第27話
夜の帳が下りた裏通りは、先刻までの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
大聖堂から送り込まれた私兵部隊は、王立騎士団によって完全に武装解除され、縄を打たれて連行されていった。路地に残されたバリケードの残骸を片付けながら、ダリウスやリックたちが安堵の息を漏らす。彼らの手当てを終えた俺は、診察室の窓辺からその光景を眺めていた。
「……怪我人の手当て、ありがとうございました、アレン先輩」
背後から銀縁眼鏡の奥の瞳を伏せがちにしながら、クレアが声をかけてきた。手には分厚い羊皮紙の束を抱えている。
「気にするな。あんたのほうこそ、大聖堂に戻らなくていいのか?」
「はい。私はもう、あの欺瞞に満ちた場所へ戻るつもりはありません。それに……これを王宮へ届ける役目がありますから」
クレアが差し出した書類には、綿密な調査記録が記されていた。この治療院を訪れた患者たちの患部に残されていた、粗雑で暴力的な魔力の残滓――『歪な魔力痕』の分析結果だ。大聖堂が寄付金の額に応じて施していた、治癒とは名ばかりの表面的な対症療法と、それによって悪化した無数の症例。そのすべてが、克明に記録されていた。
「大聖堂の地下書庫を管理しているノアから、裏帳簿の写しも受け取っています。ビショップ司祭が横領した寄付金と、治療と偽って患者から搾取していた不正の全容です。騎士団を通じて、今夜中に王宮へ提出します」
クレアの声音には、迷いはなかった。真面目で厳格だった彼女が、己の信念に従って組織の闇を告発する側に回ったのだ。
「ノアの野郎も、相変わらず抜け目がないな」
俺が苦笑すると、クレアは眼鏡の位置を直しながら小さく頷いた。
「あの方は昔から、先輩の味方でしたから。……ビショップ司祭の独断による私兵動員、そして王女殿下への不敬。これだけの証拠が揃えば、大聖堂上層部も庇い立てはできません」
「そうかい。……まあ、あいつの自業自得だ」
俺は大聖堂の連中を恨んではいない。ただ、関わり合いたくなかっただけだ。だが、向こうから静かな日常を踏みにじりに来た以上、相応の結末を迎えるのは当然のことだった。
◆ーーーー◆
翌朝、王都の中心部に位置する大聖堂は、かつてない混乱に包まれていた。
白亜の巨塔を囲むように、王家の紋章を掲げた近衛騎士たちが整然と布陣している。豪奢な装飾が施された大回廊を、鉄靴の重厚な足音が踏み荒らしていく。
「な、なんだこれは! 無礼であろう! 聖域に武器を持ち込むなど、神への冒涜だぞ!」
豪奢な法衣に身を包んだビショップが、額に脂汗を浮かべながら喚き散らしていた。
恰幅のいい体を震わせ、取り巻きの神官たちを盾にするように後ずさる。しかし、近衛騎士たちを率いる隊長は、冷徹な視線を司祭へ向けたまま、王家の封蝋が押された令状を突きつけた。
「ビショップ司祭。王宮より、大聖堂の会計監査および私兵保有に関する強制捜査の命が下りた。神殿法を盾にした抵抗は反逆とみなす」
「ば、馬鹿な……! 大聖堂の自治権を侵害する気か! 余計な真似をするな、下賤な兵風情が!」
「自治権などというものは、法と信仰を守る者にのみ許される特権だ」
騎士隊長の声は冷ややかだった。
そこへ、騎士たちを割って進み出てきたのは、クレアとノアだった。ノアの手には、ビショップが隠蔽し続けてきた帳簿の原本が握られている。
「ビショップ司祭。あなたが主導していた『治癒の等級制度』による患者の選別、高額な寄付金の私的流用、さらには不完全な治癒魔術によって後遺症を負わせた数百件の症例記録……すべて王宮の監査官へ提出いたしました」
「クレア……! 貴様、恩を仇で返す気か! 誰の引き立てでその地位に就けたと思っている!」
ビショップが激昂し、唾を飛ばしながら指を差す。だがクレアは一歩も引かず、静かな眼差しで傲慢な上司を見据え返した。
「私は神と患者に仕える身です。あなたの私欲に仕える道具ではありません」
「おのれ……! アレンめ、あんな落ちこぼれを担ぎ上げて私を失脚させる気か! あの男は大聖堂の寄生虫だったのだ! 私がいなければ何もできぬ無能が!」
見苦しい罵詈雑言を叫ぶビショップに、ノアが淡々と書類を提示する。
「アレン殿が去った後の大聖堂の治癒成功率は、以前の三分の一以下に落ち込んでいますよ。あなたが無能と切り捨てた彼一人によって、この大聖堂の屋台骨は支えられていたのです。現実を直視なさい」
「だ、黙れ! 私は司祭だ! この国の頂点に立つべき選ばれた人間なのだぞ!」
自らの絶対的な権力が足元から崩壊していく恐怖に、ビショップの顔は醜く歪んでいた。すがりつくような目で周囲の神官たちを見回すが、誰一人として彼を助けようとする者はいなかった。長年の強権と理不尽に耐えかねていた部下たちは、一様に冷ややかな視線を向けている。
「連行しろ」
騎士隊長の無慈悲な合図とともに、鉄の手甲がビショップの腕を容赦なく締め上げた。
「離せ! 私は神に選ばれたのだ! アレン、貴様ァァッ!」
みすぼらしい悲鳴を大回廊に響かせながら、傲慢を極めた司祭は引きずられていった。
豪奢な法衣は床に擦れて汚れ、頭にかぶっていた豪奢な冠が無残に転がる。自ら蒔いた悪意の種に押し潰されるように、その姿は遠ざかっていった。
◆ーーーー◆
午後の陽射しが、裏通りの古びた石畳を優しく照らしていた。
治療院の待合室では、いつものように穏やかな時間が流れている。受付のカウンターでは、セリアが手際よくカルテを整理していた。
「院長、大聖堂の件、王宮から正式に通達が出たそうです。ビショップ元司祭は職権を剥奪され、北方の修道院へ永久幽閉されるとのことでした」
セリアが淹れてくれた湯気の立つお茶をすすりながら、俺は小さく息を吐き出した。
「そうかい。これで少しは、表通りも静かになるといいんだがな」
「ええ。大聖堂の組織改革も進められるそうです。これからは貧しい人々にも適切な手当てが行き渡るよう、王家が直接監督することになりました」
セリアは満足そうに微笑んでいる。彼女が王女としての身分を明かしてまで動いてくれたおかげで、裏通りの住人たちが脅かされる心配は完全に消え去った。
「助かったよ、セリア。あんたがいなきゃ、こうすんなりとは片付かなかった」
「お礼などいりません。私はただ、大切な場所を守りたかっただけですから」
そう言って微笑むセリアの表情には、気取ったところなど欠片もなかった。最高級の磁器で優雅にお茶を飲む姿は相変わらずだが、この小さな受付にすっかり馴染んでいる。
診察室の奥へ戻り、俺は自分の右手をじっと見つめた。
手のひらに意識を集中させると、以前よりも遥かに滑らかに魔力が巡る感覚がある。長年軋んでいた魔力回路のひび割れが、少しずつだが確実に塞がり始めていた。
大聖堂にいた頃のような無理な酷使を止め、この場所で一人ひとりの患者と丁寧に向き合ってきた成果だ。裏庭で育てている薬草の調合も功を奏しているらしい。おそらく、遠からず『一日五人』という制限を外すことも可能になるだろう。
だが――。
俺は握り拳を解き、肩の力を抜いた。
「……まあ、慌てる必要もないか」
魔力が戻ったからといって、昔のような生活に戻るつもりは毛頭ない。何十人、何百人と機械のように患者を捌き、身を削るような生き方はもうたくさんだ。
ガラリと、治療院の引き戸が開く音がした。
「こんにちはー! アレン先生、いるかい? うちの親父がまた腰を痛めちまってさ!」
元気なリックの声が待合室に響く。
「はい、受付はこちらです。本日の五枠のうち、ちょうど一番目になりますよ」
セリアの鈴を転がすような声が応対し、親切に椅子へと案内する気配が伝わってきた。
俺は白衣の袖を軽くまくり上げ、診察室の扉を開けた。
「はいはい、今行くよ。慌てるなリック、逃げたりしねえから」
のんびりとした調子で声をかけながら、俺は患者の待つ椅子へと歩み寄った。
どれだけ魔力が戻ろうと、外の権力闘争がどうなろうと、俺のやることは変わらない。
一日五人。目の前にいる患者を、確実に治すだけだ。
暖かな陽光が差し込む治療院の中で、俺は自分だけの穏やかな日常を噛みしめていた。




