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第24話

診療室の擦りガラス越しに差し込む朝の光は、いつもより少しだけ白く霞んでいた。


すり鉢の中で乾燥薬草を擂り潰す。小気味よい音が室内に響くたび、青臭くもどこか甘い芳香がふわりと立ち上った。トビーが運んできてくれた山岳部族の薬草だ。乾燥の加減も申し分ない。


「アレンさん、一番目の患者様をお通ししてもよろしいですか」


受付の引き戸が控えめに開き、セリアが顔を覗かせた。平民風の簡素な綿の服を着ているが、背筋の伸び方や身のこなしには隠しきれない気品がある。


「ああ、頼む」


俺が頷くと、セリアは微かに微笑んで一礼し、待合室へと戻っていった。


通されてきたのは、裏通りで鍛冶屋を営んでいる職人の親方だった。肩から二の腕にかけて赤黒く腫れ上がっている。金属片が皮膚を裂いて入り込み、中で化膿しているようだった。


「すまねえな、先生。外が物々しいってのに」


「気にするな。椅子に座って、右腕を出してくれ」


親方が恐縮しながら木製チェアに腰掛ける。俺は傷口に軽く手をかざした。微小な魔力を流し込み、皮膚の下の異物と組織の損傷状態を読み取る。


大聖堂の治癒師なら、表面の皮膚だけを無理やり塞いで終わりにするか、あるいは法外な寄付金を要求して門前払いにする傷だ。だが、異物を残したまま傷口だけを塞げば、後で筋肉が腐り落ちて腕を切り落とす羽目になる。


「少し熱くなるぞ」


手のひらから淡い光を灯す。患部の細胞を活性化させ、異物を自然に押し出しながら、損傷した筋繊維を一本ずつ編み直すように繋いでいく。


その時だった。


表通りへと続く路地のほうから、金属が擦れ合う耳障りな音と、怒号が響いてきた。


「開けろ! 不法建築のバリケードを撤去し、モグリの治癒師を連行する! 大聖堂の命である!」


木製の防護柵が激しく蹴破られる鈍い衝撃音が、診察室の壁を震わせる。親方の身体がびくりと強張った。


「動くな。手元が狂う」


俺は視線を手元から逸らさず、静かに告げた。集中を乱すわけにはいかない。


大聖堂の司祭ビショップが雇った傭兵部隊だろう。俺が抜けた大聖堂では、高位の治療を施せる人員が足りず、貴族たちからの突き上げに悲鳴を上げているとクレアから聞いている。焦った司祭が、力尽くで俺を連れ戻そうと躍起になっているのだ。


だが、外から聞こえてきたのは、傭兵たちの勝ち誇った声ではなかった。


「おいおい、朝っぱらから人の家の前で騒ぐんじゃねえよ!」


聞き覚えのある若い声が、路地に鋭く響き渡った。リックだ。


「大聖堂の威光がどうしたって? ここは俺たちの街で、アレン先生は俺たちの命の恩人だ。テメエらみたいなゴロツキ神官の言いなりになんかさせるかよ!」


「小僧が、調子に乗るな! 神罰が下るぞ!」


「神罰なら、てめえらの頭の上に落ちてくるぜ!」


鈍い打撃音と、甲冑が石畳に叩きつけられる音が続いた。リックの身軽な動きが目に浮かぶ。魔物の毒で死にかけていたあの少年が、今では一人前の冒険者として最前線で武器を振るっているのだ。


さらに、重厚な足音が響いた。娘のエレナを救われたダリウスたち、腕利きの職人連中だ。


「うちの娘の命を救ってくれた先生の邪魔をする奴は、この俺が叩き出す! 木っ端役人が偉そうに裏通りへ踏み込んでくるんじゃねえ!」


屈強な男たちの怒号と、金属の打ち合う音が重なる。傭兵たちのたじろぐ気配が、空気の揺らぎとなって伝わってきた。


「……よし、終わったぞ」


俺は光を収め、親方の腕から手を離した。赤黒く腫れ上がっていた皮膚は滑らかな元の状態に戻り、金属片はトレイの上にぽとりと落ちていた。


「う、うそだろ……あんなに痛かったのに、嘘みたいに軽いや……」


親方が腕を回しながら、信じられないといった顔で自分の腕を見つめている。


「二、三日は重いものを持つのを控えてくれ。血の巡りが良くなりすぎてるからな」


「ありがとうよ、先生! 本当に助かった!」


親方が深々と頭を下げて診察室を出ていくと、入れ替わりにセリアがお茶を運んできた。トレイの上に載せられているのは、繊細な金彩が施された白磁のティーカップだ。明らかに裏通りの治療院には不釣り合いな最高級品である。


「外の騒ぎ、すっかり収まりましたね」


セリアは涼やかな声で言いながら、カップを机の上に置いた。湯気と共に、上品なハーブの香りが漂う。


「リックやダリウスさんたちが、大聖堂の傭兵たちを路地の入り口まで追い払ってくれたようです。近所の方々も総出で箒や角材を持って加勢してくださって」


「……まったく、物騒な連中だな」


俺は苦笑しながら、温かいお茶に口をつけた。舌の上に広がる柔らかな渋みと甘みが、治療で使った神経をじんわりと解きほぐしていく。


「でも、嬉しいですね」


セリアが目を細め、胸元に手を当てた。


「かつては大聖堂の権力に怯えるだけだった街の人々が、アレンさんを守るために団結している。あなたがここで積み重ねてきた時間が、確かな力になっているんです」


「俺はただ、目の前の患者を治してきただけさ。大げさなもんじゃない」


「その『だけ』が、どれほど尊いことか。大聖堂の司祭たちには、一生理解できないでしょうけれど」


セリアの言葉には、かつて理不尽な呪いに苦しめられ、権力闘争の道具にされかけた者としての静かな怒りと誇りが滲んでいた。


待合室には、外の騒ぎを聞きつけて不安そうにしていた次の患者たちがいた。セリアはすぐに受付に戻ると、優雅な所作で同じ高級カップに淹れたハーブティーを一人ひとりに配り始めた。


「どうぞ、心を落ち着けてお待ちくださいね。アレン先生の腕は確かですから、何も心配はいりませんよ」


その柔らかな微笑みと堂々とした立ち居振る舞いに、患者たちの強張っていた表情がみるみるうちに和らいでいく。下町の粗末な待合室が、まるで王宮のサロンのような穏やかな空気に包まれていくのを見て、俺は小さく息を漏らした。


受付嬢としても、すっかり板についている。


午前中の診察は順調に進んだ。古傷が痛むという老人、階段から落ちて足を挫いた商人、そして軽度の熱病に冒された子供。どれも特級の技術をもってすれば、跡形もなく治癒できるものばかりだ。


四人目の治療を終えたところで、胸の奥に意識を向けてみる。


以前なら、四人目を治したあたりで魔力回路に焼き付くような痛みが走り、呼吸が浅くなっていた。だが今は違う。トビーの薬草による養生と、患者たちとの無理のない関わりの中で、擦り切れていた回路の端が微かに繋がり直しているのを感じる。


一日五人という制限。


それはかつて、己の限界を超えて身体を壊した俺自身に課した戒めだった。だが、この傷が完全に塞がったとしても、俺のやり方を変えるつもりはない。


大聖堂のように、権威を誇示するために際限なく人を集め、身分で選別するような真似はまっぴらだ。一人ひとりと向き合い、確実に命を繋ぎ止める。それこそが、俺が選んだ道なのだから。


「先生! 最後の五人目、連れてきたぜ!」


治療院の扉が勢いよく開き、リックが誇らしげな顔で入ってきた。その後ろには、腕に擦り傷を負った自警団の若い男が立っている。先ほどの小競り合いで浅く切られたらしい。


「リック、治療院の中では静かにしろと言っているだろう」


「へへっ、すまねえ。でもよ、大聖堂の奴ら、完全に腰が引けて逃げ出してったぜ! 『この異端どもが、覚えていろ!』なんて捨て台詞まで吐いてさ!」


リックが革鎧の胸をドンと叩く。その屈託のない笑顔に、待合室に残っていた近所の人々からもどっと笑い声が上がった。


「まったく、怪我人を作るなっての」


俺は溜息をつきながら、五人目の若者を診察用のチェアに促した。


「座れ。すぐに終わらせる」


浅い切り傷だ。手をかざしてわずかな魔力を通すと、皮膚の裂け目は見る間に塞がり、薄いピンク色の新しい皮膚へと置き換わった。


「すげえ……本当に一瞬で消えちまった」


若者が目を丸くして腕を撫で回す。これで今日の五人は終わりだ。


診察室の机の上に置かれた木製の札を裏返し、『本日の診察は終了しました』の面を表に向ける。いつも通りの、変わらない日課だ。


外からは、ダリウスたちがバリケードを補修し、さらに頑丈な防護柵へと作り替える槌音が響いていた。近所の女将さんたちが差し入れのスープを配り、男たちが笑い合いながら作業を進めている。


大聖堂の司祭がこれで諦めるとは思えない。手持ちの傭兵を退けられたビショップは、次はさらに狡猾で強硬な手段を講じてくるはずだ。クレアがもたらしてくれた情報によれば、教会内部の正規部隊を動かす可能性すらあるという。


だが、俺の心は不思議なほど静かだった。


「アレンさん、お疲れ様でした」


セリアが温かい布巾を手渡してくれる。受け取った布巾で手を拭いながら、俺は窓の外で談笑する仲間たちの姿を眺めた。


大聖堂にいた頃の俺は、たった一人で重圧を背負い込み、すり減っていくだけだった。だが今は、俺の手の届かない背中を守ってくれる者たちがいる。


「焦る必要はないさ」


俺は呟き、布巾を畳んだ。


「相手がどれだけ喚こうが、俺は俺のペースでやっていくだけだ」


「ええ。どこまでもお供いたします」


セリアが晴れやかに微笑む。その澄んだ瞳には、一片の迷いもなかった。


路地を満たす仲間たちの活気ある声を聞きながら、俺は胸の奥で静かに熱を灯す魔力回路を意識した。完全な決着はまだ先だ。だが、この小さな治療院で守るべき日常の輪郭は、かつてないほど強固に、確かにここに存在していた。

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