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第31話

朝の光が木漏れ日となって、待合室の粗削りなテーブルに落ちていた。


白湯の湯気とともに、爽やかな野草の香りが鼻をくすぐる。鼻腔を抜けるわずかな苦味と清涼感に、まだ覚醒しきっていなかった頭の奥がじんわりとほぐれていくのを感じた。


「いかがでしょうか、アレン様。乾燥の度合いを少し浅めにして、葉の香りを残してみたのですが」


目の前でエプロンを整えたセリアが、悪戯っぽく微笑みながら小首をかしげた。


「悪くない。苦すぎず、目が覚める。あんた、いつの間にこんな淹れ方を覚えたんだ?」


「ふふ、これでも受付嬢ですから。患者様にお出しするお茶の工夫くらいは身につけませんと」


そう言って彼女が自分の分を持ち上げたとき、その手元で澄んだ光彩が小さく跳ねた。


薄暗い裏通りの木造建築には到底似つかわしくない、純白の白磁。金泥で縁取られ、双頭の鷲を模した精緻な彫り込みが施されたそのティーカップは、どう見ても王宮の奥深くで王侯貴族が口をつける最高級品そのものだった。


彼女がどれほど町娘らしい動きを真似ようと、指先の優美な角度と、その器の異質さだけは隠しようがない。まあ、本人がこの小さな場所を気に入っているのなら、野暮な突っ込みを入れる必要もない。


「おい、アレン。息災にしておるか」


がらりと建て付けの悪い引き戸が開き、独特の土臭さと薬草の匂いをまとった小柄な影が滑り込んできた。片眼鏡を光らせた老薬師トビーが、背負っていた籠を床にどかりと下ろす。


「トビーか。朝からうるさいな。見ての通り、ピンピンしてるよ」


「へっ、顔色だけはいっちょ前になりおって。あの危なっかしい回路の乱れが嘘みたいに消えとるわい。……まあ、急にくたばられちゃ、これまでのツケを回収できんからのう。ひと安心じゃ」


「言ってろ。どうせ良い薬草が手に入ったから自慢しに来たんだろ」


「話が早くて助かるわい。ほれ、裏の山で見つけた極上の乾燥天日草じゃ。傷口を塞ぐ軟膏に混ぜりゃ、並の切り傷なら一晩でくっつくぞ。ま、お前さんの神業には無用の長物かもしれんがな」


「そんなことはない。トビーさんの薬草は、いつだって調合の要になっています」


セリアがすかさず口を挟み、丁寧な手つきで受領の帳面にサインを走らせる。トビーは「相変わらず手厳しい受付嬢じゃ」とわざとらしく肩をすくめながらも、満足そうに口髭を撫でていた。


騒がしくも心地よい、いつもの朝の光景。


大聖堂の騒動が終息し、ビショップが失脚してから数週間が過ぎていた。息の詰まるような重圧と終わりのない治療に追われていた日々は遠のき、こうして一日五人という枠を守りながら、すっかり穏やかな日常が定着している。この気楽さは何物にも代えがたい。


「じゃあ、そろそろ開けるか」


セリアが「はい」と頷き、表の扉の閂を外した。



診療が始まれば、あとは無駄のない手業の積み重ねだ。


午前中にやってきたのは、近所の左官屋の親方と、その見習い。親方は足場から落ちて折れた肋骨、見習いは漆喰でただれた両手の治療だった。


俺は患部に静かに指先を添え、体内の巡りに意識を同調させる。魔力を流し込んで強引に修復するのではない。相手の体が本来持っている復元力を一段だけ強く跳ね上げてやる。


淡い光が皮膚を包み込んだかと思うと、骨の軋みは瞬時に収まり、ただれきった皮膚は健やかな肌色へと戻っていく。二人は目を丸くして何度も頭を下げ、驚きと感謝の言葉を繰り返しながら帰っていった。


昼過ぎに訪れた三人目の患者は、井戸端で重い桶を持ち上げて腰を痛めたという果物屋の婆さんだった。固まった筋肉と神経の圧迫を解いてやると、腰を曲げて入ってきたのが嘘のように背筋を伸ばし、満面の笑みで礼を言って去っていった。


続いてやってきた四人目は、荷運びの仕事で肩の筋を違えた青年だ。無理な負荷で熱を持っていた関節を光で包んで整えると、彼は軽くなった腕をぐるぐると回し、弾んだ足取りで仕事へと戻っていった。


そして最後の一人、五人目の患者として診察室に入ってきたのは、階段で足首を強く捻ったという仕立て屋の娘だった。


どれも大聖堂に持ち込めば、何日も待たされた挙句に高額な喜捨を要求されるような案件だ。だがここでは、ほんの数分の処置で済む。


「はい、終わりだ。少し違和感が残るかもしれないが、今夜一晩安静にしていれば完全に消える」


「あ、あれ……? さっきまで一歩も踏み出せなかったのに、痛くない……! 先生、本当にありがとうございます!」


娘は涙ぐみながら立ち上がり、セリアの案内で受付へ戻っていった。


これで、今日あらかじめ受けていた枠はすべて埋まったことになる。


かつてのように、魔力回路が焼け付くような鈍痛に襲われることはもうない。余力をしっかりと残し、一人ひとりと向き合って診終えた感覚が、心地よい疲労となって四肢に染み渡る。


セリアが表の扉に木札を掲げに行く音が聞こえた。札の文字は、本日の受付が終了したことを示している。


「本日もお疲れ様でした、アレン様。五人の方すべて、無事に処置を終えられましたね」


「ああ。急患も入らなかったし、平和なもんだ。あんたの手回しが良かったおかげでもある」


「そんな、私は記録を整理していただけです。……でも、こうして皆様が笑顔で帰られる姿を見送るのは、何度経験しても胸が温かくなりますね」


カルテを棚に収める彼女の横顔には、かつて王宮の片隅で呪いに怯えていた頃の影は微塵もなかった。


「さて、腹も減ったし、マリーさんの店にでも行くか。今日の分はもうおしまいだ」


白衣代わりに羽織っていた薄手のローブを脱ぎ、俺たちは夕暮れの裏通りへと繰り出した。



石畳の隙間から立ち上る土の気配と、どこかの家から漂う煮込みの匂い。夕暮れ時の裏通りは、一日の労働を終えた町人たちの活気に満ちているはずだった。


だが、角を曲がって大衆食堂の木戸をくぐった瞬間、店内の空気がどこか重苦しく沈んでいることに気づいた。


「いらっしゃい……おや、アレンにセリアちゃんかい」


調理場の奥から顔を出したマリーさんは、いつものようにリネンの前掛けで手を拭きながら迎えてくれたが、その眉間にはくっきりと縦皺が刻まれていた。


「なんだマリーさん、妙に静かだな。客が少ないわけでもないのに」


カウンターや円卓には、仕事を終えた職人や冒険者たちが座っている。だが、いつも響いているはずの豪快な笑い声はなく、小声で何事かをひそひそと囁き合っていた。


「アレンさん!」


隅の席から勢いよく立ち上がったのは、安物の革鎧を身につけた少年リックだった。彼は焦燥を露わにした足取りで俺たちのもとへ駆け寄ってくる。


「ちょうどアレンさんを探しに行こうかって話してたところなんだよ!」


「落ち着けリック。何があった」


リックは悔しそうに奥歯を噛み締め、表通りの方向を親指で指し示した。


「表の大聖堂跡地だよ。ほら、ビショップの野郎が失脚したあと、王宮から医術院の連中が乗り込んできて、診療所を引き継いだろ?」


「ああ、宮廷医術院か。大聖堂の権威が落ちた隙に、王都の医療体制を立て直すとか言って仕切り始めたやつだな」


俺が淡々と応じると、隣で聞いていたセリアがわずかに身を固くした。彼女にとっても、王宮の組織が関わる話は他人事ではないはずだ。


「その医術院の偉そうな医師どもがさ、今日になって突然言い出したんだ。『これより本診療所は宮廷基準の高度医療施設とする。診察および処方の最低費用を三倍に改定する』ってな!」


「……三倍だと?」


思わず聞き返した。裏通りの住人にとって、大聖堂時代の治療費ですら決して安くはなかった。それをさらに三倍に跳ね上げるなど、正気の沙汰ではない。


「それだけじゃないんだよ」


マリーさんが煮込みの鍋から視線を外し、憤りを隠せない低い声で割って入った。


「今まで大聖堂の施療院で薬をもらってた貧乏人や、日雇いの連中を片っ端から追い出したんだよ。『支払能力のない平民の相手をする余裕はない。不服なら裏通りのモグリにでも頼め』ってね。衛兵を使って、門の外へ叩き出したんだってさ」


「なんということを……」


セリアの口から、抑えきれない怒りと動揺の混じった呟きが漏れた。


「宮廷医術院は、国中の優れた知見を集めて民の健康を守るための組織だったはずです。それを、平民を路頭に迷わせるような真似に使うなど……!」


「あいつらにとっちゃ、裏通りの人間なんて人間じゃねえのさ」


リックが荒々しく吐き捨てる。


「さっきも表の広場で、熱を出した赤ん坊を抱えた母親が泣き叫んでたぜ。門番に突き飛ばされて、泥水の中に転がされてた。……アレンさん、大聖堂の連中が消えて、これで街も少しはマシになると思ってたのによ。やってることは前より酷えじゃねえか」


店内を見渡せば、集まっている客たちの顔にも、怒りと諦め、そして拭いきれない不安が張り付いていた。


大聖堂という巨大な権威が瓦解したあとに滑り込んできたのは、より冷徹で、制度という名の盾を構えた宮廷医術院の支配だったというわけだ。


「追い出された連中の一部が、もうこの裏通りに流れ込んできてる」


マリーさんが重い吐息とともに、湯気を立てるシチューの皿をテーブルに置いた。


「アレンのところにも、明日あたりから頼ってくる奴が増えるかもしれないよ。……あんたに無理を言えないのは分かってるんだけどさ」


気丈なマリーさんにしては珍しく、すまなそうな視線が向けられる。


自分の手で届く範囲の日常を守るために、一日五人という枠を決めた。それは俺の譲れない生き方であり、魔力回路を保ち続けるための絶対の境界線だ。だが、表通りで弾き出された歪みは、確実にこの小さな裏通りへ雪崩れ込もうとしている。


「……食おう。冷めると不味くなる」


俺は短く告げ、スプーンを手に取った。


シチューの温もりはいつもと変わらないはずなのに、喉を通る感触はひどく味気なく感じられた。隣のセリアもまた、手元のスープを見つめたまま、深い思索に沈んでいる。


権力を笠に着た横暴は、大聖堂の専売特許ではなかった。医術院の冷たい影が、静まり返る下町の夜に音もなく忍び寄り始めている。

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