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第29話

五人目の診察を終え、裏通りの古びた扉を閉めた時、王都の空はすでに藍色の帳に包まれ始めていた。


待合室の粗末な丸椅子を丁寧に並べ直し、セリアが受付のカウンターを布で拭き清めている。高貴な生まれを感じさせる細い指先は、今やすっかりこの狭い治療院の雑務に馴染んでいた。かつて大聖堂の司祭が差し向けた者たちを毅然と退け、この場所を守り抜いた彼女の背中には、以前のような張り詰めた影はない。


「本日もお疲れ様でした、アレン様。処方した煎じ薬の残量も、帳簿に控えておきました」


「助かるよ、セリア。あんたが来てから、事務仕事の抜けがすっかりなくなった」


俺が肩を回しながら声をかけると、セリアは誇らしげに、けれど少しだけ照れくさそうに青い瞳を細めた。


勝手口の板戸が、遠慮のない音を立てて軋んだ。入ってきたのは、背を丸めて片眼鏡を光らせた老薬師トビーだ。首に巻いた麻布からは、相変わらず乾いた土と薬草の強い匂いが漂っている。


「やれやれ、大聖堂の息がかかった見張り共が片付いたと思ったら、今度は裏通りの連中が入れ代わり立ち代わり差し入れを持ってきおる。おかげで裏口を通るのも一苦労じゃったわい」


ぶつぶつと文句を並べ立てながらも、トビーの表情に険しさはない。彼は抱えていたずっしりと重い革袋を、診察台の上にことんと置いた。


「頼まれていた例の代物だ。西の山岳ルートを伝って、ようやく手に入った。大聖堂の薬草問屋を締め出すなんぞ、百年早いわ」


袋の紐を解くと、中から現れたのは乳白色に透き通った小瓶だった。夜の闇を閉じ込めたような微かな燐光を放つ粉末が、硝子の奥で静かに揺らめいている。高純度で精製された、極めて希少な触媒だ。


「……よく手に入ったな、トビー。これだけの質となると、相当骨が折れただろ」


「ふん、がめつい年寄りの意地を見くびるでない。お前さんにこれ以上くたばりかけられては、わしの極上薬草の卸先がなくなって困るからの」


口の悪さで本音を覆い隠す老薬師に、俺は苦笑を浮かべた。だが、その胸の内にある不器用な気遣いは、痛いほど伝わってくる。


「ちょっと裏庭を見てくる。準備をしておいてくれ」


俺は小瓶を手に取り、裏庭へと続く細い扉を押し開けた。



裏庭の片隅、石壁に囲まれた小さな一角には、俺が治療院を開いてからずっと丹念に手入れを続けてきた薬草園がある。近所の住人たちからは単なる趣味の園芸と思われていたが、そこに植えられているのは市場には決して出回らない特殊な霊草――銀鈴草だった。


銀色の微細な毛に覆われた肉厚の葉が、夜露を浴びて淡い月光のように光を帯びている。大聖堂を去る際、唯一持ち出した種子から育て上げたものだ。


指先を土に差し入れ、根を傷つけないように慎重に数株を掘り起こす。指先から伝わる瑞々しい魔力の脈動は、十分に成熟したことを告げていた。


診察室に戻ると、セリアがすり鉢と蒸留器を手際よく揃えて待っていた。トビーが調達した触媒と、俺が育てた銀鈴草。この二つが揃って初めて、壊れた体内の巡りを繋ぎ直す術式が成立する。


「アレン様、本当に……今夜行うのですか」


セリアがすり鉢を押さえる手を止め、心配そうに俺を見つめてきた。その瞳には、かつて己の命を削って難病の患者を救った俺の姿を見た時の、痛切な記憶が宿っている。


「ああ。大聖堂のしがらみも片付いて、街も落ち着いた。これ以上の好機はない。心配すんな、無理な賭けをする気はないさ」


俺は銀鈴草の葉をすり鉢に入れ、乳棒で丁寧にすり潰していった。深い緑色の汁が滲み出し、診察室いっぱいに清涼な、どこか冷涼な香りが広がる。そこにトビーの持ってきた粉末を注ぎ込むと、液体は瞬く間に柔らかな琥珀色へと変化し、微細な魔力の火花を散らした。


出来上がった薬液を小さな硝子杯に満たす。冷え切った液体を一気に喉へと流し込んだ。


胃の腑に落ちた瞬間、氷のような冷気が内側から全身へと広がっていく。俺は診察台の縁に腰掛け、深く息を吸い込んだ。



意識を内側に向け、己の魔力回路を辿っていく。


かつて大聖堂で、終わりなき治療に追われ、自らの限界を無視して酷使し続けた代償。胸の中央から両腕、そして背骨へと伸びる魔力の奔流は、至るところで焼け焦げたように千切れ、毛羽立っていた。一日五人という制限は、この破損した回路が完全に焼き切れるのを防ぐための、絶対の安全弁だった。


霊草の冷たい成分が、熱を持った傷口へと染み渡っていく。そこに、トビーの触媒が持つ結合の魔力が働きかける。


俺は自身の魔力を、極限まで細く、針の先のように研ぎ澄ませて操った。他人の生命力を活性化させるのと同じ要領で、自らの壊れた回路を一つずつ縫い合わせていく。


体内で、鈍い軋みと痛みが走る。奥歯を噛み締め、呼吸を整える。額から汗が流れ落ち、診察台の木肌を濡らした。


「アレン様……」


セリアが小さく息を呑む音が聞こえる。だが彼女は決して手を出さず、じっと祈るように両手を胸の前で組んでいた。トビーもまた、片眼鏡の奥の鋭い視線で、俺の顔色を見つめている。


張り詰めた静寂の中、トクン、と胸の奥で何かが弾けるような感覚があった。


完全に途絶えていた細い魔力の筋が、一本、また一本と、琥珀色の光を帯びて繋がっていく。かつてのような激痛や発熱は起こらない。代わりに、乾ききった大地に染み込む水のように、穏やかな温もりが胸の奥から手足の先へと巡り始めた。


完全に元通り、というわけにはいかない。太い本流にはまだ亀裂が残り、昔のような無茶な高出力を連発すれば、再び崩壊する危うさはある。


だが――。


目を開けた瞬間、視界の輪郭が以前よりも遥かに澄み渡っているのが分かった。指先に魔力を集めると、淡い光が淀みなく、滑らかに灯る。


「……ふう」


口から漏れた息は、長年背負い続けてきた見えない重荷を、ほんの少しだけ下ろしたような軽さを持っていた。


「どうじゃ、アレン」


トビーが待ちきれない様子で身を乗り出してくる。


「……悪くない。全部が治ったわけじゃないが、回路の目詰まりは取れた。急に倒れるような心配は、もうなさそうだ」


俺がそう告げると、横でじっと固まっていたセリアの肩から、一気に力が抜けた。


「……よかったです。本当によかった……」


彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。セリアは慌てて袖で目元を拭ったが、溢れ出る安堵の感情を抑えきれないようだった。


「おいおい、泣くようなことじゃないだろ。俺はピンピンしてるぞ」


「泣きます! あなたがどれほど無理を重ねてこられたか……少しでも楽になられたのなら、喜ぶのが当然です」


凛とした普段の佇まいをかなぐり捨てて言い募るセリアに、俺は参ったように頭を掻いた。隣ではトビーが「まったく、人騒がせな男じゃわい」と髭を撫でながら、満足げに笑っている。


身体の芯に満ちる魔力は、以前よりも確かに安定していた。これなら、一日に診られる患者の数を増やすこともできるかもしれない。


大聖堂のように何十人も詰め込み、朝から晩まで治癒魔法を振り絞る生活に戻ることも、理屈の上では不可能ではなくなったはずだった。


だが、俺の心に迷いはなかった。


「さてと……これで明日からも、五人分の診察をきっちりこなせそうだな」


俺が何気なく口にすると、セリアが涙の残る顔を上げて、きょとんとした表情を浮かべた。


「アレン様? 魔力回路が回復したのなら、一日の制限を緩めることもできるのでは……?」


「冗談よせよ」


俺は軽く笑い、散らかった調合道具を片付け始めた。


「何十人も詰め込んで診ていたら、あんたたちとお茶を飲む時間も、裏通りの連中と馬鹿話をする暇もなくなっちまう。大聖堂を飛び出した時に、あんな生活には見切りをつけたんだ。俺は聖者様になる気はないし、偉くなりたいわけでもない」


診察室の窓から、静まり返った裏通りの夜景を見やる。石畳の上には、貧しいながらも懸命に生きる人々の営みがある。俺の目の届く範囲で、確実に手を差し伸べられる人数。それ以上を欲張る必要はどこにもない。


「俺のペースでやっていくさ。今まで通りにな」


セリアは呆れたように眉を下げたが、やがて心底嬉しそうに、柔らかな笑みを咲かせた。


「ふふ……ええ、そうですね。それが、裏通りの名医であるアレン様です。明日も一番目の患者様が来られる前に、しっかりと準備を整えておきます」


「頼むよ、受付嬢さん」


トビーが「わしはもう帰るぞ」と毒づきながら立ち上がり、満足そうに夜の闇へと消えていく。


診察室のランプの灯りが、静かな部屋を橙色に温かく照らしていた。胸の奥で巡る魔力は、かつてないほど穏やかに、確かな未来の鼓動を刻んでいる。


明日もまた、この小さな治療院の扉が開く。一日五人。目の前にやってくる患者のために、俺はここで針と薬草を手に取り続けるだけだ。

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