第40話
夜明けの冷気がまだ石畳の底に沈んでいる時間だった。
路地の向こうから響いてきたのは、規則正しく硬質な金属音だ。鉄靴が濡れた道を均等な間隔で踏みしめる重々しい響きに、俺は診察室で煎じ薬を詰めていた手を止めた。
窓枠の隙間から表を覗く。霧が立ち込める細い通りを、揃いの胸当てと長槍で武装した衛兵隊が塞ぎつつあった。その中央で胸を反らせているのは、仕立ての良すぎる医師服を着た丸顔の男――ベルナールだ。昨日ルシアンが怯えた目で警告してきた『締め付け』が、早くも形を取って現れたらしい。
診療開始を待って路地の隅に身を寄せていた数人の町人たちが、ざわめきながら後ずさる。生活の垢にまみれた彼らにとって、銀の鎖で縁取られた宮廷医術院の徽章は、それだけで息を詰まらせる威圧感を持っていた。
「おい、朝から物々しいな」
俺が独り言のように呟くと、背後で静かに衣擦れの音がした。エプロンを整えたセリアが、いつもの端正な足取りで俺の隣へと歩み寄ってくる。
「……宮廷医術院の資材統括医師ですね。衛兵を引き連れて平民の路地へ乗り込んでくるなど、尋常の査察ではありません」
セリアの声音は凍てつくように冷えていた。その青い瞳は、窓の外の男たちを鋭く射抜いている。
玄関の木扉が、外側から槍の石突きで荒々しく叩かれた。乾いた打撃音が狭い待合室に反響し、壁の漆喰がわずかにパラパラと落ちる。
「中にいる無認可治癒師アレン! 速やかに表へ出ろ! 宮廷医術院および警衛隊の命である!」
腹の底から絞り出したようなベルナールの声が、薄暗い路地に響き渡った。怯えた患者たちが顔を見合わせ、逃げ道を求めて視線を泳がせている。これ以上扉を叩かせて、近所に余計な恐怖を撒き散らすわけにもいかない。
「セリア、鍵を外してくれ」
「はい。ですが、決して無茶はなさらないでください」
セリアは短く頷き、滑らかな手つきで閂を外した。扉が外側へ開かれると、朝の湿った冷気とともに、油と磨かれた金属の匂いが室内に流れ込んできた。
ポーチに歩み出た俺の前に、十人近い衛兵が半円を描いて槍を構える。その中心で、ベルナールが肥えた顎を撫でながら、侮蔑の混じった薄笑いを浮かべていた。
「やあ、ようやくお出ましかな。大聖堂を追い出された落ちこぼれが、こんな薄汚い掃き溜めで何を企んでいるかと思えば……」
ベルナールは芝居がかった仕草で袖口を直し、従者に持たせていた羊皮紙の巻物を仰々しく掲げた。
「貴様に対し、即時の診療所閉鎖および営業停止を命ずる! 罪状は、無認可の呪術医療による人心の惑乱、ならびに王都全域に蔓延しつつある感染症の発生源隠匿容疑だ。直ちに建物を明け渡し、我々の取り調べに応じてもらおう」
通りを塞がれた患者たちの間から、息を呑む音と、抑えきれない憤りの唸り声が漏れた。
「な、なんだって……!?」
「アレン先生が病気の発生源なわけないだろ! 先生のおかげで助かった人間がどれだけいると……!」
「黙れ、下賤の者が!」
ベルナールが眉を吊り上げ、怒鳴り散らした。衛兵たちが一歩前へ踏み込み、石畳を槍の柄で打ち鳴らす。その威圧に、声を上げた男が唇を噛んで黙り込んだ。恐怖で支配しようとするやり口は、いつの時代も、どの組織でも変わらない。
俺が口を開こうとした刹那、背後から凛とした気配が前に進み出た。
「その命令書、改めさせていただきます」
セリアだった。平民の質素な服を着ているにもかかわらず、その立ち居振る舞いには一切の乱れがない。彼女は衛兵の穂先を意に介する様子もなく、ベルナールの手元へと冷然と手を伸ばした。
「な、なんだ貴様は! 無礼な平民の小娘が、宮廷医師の書状に触れるなど――」
「拝見します」
セリアの眼光に気圧されたのか、ベルナールが言葉を詰まらせた隙に、彼女は羊皮紙を淀みなく引き寄せた。そして、表面に記された条文と末尾の署名へ、わずか数秒で視線を走らせる。
薄く開かれたセリアの唇から、氷のような乾いた声が紡ぎ出された。
「宮廷医術院資材局の単独印のみ。王室法務局の花押はおろか、王都警備統括本部の副署すら存在しませんね」
「な、何を馬鹿なことを……! これは非常時における防疫特例措置だ! 医術院の権限において、危険分子を即時拘束する権利が認められている!」
唾を飛ばしてまくし立てるベルナールを、セリアは見下ろすような瞳で見据えた。その声には一片の揺らぎもなかった。
「法務局の花押なき差し押さえ令状など、ただの紙屑です。公権力を騙るおつもりですか?」
痛烈な指摘に、ベルナールの顔が朱に染まった。額に青筋を浮かべ、細い目を怒りで吊り上げる。
「貴様……! 法を盾にしてこの場を逃れられると思うな! 衛兵、何をぼさっとしている! その女と治癒師を捕縛しろ!」
衛兵たちが身構え、槍の切っ先がセリアの胸元へと向けられた。その瞬間、俺はセリアの肩に手を置き、彼女の前に身体を滑り込ませた。相手の敵意を真っ向から受ける位置に立ち、軽く息を吐く。
「そこまでにしときなよ、役人さん」
「アレン様……」
背後のセリアが小さく名を呼ぶ。俺は振り返らず、気怠げな調子のまま、ベルナールの視線を受け止めた。
「見ての通り、ここはただの小さな治療院だ。怪しい呪術もやってなけりゃ、感染源を匿ってもいない。ただ、朝から並んでる患者を診ようとしてるだけだ。正規の手続きも踏んでない紙切れ一枚で、力づくで押し通すつもりかい?」
「黙れ! 無認可のヤブ医者が何を偉そうに! 衛兵、構わん、突入しろ!」
ベルナールが金切り声を上げた、その時だった。
「待ったァッ!」
通りの角から、地鳴りのような怒号が轟いた。
衛兵たちが驚いて振り返る。路地の先から押し寄せてきたのは、一人や二人ではなかった。大工道具を握りしめた筋骨隆々の男たち、前掛けを締めた商店の店主たち、そして路地裏に暮らす無数の住人たちだった。
先頭を切って駆け込んできたのは、肩で息をするダリウスだった。その隣には、腕まくりをしたマリーが仁王立ちで続いている。
「おい役人! うちの大事な先生に、何の言いがかりをつけてんだ」
ダリウスが太い腕を突き出し、衛兵とベルナールの間に割り込んだ。荒くれ者揃いの職人たちを引き連れた大工の親方の迫力に、前列の衛兵が思わずたじろぐ。
「ダリウスさん、マリーさんまで……」
俺が苦笑交じりに声をかけると、マリーが腰に手を当ててベルナールを睨みつけた。
「当たり前だよアレン! 朝から医術院の腰抜けどもが物騒な真似してるって聞いて、飛んできたんだ! あんたら、アレンの治療院を潰そうなんて百年早いよ!」
「な、なんだこの下賤な群衆は……! 衛兵、公務執行妨害だ、全員叩き出せ!」
狼狽しながら喚くベルナールに対し、ダリウスが無造作に懐から一束の分厚い紙を取り出した。粗末な藁半紙を麻紐で束ねたものだが、そこにはびっしりと無数の署名と血判が並んでいた。
「生憎だがな、俺たち裏通りの職人連合と商業組合、それに町議会の連名で、今朝がた正式に届け出を済ませてきたところだ!」
ダリウスは分厚い束をベルナールの鼻先に叩きつけるように突きつけた。
「これが裏通り自衛陳情書だ! アレン先生が日頃からどれだけ真っ当に俺たちを診てくれてるか、正規の営業記録と納税の控えも全部添えてある! 町議会の総代の承認印もあるぞ。正式な法的手続きも通さずに治療院へ手を出すなら、下町中の工房と市場を全部止めて、領主館へ直接訴え出てやるからそう思え!」
「な……っ!? 町議会だと!? 平民風情が、結託して医術院に楯突く気か!」
ベルナールの声が上擦った。
背後に控える衛兵たちの顔色も変わり、互いに視線を交わしている。相手が数人の貧民なら力づくで蹴散らせるが、下町の経済を回す職人連合や商業組合が本気で結束し、暴動や一斉休業を起こせば、責任を問われるのは前線にいる衛兵隊自身だ。
さらにセリアが、凛とした声で追い打ちをかけた。
「法務局の手続きを無視した不当な実力行使、ならびに自治共同体の正当な陳情に対する侵害。この事実、そのまま放置されるとお考えですか? 資材統括医師殿」
「くっ……おのれ、口の減らない連中め……!」
ベルナールは顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。周囲を取り囲む下町の人々の視線は、もはや恐怖ではなく、明確な拒絶と怒りに染まっている。ここで強引に踏み込めば、流血の事態になりかねない。
計算高い日和見主義者であるベルナールは、勝ち目がないと悟るや否や、醜悪に顔を歪めた。
「……今日のところは見逃してやる! だが覚えておけ、医術院の決定は絶対だ! どうせ近いうちに、この一帯は特例隔離施設として丸ごと封鎖されることになるのだからな! その時になって泣きついても遅いぞ!」
捨て台詞を吐き散らし、ベルナールは衛兵たちに後退を命じた。槍を下ろした兵たちが蜘蛛の子を散らすように路地を引き返していく。
その背中が完全に角を曲がって消えると、張り詰めていた空気が一気に解け、下町の人々から安堵と歓声が上がった。
「やったぞ! 追い払った!」
「先生、怪我はなかったかい!?」
駆け寄ってくる人々に対し、俺は息を吐きながら頭を下げた。
「ダリウスさん、マリーさん、みんなも……助かったよ。わざわざ陳情書まで用意してくれたのか」
「へっ、水くさいこと言うなよ先生」ダリウスが白い歯を見せて笑い、逞しい手で俺の肩を叩いた。「俺の娘を救ってくれた恩を、こんな紙切れ束で返せるわけもねえがな。あんたがここを守ってくれるなら、俺たちがあんたの盾になる。裏通りを舐め腐った医術院の好きにはさせねえよ」
「そうだよアレン、あたしたちを頼りなさいっての!」
マリーのからりとした笑い声に、周囲の町人たちからも温かい笑いが漏れる。自分一人で抱え込むしかなかった大聖堂の時代とは違う。ここには、泥臭くも確かな居場所があるのだと、胸の奥が静かに温かくなった。
だが、ベルナールが去り際に吐き捨てた言葉が、耳の奥に冷たい棘のように引っかかっていた。
特例隔離施設――。
物流を断たれれば、病の蔓延より先に下町全体が干上がる。
「……皆さん、ありがとうございます。騒がせてしまいましたが、本日の診察を始めます。枠は決まっていますが、必要な煎じ薬はお配りしますので、どうか慌てずにお待ちください」
セリアが頭を下げ、丁寧に患者たちを誘導し始める。俺もまた気持ちを切り替え、白衣の袖をまくって診察室へと戻った。
遅れて始まったその日の診療枠を、俺は一人ひとり慎重にこなしていった。持ち込まれる症状の多くは初期の黒枯れ病特有の倦怠感や、それに怯える人々の体調不良だった。生命力を活性化させる魔法を極限まで絞りながら通し、裏庭の変異銀鈴草を煮出した薬を渡していく。
正午を過ぎ、予定していた五人目の診察を終えた頃には、治療院の内外は再び静けさを取り戻していた。
待合室の片付けを終えたセリアに、俺は診察室から声をかけた。
「セリア、さっきの男が言っていた言葉……気になるな」
「はい」セリアは手元の布巾を置き、引き締まった表情で頷いた。「特例隔離施設。医術院は、黒枯れ病の感染拡大を食い止めるためではなく、最初から下町を切り捨て、実験場として隔離する口実を探しているように思えます」
「ああ。地下水脈に呪毒を流し込んで効能を確かめていた連中だ。最初から下町で感染が広がる時期も、その後の封じ込めや隔離の手順も、すべて筋書き通りに進めているんだろう」
冷酷な絵図を描いた医術院上層部への憤りを胸に抱えながら、俺は気分転換を兼ねて勝手口から裏庭へと出た。
木漏れ日が差す狭い庭には、刈り取られてすっかり葉の少なくなった銀鈴草の畝が並んでいる。昨夜までに残ったわずかな葉までかき集めて煎じ薬に回し、根株を小分けにして配ったため、緑の茂みは見る影もなく寂しくなっていた。それでも、まばらに残った細い茎の先で、微かな銀色の燐光が頼りなく揺れている。これが黒枯れ病の呪詛を吸い寄せて無力化する唯一の手がかりだが、単なる薬草茶の配布だけでは、やがて来るであろう大規模な封鎖には対抗できない。
しゃがみ込み、わずかに残った株の土の湿り気を確認していると、背後の路地から乱れた足音が近づいてきた。
ダリウスやマリーの足音ではない。老骨に鞭打って懸命に走ってきたような、激しい息遣いと不揃いな足音だ。
「ハァッ……ゼェッ……! アレン殿、セリアのお嬢さん……っ!」
裏庭の木戸を勢いよく押し開けて転がり込んできたのは、薬師のトビーだった。ずり落ちかけた片眼鏡を慌てて指先で押し上げ、肩を激しく上下させて脂汗を流している。
「トビーさん? どうしたんだ、そんなに息を切らして」
立ち上がった俺の前で、トビーは周囲を油断なく見回すと、裏庭の木戸を素早く閉め、胸元から油紙に厳重に包まれた一通の書状を取り出した。震える手で差し出されたその紙には、宮廷医術院の深紅の封蝋が押されていたが、その印章は中枢の極秘機関を示す特殊な形状をしていた。
「こ、これを見るんじゃ……! 医術院に潜り込んでおる昔馴染みから、命からがら回ってきた代物でな。奴らめ……来週にも下町全域を封鎖して、住民をまるごと『病棟』へ送り込む計画を進めておるわい……!」
突き出された密書から、言い知れぬ禍々しい魔力の気配がかすかに漂っていた。




