第26話
重々しい金属の擦れ合う音が、夕暮れに沈む裏通りへ響き渡った。
大聖堂の紋章を刻んだ黒塗りの甲冑部隊が、狭い路地を埋め尽くすように行軍してくる。先頭に立つのは、背丈ほどもある大剣を肩に担いだ巨漢――武闘派部隊の隊長、ザックだった。その冷酷な視線が、路地の突き当たりにある俺の治療院を射抜いている。
「邪魔立てするゴミどもはまとめて叩き潰せ。アレンを引きずり出し、大聖堂の地下牢へぶち込むぞ」
ザックの獰猛な号令とともに、私兵たちが抜刀した。抜身の刃が夕闇の中で鈍い光を放つ。
だが、彼らの行く手を阻むように、路地の真ん中には頑強な木組みの防壁がそびえ立っていた。
「ここから先へは、指一本通さねえよ!」
バリケードの天辺から怒声を張り上げたのは、大工の棟梁ダリウスだった。太い腕に巨大な玄能を握りしめ、筋骨隆々の身体で堂々と立ちはだかっている。その両脇には、道具を手にした職人仲間たちがずらりと並んでいた。
「娘の命を救ってくれた先生の治療院だ! 大聖堂の横暴なんぞに壊されてたまるか!」
「野郎ども、構えろッ!」
リックの声が響いた。安物の革鎧を着込んだ少年は、短剣の柄を握り直してバリケードの隙間から私兵たちを睨みつける。背後には、かつて俺が治療した下級冒険者や町人たちが、ありあわせの棒切れや盾を手に陣取っていた。
「ふん、烏合の衆が。踏み潰せ!」
ザックが手元の兵に合図を送る。甲冑の兵士たちが一斉に突撃を開始した。
金属と木材が激突する轟音が路地に反響する。私兵たちの力任せの突入を、ダリウスたちが組み上げた防壁が軋みながらも受け止めた。上から職人たちが丸太を突き出し、リックたち冒険者が巧みに牽制の攻撃を繰り出す。地の利を活かした裏通りの防衛戦は、大聖堂の部隊の足を確実に止めていた。
治療院の玄関先からその光景を見つめながら、俺は歯を食いしばる。
大聖堂は、俺一人のためにここまでなりふり構わぬ暴挙に出てきた。自分たちの機能不全を隠し、権威を取り繕うために、罪のない町人たちまで巻き込もうとしている。
「アレン、無理に出てはいけません」
背後から、セリアの静かな声が届いた。彼女はいつもの質素な平民風の服を着ているが、その立ち姿には隠しきれない気品と凛とした強さが宿っていた。
「だが、あいつらが俺のために傷つくのを見てるわけにはいかない」
「皆さんは、あなたを守りたいからここにいるのです。その想いを無下にしてはいけません」
セリアの言葉に、俺は息を呑んだ。
その時、激しい破壊音が響いた。ザックが大剣を力任せに振り抜き、防壁の支柱を叩き割ったのだ。厚い木板が弾け飛び、ダリウスが足場を崩されて後方へ吹き飛ぶ。
「親方ッ!」
リックが叫びながら飛び出すが、私兵の盾で弾き返され、地面を転がった。圧倒的な装備と訓練の差が、防衛線をじわじわと押し崩していく。私兵たちが防壁の裂け目から雪崩れ込み、治療院の敷地へと迫る。
「終わりだ、アレン! 大人しく縄を受けろ!」
ザックが血走った目で笑い、大剣の切っ先をこちらに向けた。
俺は前に出ようと一歩を踏み出す。魔力回路の軋みを覚悟し、掌に意識を集中させかけた――その瞬間だった。
ふわりと、紅茶の香りが鼻腔をくすぐった。
セリアが、俺の横を通り抜けて前へと進み出る。その両手には、ひとつの磁器が捧げ持たれていた。
裏通りの薄暗がりにはおよそ似つかわしくない、純白の磁器に繊細な金と瑠璃色で描かれた最高級のティーカップ。彼女がこの治療院に来た初日から、ずっと大切に使い続けていた私物だ。
セリアは、迫り来る私兵たちの真正面に立ち、そのカップの底をザックの目の前に突きつけた。
「身の程を知りなさい、大聖堂の狗ども」
凛とした、通る声が路地を支配した。
ザックは鼻で笑おうとしたが、その視線がカップに刻まれた意匠に吸い寄せられた瞬間、顔から血の気が引いた。
そこに刻まれていたのは、王都の誰もが恐れ敬う、王家直系の真紅の双頭鷲の紋章だった。偽造など到底不可能な、王族専属の職人のみが施せる精緻な魔力刻印が、夕暮れの光を浴びて淡く輝いている。
「な……王家の……紋章……? なぜ、そんなものを下町の小娘が……」
「小娘、ですか。無礼を弁えぬ者ですね」
セリアは冷ややかに目を細め、静かに言い放った。
「私はセリア・フォン・グランゼル。現国王が息女にして、王位継承権を持つ者です。我が庇護下にあるこの場所で、大聖堂の私兵風情が王家の名もなき民に刃を向けること……万死に値すると知りなさい」
王女――その名が発せられた瞬間、私兵たちの足が完全に止まった。武器を構えていた手から力が抜け、路地全体が水を打ったように静まり返る。
「ば、馬鹿な! 王女殿下がこんな掃き溜めにいるはずが――」
ザックが狂乱したように叫び、大剣を振り上げようとした。
その切っ先が動くより早く、路地の入り口から地響きのような蹄の音が轟いた。
「そこまでだ! 不埒者ども、武器を捨てよ!」
白銀の重装鎧を身に纏った屈強な騎士――レオンが、近衛騎士団の精鋭を率いて路地を制圧するように駆け込んできた。馬を降りたレオンは一瞬で間合いを詰めると、ザックの手首を柄頭で打ち据え、大剣を地面に叩き落とす。
「ぐあッ!?」
「セリア殿下の御前である! 王族に対する反逆と見なされたくなければ、全員武装を解除し膝を突け!」
近衛騎士たちが瞬く間に私兵を取り囲み、手向かう隙も与えず武器を奪い去る。王家の威光に呑まれた私兵たちは、次々と石畳に膝を突いた。
ザックは縛り上げられ、信じられないものを見る目でセリアを見つめながら、騎士たちに引きずられていく。
裏通りを脅かしていた暴力の嵐は、王家の絶対的な権威の前に、跡形もなく鎮圧されたのだった。
静寂が戻った路地で、ダリウスやリックたちが呆然とセリアを見つめている。王女という途方もない存在を前に、誰もがどう声をかけていいのか分からず硬直していた。
セリアはふうと小さく息を吐くと、手にしていたティーカップを抱え直し、困ったように眉を下げた。
「……少し、騒がしくしてしまいましたね」
そのいつものおっとりとした口調に、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
「お、お嬢ちゃんが……いや、王女様だったのかよ……」
ダリウスが玄能を取り落としそうになりながら呟く。
「へへっ、すげえや。俺たち、王女様と一緒に戦っちまったのか」
リックが痛む肩を押さえながら、誇らしげに鼻を鳴らした。
レオンがセリアの元へ歩み寄り、深々と頭を下げる。
「殿下、ご無事で何よりです。騎士団への連絡が遅れ、申し訳ございませんでした」
「よいのです、レオン。あなたの到着が完璧な時機でした」
セリアは柔らかく微笑み、それからゆっくりと俺の方へ振り返った。その瞳には、先ほどの威厳ある王女の顔ではなく、いつもの真面目で少し不器用な受付嬢の光が宿っていた。
「アレン。お怪我はありませんか?」
「怪我はないよ。……驚いたな。薄々ただ者じゃないとは思ってたが、まさか本物の王女様だったとはね」
俺が肩を竦めてみせると、セリアは少しだけ恥ずかしそうに頬を染めた。
「隠していて申し訳ありません。ですが、私はここであなたの助けになりたかったのです。あなたが救ってくれたこの穏やかな場所を、どうしても壊されたくありませんでした」
彼女の真っ直ぐな言葉が、胸に染み渡る。
俺は自分の右手を持ち上げ、掌を見つめた。緊迫した状況の中で魔力を巡らせようとしたが、不思議なことに、以前のような焼き切れるような激痛は走らなかった。むしろ、裏庭で調合した薬草と、この場所で積み重ねてきた規則正しい日々の成果か、破損していた魔力回路に確かな巡りの良さが戻りつつあるのを実感していた。
もしかしたら、一日五人という制限を越えて、以前のように何十人もの治療ができる身体に戻れるのかもしれない。
大聖堂に戻れば、再び筆頭治癒師として持て囃され、栄誉も富も思いのままだろう。
だが――。
傷だらけになりながら笑い合うダリウスやリックの姿を見て、そして目の前で安心したように微笑むセリアを見て、俺の心は微塵も揺らがなかった。
あんな権力闘争と選別の場所に、戻る気など最初からありはしない。
制限が解除されようと、魔力がいくら戻ろうと、俺のやるべきことは決まっている。
「さてと……大工の親方、肩が外れかけてるぞ。リックも擦り傷だらけだ。中に入れ。診てやるよ」
「お、おいアレン先生、今日の五人の枠はもう埋まってるんじゃねえのか?」
ダリウスが遠慮がちに尋ねてくる。
俺は口元を緩め、治療院の扉を押し開けた。
「例外だ。今日は特別に腕が鳴るんでね。――まあ、明日からはまた、俺のペースでやっていくさ」
セリアが嬉しそうに目を細め、胸に手を当てて深く頷いた。
「はい、院長。受付の準備は整っております」
夕暮れの柔らかな光が、小さな治療院の看板を照らし出していた。互いの無事を確かめ合うように視線を交わし、俺とセリアは静かに微笑み合った。




