しがたい歪みを帯びている。


「アレンさん? どうしたんだよ?」


俺の沈黙を不審に思ったのか、リックが覗き込んできた。


「……いや。骨に異常はなかった。もう動かしても平気だ」


俺は意識を切り離し、手を引いた。青年は恐る恐る右腕を回し、それから信じられないといった表情で破顔した。


「すげぇ……本当に痛くねぇや! ありがとな、アレン先生!」


「無理はするなよ。二、三日は重い物を持つな」


「へい! リック、行こうぜ!」


青年は弾んだ足取りで立ち上がり、リックとともに深々と頭を下げて治療院を出て行った。扉が閉まり、待合室に再び静けさが戻る。


セリアが片付けのために診察室に入ってきたが、俺が診察台の前に立ち尽くしているのを見て、小首を傾げた。


「アレン様? 何か気になることでも?」


「……いや」


患部に触れた指先から、微かな痺れが手首へと這い上がっていた。俺は短く息を吐き、右手を固く握り込んだ。


外傷そのものは完璧に治癒した。青年に自覚症状が出ることも当面はないだろう。だが、あの患部の奥底に潜んでいた、針の先ほどの極小の歪みは何だったのか。


ただの転倒事故の傷に、なぜあのような呪詛にも似た魔力痕が残されていたのか。


市場で見た宮廷医術院の買い占め。表通りから弾き出される貧民たち。そして、何気ない下級冒険者の傷跡深くに潜んでいた正体不明の変質。


王都の底で、俺たちのあずかり知らぬ何かが、音もなく蠢き始めている。


治療院の窓から差し込む午後の日差しは穏やかだったが、その光の届かない路地の奥底に、底知れぬ澱みが広がっていくような冷え込みを、俺は確かに感じ取っていた。

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