第23話
頑丈な木の杭が幾重にも組み合わされ、治療院の正面には急造とは思えないほど堅牢な防壁が立ち上がっていた。すき間から漏れる陽の光が、板張りの床に格子模様の影を落としている。
「おいおい、これじゃあまるで前線の詰所だな」
俺が苦笑交じりに呟くと、隣で包帯を整理していたセリアが、悪戯っぽく口元を緩めた。
「ダリウスさんたちが張り切って補強してくださったんです。大聖堂の荒くれ者が押し寄せてきても、これなら簡単には突破されませんよ」
彼女の手元には、使い古されたリネン布が整然と積まれている。だが、肝心の薬瓶の棚はほぼ空っぽのままだ。大聖堂の手回しによって表通りの問屋が取引を止めて以来、外傷用の軟膏も解毒剤の調合素材も底をつきかけていた。
いくら砦のような壁があっても、中身が伴わなければ治療院としての用をなさない。俺は痛むこめかみを指先で軽く押さえた。
その時、裏口の重い木扉が、控えめに二度叩かれた。
セリアが警戒して身を固める。俺は手でそれを制し、扉の閂を外した。隙間から滑り込んできたのは、薬草の青臭い匂いと、粗末な外套を頭から被った小柄な影だった。
「……まったく、大聖堂の犬どもめ。裏路地の角ごとに突っ立っていやがる」
フードを跳ね上げたのは、片眼鏡を光らせた老薬師トビーだった。背負っていた巨大な麻袋を、ドスンと床に下ろす。布越しにも、澄んだ薬効の香りが部屋いっぱいに広がった。
「トビーさん……それ、まさか」
「言ったろ、わしを誰だと思ってやがる。表の問屋が締め出されたってんなら、西の山岳部族の密輸ルートから引っ張ってきたまでのことよ」
トビーは不敵に笑い、袋の口を広げてみせた。中には、厳重に油紙で包まれた上質の止血草や、魔力回復を助ける銀露草の乾燥束がぎっしりと詰まっていた。どれも市場では容易に手に入らない一級品ばかりだ。
「こんな無茶をして……大聖堂に睨まれたら、あんたの店ごと潰されるぞ」
「ふん、権力より義理人情ってな。お前さんの腕に惚れ込んで薬を卸してんだ。あんな腐った聖職者どもの顔色を窺って商売畳むくらいなら、野垂れ死んだほうがマシってもんさ」
ぶっきらぼうに言い捨てながら、トビーは棚の奥へさっさと薬瓶を並べ始める。金にがめつい普段の態度とは裏腹に、その背中には職人の意地が滲んでいた。
「それにだ、アレン」
トビーが振り返り、片眼鏡の奥の鋭い目を細めた。
「お前さんの作った例の茶、あれを毎日煎じて飲んでるおかげで、持病の腰痛が嘘みたいに消えたんだ。あの調合……ただの気休め薬草茶じゃねえな?」
「……裏庭で育ててた雑草を適当にブレンドしただけだ」
「嘘をつけ。あれは傷ついた魔力筋を内側から繋ぎ直す、失われた古代の処方だろ。お前さん、自分の体を実験台にして、少しずつ回路を繕ってやがんな」
図星を突かれて、俺は曖昧に視線を逸らした。
魔力回路の破損は不治とされている。だが、この街で様々な患者を診て、彼らと日々の言葉を交わすうちに、ある感覚を掴みつつあった。張り巡らされた回路の亀裂に、無理な魔力を流すのではなく、生命力そのものの循環を促して自然治癒を待つ――裏庭の薬草は、そのための触媒だった。
完全な修復にはまだ時間がかかる。だが、一日に使える魔力の総量は、確実に以前より安定し始めていた。
「これだけの素材があれば、当面の手当てには困らない」
俺が麻袋を撫でると、トビーは満足そうに鼻を鳴らした。
「おうよ。看板を掲げ直すなら今だぜ、先生」
物資を整理し終えた昼下がり、表の防護柵の外で、小さく足音が止まった。
見張りに立っていた冒険者のリックが誰何する声が聞こえ、続いて引き締まった女性の声が返される。やがて扉が静かに開き、一人の女性が診察室へと足を踏み入れてきた。
銀縁眼鏡の奥に強い意志を宿した、大聖堂の修道女クレアだった。しかし、その服装はいつもと違い、聖印の刺繍が施された肩掛けを外している。
「クレア……また警告をしに来たのか?」
俺が問いかけると、彼女は首を横に振った。その表情には、かつて見られた迷いや躊躇の影は微塵もなかった。
「いいえ、アレン。私はもう、あの場所へ戻るつもりはありません」
「どういう意味だ」
クレアは胸元から一通の羊皮紙を取り出し、診察机の上に置いた。そこには、大聖堂の紋章と、司祭ビショップの私印が捺されていた。
「今夜未明、ビショップ司祭が私的に雇い入れた傭兵部隊を使い、この治療院を急襲する計画です。『不法な無許可医療行為を行う異端の拠点を摘発する』という名目で、建物を焼き払い、あなたを強引に連行する手はずになっています」
セリアが息を呑み、紙面を見つめる。そこには傭兵の配置図と、襲撃の正確な時刻が克明に記されていた。
「お前、これを持ち出すのがどれほど危険か分かっているのか。捕まれば背教者として投獄されるぞ」
「ええ。ですが、真実を知りながら沈黙することは、神への冒涜であり、何より治癒に携わる者としての誇りを捨てることだと気づきました」
クレアは眼鏡の位置を指先で直しながら、背筋をすっと伸ばした。
「大聖堂は、苦しむ人々を救うための場所ではなく、一部の特権階級が私腹を肥やすための道具に成り下がっています。一方で、あなたは限られた条件の中で、身分を問わず目の前の命を救い続けている……私が本当に信じるべき道がどちらにあるのか、答えは最初から出ていました」
硬く、しかし芯の通った声音だった。彼女がこれまで大聖堂の規律と自身の良心との間でどれほど苦悩し、葛藤してきたか、その横顔を見れば十分に伝わってきた。
「この襲撃計画書があれば、相手がどの路地を通って侵入してくるか筒抜けです。ダリウスさんたちの防衛隊と連携すれば、先手を打って無力化することができます」
「……助かるよ、クレア。あんたの覚悟、無駄にはしない」
俺がそう告げると、彼女はふっと憑き物が落ちたように、年相応の柔らかな笑みを浮かべた。
「礼には及びません。私も、この裏通りの居心地が少し気に入ってしまったようですから」
必要な薬草は揃った。相手の手の内も明らかになった。そして何より、俺の背中を押してくれる仲間たちがここにいる。
窓の外を見やれば、防護柵の向こうでダリウスが職人たちに指示を出し、リックが剣の柄を握り直して路地を睨んでいる。マリーが温かいスープの鍋を抱えて差し入れにやってくる姿も見えた。
胸の奥底で、魔力回路が微かに熱を帯びる。かつてのように軋むような激痛ではない。薬草の滋養と、仲間たちから受け取った信頼が、傷ついた回路の隙間を優しく満たしていくような、確かな手応えだった。
一日五人という枠を無理に広げる必要はない。かつての大聖堂で過労に倒れたときのように、際限のない要求に呑まれることもない。俺は俺のやり方で、手の届く範囲の命を確実に救っていけばいいのだ。
「セリア」
「はい、アレンさん」
「トビーから届いた薬草を調合室に運んでくれ。それから、外で待ってくれている連中に、温かい茶でも出してやってほしい」
「かしこまりました」
セリアが嬉しそうに頷き、エプロンの紐を結び直す。クレアもまた、手際よく机の上の書類を片付け始めた。
暗雲が完全に去ったわけではない。今夜にはビショップの放った刺客たちとの対峙が待っている。それでも、この部屋に漂う空気は、かつてないほど澄み切っていた。
俺は地味な麻の服の袖を軽くまくり、診療用の木製チェアの背もたれに手を置いた。
「さあ、今日の診察を始めようか」
俺の言葉に、治療院の静かな日常が、再び力強く動き出した。}




