第30話
夜明けの冷気が、裏通りの湿った石畳を白く撫でていた。
すりガラス越しに差し込む朝の光を受けながら、俺は木製の調剤台を布で拭き清める。昨夜、自らの身体に巡らせた魔力の残滓は、痛みではなく微かな温もりとなって胸の奥に留まっていた。かつてのように軋むことも、焼き切れるような熱を発することもない。
「おはようございます、アレン様。湯が沸きましたよ」
奥の給湯室から、湯気を立てる真鍮の薬缶を手にしたセリアが顔を覗かせた。平民風の簡素な綿のワンピースに、純白のエプロン。王家の血を引く気品はどうしても隠しきれないが、その所作にはすっかり受付嬢としての板についた軽やかさがある。
「ああ、早いな。まだ開院まで小一時間あるぞ」
「門前には、もう三人ほどお待ちですから。少し肌寒いですし、温かい白湯でも配ってまいります」
セリアが陶器のカップをトレイに並べ始めたその時、表の通りから乱暴な足音が響いてきた。革靴が硬い石を蹴る不躾な音。裏通りの住人たちが履く擦り切れた短靴の音とは明らかに違う。
引き戸が勢いよく開け放たれた。
「おい、アレン! いるのだろう!」
入ってきたのは、金糸の刺繍が施された豪奢な祭服を纏った中年の神官だった。その後ろには、威圧的な体躯の私兵が二人、抜き身に近い姿勢で控えている。大聖堂の紋章をこれ見よがしに掲げた男は、狭い待合室を見回して露骨に鼻を鳴らした。
「……朝っぱらから騒がしいな。診察の順番待ちは外で頼む」
俺は調剤台から視線を上げず、乾いた声を返した。神官は顔を真っ赤にして卓を叩く。
「ふざけるな! 大聖堂筆頭司祭代理の命である! 貴様が抜けたせいで、本山の治癒院は立ち行かんのだ! このような薄汚い吹き溜まりでくだらん道楽を続けることは許さん。直ちに大聖堂へ戻り、以前の十倍の診療数をこなせ! さもなくば、この違法なモグリ診療所を今すぐ叩き潰す!」
男の放つ傲慢な言葉に、かつての俺なら胃の腑が重くなっていただろう。誰が誰を蹴落とし、どれだけの利益を上げるか。彼らの頭にはそれしかない。だが、今の俺にはその喚き声が、遠くの羽虫の羽音ほどにも響かなかった。
「断る。俺は大聖堂を正式に辞めたはずだ。ここで誰をどう診ようと、あんたらに指図される筋合いはない」
「貴様ッ、神罰が下るぞ! おい、力尽くで連れて行け!」
神官が後ろの私兵に顎をしゃくった瞬間、待合室の扉が再び開き、影が差し込んだ。
「おいおい、朝っぱらから人の治療院で何喚いてんだ、生臭坊主」
響いたのは、軽薄だが芯の通った少年の声だ。使い込まれた革鎧を軋ませながら、リックが肩に大剣を担いで入ってきた。その後ろから、腕まくりをした大柄な鍛冶職人や、怪我を治してもらった顔なじみの冒険者たちがぞろぞろと顔を出す。
「な、なんだ貴様らは! 大聖堂の執行官の邪魔をする気か!」
「大聖堂だか何だか知らねえがな」
リックは神官の前にずいと進み出ると、私兵の胸板を指先で小突いた。
「ここは俺たちの命の恩人の場所だ。あんたらの腐った派閥争いにアレンさんを巻き込もうってんなら、裏通りの連中全員を相手にしてもらうぜ」
「無礼な野良犬どもめ! 衛兵を呼んで全員投獄してやる!」
激昂する神官の前に、静かに歩み出たのはセリアだった。彼女はトレイを卓に置くと、懐から小さな磁器の印章を取り出し、神官の目の前に掲げた。
裏通りには決して存在しないはずの、王家の意匠。
「――身の程を弁えなさい」
セリアの凛とした声が、狭い診療所を満たした。普段の穏やかな受付嬢の顔は消え、そこには揺るぎない高潔さを湛えた王女の姿があった。
「大聖堂の不正蓄財および私兵による不法侵入の件、近衛騎士団へ報告済みです。これ以上の狼藉を働くならば、反逆の徒として直ちに処断されますよ」
「ひっ……お、王女殿下……!? な、なぜこのような場所に……」
神官の顔から血の気が完全に引いた。私兵たちも青ざめ、慌てて剣の柄から手を離す。
「ここは、王都で最も尊い命が救われる場所です。あなた方のように、人を数字と金でしか数えられない者たちが足を踏み入れてよい領域ではありません。……お引き取りを」
セリアの静かな一言に、神官たちは悲鳴のような喘ぎ声を漏らしながら、転がるように治療院から逃げ出していった。
嵐のような騒ぎが去り、開け放たれた扉から爽やかな朝の風が吹き込んでくる。
「……まったく。朝飯前に一仕事させられたぜ」
リックが頭を掻きながら笑うと、集まっていた住人たちからも安堵の笑い声が漏れた。
「あんたたち、朝から大騒ぎしてんじゃないよ!」
そこへ、湯気の立つ大きな鍋を抱えたマリーが割って入ってきた。使い古した清潔なエプロンを揺らし、呆れたように腰に手を当てる。
「ほら、アレン! 炊きたての芋粥と焼きたてのパンだよ。しっかり食わなきゃ、今日も五人診られないだろ?」
「マリーさん、いつもすみません」
セリアが嬉しそうに鍋を受け取る。住人たちも口々に「先生、今日も頼むぜ」「腕の調子、良くなったよ」と声をかけては、それぞれの仕事場へと戻っていった。
診察室に、いつもの穏やかな空気が戻る。
俺はマリーが差し入れてくれた温かい粥を口に運びながら、ふっと苦笑いをこぼした。
「みんな、過保護すぎるな」
「当然です」
セリアはお茶を淹れ直しながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「アレン様が命を削って救ってきた方々です。皆、あなたの平穏を守るためなら、大聖堂の軍勢だって追い返しますよ」
「買い被りすぎだ。俺はただ、目の前の患者を処置しただけだ」
胸に手を当ててみる。昨夜の霊草と触媒による自己治療を経て、破損していた魔力回路は確かに繋がりを取り戻しつつある。以前のように、五人を診ただけで激痛に倒れるようなことはもうないだろう。理屈の上では、日に十人でも二十人でも診られる体に戻りつつあった。
大聖堂に戻れば、再び天才治癒師として持て囃され、豪奢な部屋と名声が与えられるのかもしれない。
だが、そんなものに何の価値があるというのか。
朝の光が、木板の看板を照らしている。
『アレン治療院 ――診察は一日五人まで』
「……まあ、看板を掛け替えるのも面倒だしな」
俺が呟くと、セリアは目を丸くした。
「回路が治っても、増やすおつもりはないのですか?」
「ああ。一人ひとりの顔を見て、ちゃんと話を聞いて、確実に治す。俺のペースでやっていくさ。それ以上欲張っても、ろくなことにならないからな」
大聖堂を去ったあの日、俺が求めたのは名声でも富でもない。ただ、自分の手で触れられる範囲の誰かを、嘘偽りなく救うことだった。
セリアはしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて心からの納得を湛えた笑顔を咲かせた。
「ええ。それが、アレン様の治療院ですね」
彼女は受付の卓に戻り、真新しいカルテを丁寧に広げた。
「それではアレン様。本日の一番目の患者様をお通ししてもよろしいでしょうか」
「ああ、頼む」
古い木製の扉が、静かに軋みながら開く。
王都の片隅、一番小さな治療院で、今日もまた穏やかな一日が始まろうとしていた。




