第28話
大聖堂の権力闘争に終止符が打たれてから、数日が過ぎた。
朝のやわらかな光が、小さな待合室の窓から差し込んでいる。使い込まれた木の床には、掃き清められた埃ひとつ落ちていない。
俺は奥の診察室で、木製の戸棚から薬瓶をいくつか取り出し、並びを整えていた。乾燥させたトゲナシ草の葉を乳鉢に入れ、すりこぎでゆっくりと擦り潰す。かすかに漂う青臭い香りが、鼻先をくすぐった。
「アレン様、おはようございます。本日のお茶をご用意しました」
エプロン姿のセリアが、湯気の立つ陶器のカップをトレイに乗せて運んできた。彼女の持ち込んだ高級磁器ではなく、すっかりこの裏通りに馴染んだ素朴な焼き物だ。
「悪いな、セリア。いつも助かる」
「いえ、これが私の仕事ですから。受付帳もすでに整えてありますよ」
彼女は朗らかに微笑むと、受付カウンターへ戻っていった。王女としての身分を隠し、ここで受付嬢として過ごす彼女の立ち居振る舞いは、以前にも増して自然なものになっている。
大聖堂を牛耳っていたビショップが失脚したことで、あちらの組織は目下、立て直しの真っ最中らしい。アレンを連れ戻せば元の神聖な権威を取り戻せるなどと浅知恵を巡らせた一部の残党神官が、連日この裏通りまで足を運んできては、強引な復帰要請や嫌がらせじみた通達書を押しつけようとしていた。
だが、それも昨日までの話だ。
治療院の引き戸が、遠慮がちな音を立てて開いた。
「失礼する。セリア様……いや、セリア殿、ご無事だろうか」
入ってきたのは、板金鎧を外し、私服の上に革の胴当てを着けた大男――近衛騎士のレオンだった。鋭い眼光は相変わらずだが、治療院の敷居を跨ぐ足取りはどこか恐縮している。
「レオン。また非番の日に来たの? 王宮の警備は大丈夫なのですか」
「はっ、本日は完全に職務を外れております。周辺の巡回を兼ねて、不審な神官どもがうろついていないか確かめに来た次第であります」
レオンは居住まいを正し、胸を張った。
「大聖堂の残党どもめ、アレン殿を無理やり連れ戻そうと画策していたようだが……今朝、西の通りで待ち伏せしていた神官らを、冒険者のガルド殿やリック殿がきっちり締め上げて追い返したと報告が入っております」
「あいつら、また勝手なことを……」
俺は苦笑しながら、診察室の暖簾をくぐって待合室へ顔を出した。
「アレン殿、おはようございます」
「おはよう、レオン。わざわざ見張りに来てくれなくてもいいんだぞ。ここはただの町医者だ」
「そうはいきません。貴殿はセリア様の命の恩人であり、この街になくてはならない方です。大聖堂の身勝手な都合で、この平穏を乱させるわけにはまいりません」
実直すぎる武人の言葉に、セリアがくすくすと笑い声を漏らす。
「ほら、アレン様。レオンもこう言ってくれていますし、甘えておけばよろしいのではなくて?」
「やれやれ。過保護な連中ばかりで困るよ」
口元を緩めながら頭を掻いた、その時だった。
からころと、軽やかな車輪の回転音が外から近づいてくる。引き戸が再び開き、小柄な少女が元気よく顔を覗かせた。
「おはようございます、アレン先生!」
「お、エレナか。もう一人でそこまで来られるようになったのか」
かつてはベッドから起き上がることすら叶わなかったエレナが、魔導具の車椅子を器用に操りながら入ってきた。その後ろからは、頑丈な体つきの父親ダリウスが、大きな木箱を抱えてにこやかに続いている。
「先生、これ! 裏の畑で採れた新鮮な野菜と、父が作った新しい薬箱です!」
「ダリウスさん、いつもすまないな」
「気にすんなよ、先生。うちの娘を助けてもらった恩に比べりゃ、こんな箱の一つや二つ、造作もねえさ。大聖堂の腰抜け神官どもが嗅ぎ回ってたらしいが、裏通りの職人仲間にも声をかけてある。変な奴が来たら全員で叩き出すから安心しな」
ダリウスが太い腕を叩いて豪快に笑う。エレナも車椅子の上から、誇らしげに胸を張ってみせた。
「私も、先生の調剤のお手伝いがしたいです。薬草の選別なら、もう覚えましたから!」
「はは、頼もしいな。じゃあ後で、トゲナシ草の茎を分けてもらうとするか」
「はい!」
花が咲いたような笑顔を見せるエレナを見ていると、胸の奥にあった張り詰めたものが、すっとほどけていくような感覚を覚える。
かつて大聖堂にいた頃は、こんな風に患者やその家族と笑い合う時間などなかった。朝から晩までひたすら治癒魔法を行使し、感謝の言葉を聞く間もなく次の部屋へ移る。救ったはずの命のその後すら知る由もない、乾いた作業の連続だった。
だが、ここには人の営みがある。怪我を治し、病を祓ったその先に、彼らの温かな日常が確かに続いているのだ。
「先生、そろそろ開門の時間ですよ。表に患者さんが並び始めています」
セリアが窓の外を確認しながら、穏やかな声で告げた。
「よし、開けるか」
俺は白衣の襟を正し、診察室の机へと戻った。
外の扉が開かれ、朝の冷たい風と共に、最初の患者が入ってくる。腰を痛めた荷運びの老人、指を深く切ってしまった鍛冶屋の見習い、熱を出した近所の子供。
身分も素性も関係ない。先着順で、順番に診ていく。
「痛むのはここか? 少し冷たい感じがするぞ」
少年の額に手のひらを当て、意識を向ける。体内の魔力回路を巡らせ、乱れた生命の流れをそっと整えていく。
以前なら、五人目を終える頃には激しい疲労感と回路の痛みに襲われていた。だが今は、胸の奥にある魔力の巡りが、驚くほど滑らかだった。
張り詰めていた神経が緩み、周囲の人々と過ごす穏やかな時間が、傷ついていた俺自身の回路を少しずつ修復してくれているのかもしれない。五人分の枠を使い切った後でも、まだ指先に魔力の余韻が残っているのが分かった。
やがて五人目の患者が笑顔で治療院を後にし、セリアが入り口の札を『本日の診察は終了しました』へと裏返した。
「ふう……今日も無事に終わったな」
俺は診察室の椅子に深く腰掛け、息を抜いた。
待合室では、エレナが丁寧に薬草の葉を揃え、レオンが真面目な顔でそれを検品するかのように見守っている。セリアが淹れ直してくれたお茶の湯気が、夕暮れの診察室に白く立ち上っていた。
「アレン様、魔力の調子はいかがですか? 少し余裕があるようにお見受けしましたが」
お茶を差し出しながら、セリアが探るように小首をかしげた。
「ああ。回路の軋みがほとんどなくなってきた。これなら、そのうち枠を増やすこともできるかもしれないな」
「本当ですか? では、一日十人くらいまで診られるようになりますね」
嬉しそうに目を輝かせるセリアに対し、俺は湯呑みを受け取って軽く笑った。
「いや、増やさないよ。一日五人のままだ」
「え? どうしてです? お身体が治ったのなら、もっと多くの方を救えるのではありませんか」
セリアだけでなく、奥で作業をしていたエレナとレオンも不思議そうにこちらを振り返った。
俺は温かい茶を一口すすり、夕日に染まる待合室の面々を見渡した。
「何十人も詰め込んで診ていたら、あんたたちとお茶を飲む時間も、エレナの手伝いを褒める時間もなくなっちまうだろ。俺は聖者様になる気はないんだ。俺のペースでやっていくさ」
大聖堂を飛び出した時に求めていたものは、名声でも権力でもない。ただ、目の前の一人を確実に救い、その後の平穏を分かち合える、このささやかな居場所だったはずだ。
セリアは一瞬虚を突かれたような顔をしたが、やがて呆れたように、けれどひときわ優しく微笑んだ。
「……ふふ、本当にアレン様らしいですね。分かりました。受付嬢として、その五枠をしっかりと守らせていただきます」
「頼むよ、セリア」
西の空が茜色から深い藍色へと移り変わっていく。裏通りの屋根瓦が夕闇に溶け込み、治療院の軒先に吊るされたランプが、ぽっと柔らかな明かりを灯した。
外の権力闘争が大聖堂を揺るがそうと、世界の情勢がどう動こうと、明日の朝もこの扉は開く。
一日五人。目の前にやってくる誰かのために、俺はここで針と薬草を手に取り続けるだけだ。
胸の奥にある魔力の残滓を静かに感じながら、俺は仲間たちの笑い声に包まれた治療院の夕暮れを、ただ穏やかに味わっていた。




