第22話
夜が明けても、頭の上に垂れ込めた重苦しい雲は晴れてくれなかった。
薄暗い診察室の丸椅子に腰掛けたまま、俺は固くなったパンを齧る。喉を通る感触はひどくパサついていて、白湯で無理やり流し込んだ。通りは大聖堂の手先どもがいつまた現れるか分からず、張り詰めた静けさに包まれている。
俺がここに居続けるせいで、この界隈の連中にまで迷惑が及んでいる。いっそ看板を下ろしてどこか別の街へ移るべきなのか。そんな迷いが、泥のように足元へ絡みついて離れなかった。
その時、通りの向こうから複数の足音が響いてきた。荷車を引く木輪の軋みと、何本もの角材がぶつかり合う乾いた音だ。
「また嫌がらせか……?」
俺は立ち上がり、腰の短剣に手を伸ばしかけた。だが、表の扉を勢いよく押し開けて入ってきたのは、見知らぬ神官の傭兵などではなかった。
「先生、邪魔するぜ!」
太い腕に何本もの太い樫の木材を抱え、筋骨隆々の男がずかずかと踏み込んできた。エレナの父親であり、腕利きの木工職人であるダリウスだ。その後ろには、同じような作業着を着た職人仲間が十人近くも続いている。
「ダリウス……? あんたたち、朝早くから一体なんの真似だ」
「見りゃ分かるだろ。仕事だよ、仕事」
ダリウスは額の汗を腕で乱暴に拭うと、歯を見せて笑った。職人たちに手短に指示を飛ばすと、彼らは阿吽の呼吸で治療院の敷地境界へと散っていく。
「おい、待てって! ここはうちの敷地だぞ」
「先生の敷地だからやってるんだ。昨日、大聖堂のゴロツキどもが騒ぎ立ててただろ。あの手合いは放置しておくと調子に乗る。だからよ、物理的に近寄れねえようにしてやるのさ」
ダリウスの号令とともに、職人たちが手際よく作業を始めた。地面に杭が打ち込まれ、太い角材が交差するように組み上げられていく。あっという間に、治療院の正面入り口と裏庭を囲むように、分厚く頑丈な木製の防護柵が姿を現し始めた。
大聖堂が差し向けた連中が馬や力任せに押し入ろうとしても、簡単には突破できない見事な造りだ。金物を使わず、継ぎ手だけで強固に噛み合わされた木組みは、本職の意地そのものだった。
「ダリウス、気持ちはありがたいが、こんなことをしたら大聖堂に目をつけられる。あんたたちの仕事や暮らしにも差し障りが……」
俺が止めに入ろうとすると、ダリウスは金槌を握った大きな手を俺の肩に置いた。ずっしりとした重みが伝わってくる。
「先生、勘違いしちゃいけねえ。俺たちは大聖堂が怖くて引き下がってるわけじゃねえんだ。大聖堂の高額な治療費が払えなくて、娘のエレナが死にかけていた時、助けてくれたのは誰だ? 身分も金もない俺たちを見捨てず、命を削って救ってくれたのは先生だろ」
真っ直ぐな瞳が俺を射抜く。職人の節くれだった指が、ぎゅっと俺の肩を掴んだ。
「娘の命を救ってくれた恩人の居場所は、俺たちが守る。職人の意地にかけて、あの威張り腐った連中にここを一歩も跨がせねえよ」
「……あんたって人は」
呆れと、それを上回る何かが胸の奥に広がっていく。反論の言葉を探そうとしたが、通りの角からまた別の騒がしい声が割り込んできた。
「おーい! アレンの旦那! 俺たちも来たぜ!」
けたたましい足音とともに走ってきたのは、安物の革鎧を着たリックだった。そばかすだらけの顔を紅潮させ、手には使い込まれたショートソードと丸盾を握っている。彼の背後には、同じように武器を携えた若い冒険者たちが五、六人ほど続いていた。
「リック……お前、依頼はどうしたんだ」
「そんなもん後回しに決まってんだろ! 先生の治療院が大聖堂の犬どもに囲まれてるって聞いて、じっとしてられるかってんだ。おい、みんな! ダリウスの親方たちが柵を作り終えるまで、通りの両脇を固めるぞ!」
「おう!」
若い冒険者たちが気勢を上げ、周囲の路地に散って警戒態勢に入った。かつて魔物の毒で死にかけていたリックが、今では一人前の戦士のような顔つきで指示を出している。
「あんたが無茶なルールで自分を縛ってる理由、俺たちも少しは分かってるつもりだぜ。先生が一人で背負い込む必要なんてないんだ。俺たちが先生の手足になって、邪魔なハエどもを追い払ってやるよ」
生意気な笑みを浮かべるリックの頭を軽く小突いてやりたかったが、なぜか腕が上がらなかった。
さらに、通りの向こうから香ばしい匂いが漂ってきた。見れば、近所の長屋に住むマリーが、湯気を立てる大鍋を乗せた荷車を押して歩いてくる。近所の主婦たち数人も一緒だった。
「はいはい、みんな朝からご苦労様! 腹が減っては戦はできないよ! 温かいスープとパンを持ってきたから、交代で食べといで!」
「マリーさん、助かる!」
職人たちや冒険者たちが笑顔で鍋の周りに集まり始める。殺伐としていたはずの裏通りが、まるで祭りの準備でもしているかのような熱気に包まれていた。
俺は立ち尽くしたまま、その光景をただ見つめていた。
大聖堂にいた頃、俺の周りにいたのは利益と体面を気にする神官たちばかりだった。治癒魔法を施せば感謝はされたが、それは特級の『力』に対する賞賛であって、俺という人間を見ていたわけではない。力を使い果たせば捨てられる、そんな冷え切った関係しか知らなかった。
だが、目の前にいる連中は違う。
日々の暮らしに追われ、決して豊かとは言えないこの裏通りの住人たちが、権力に怯えることもなく、ただ俺のために立ち上がってくれている。俺が一日五人しか診られない欠陥を抱えていようと、大聖堂から睨まれていようと、そんなことは関係ないとでも言うように。
「アレン様、冷めないうちにお茶をどうぞ」
いつの間にか隣に立っていたセリアが、湯気の立つティーカップを差し出してきた。白磁の表面には、朝の柔らかな光が反射している。彼女の口元には、どこか誇らしげな微笑みが浮かんでいた。
「……みんな、無茶苦茶だよ。大聖堂相手に喧嘩を売るような真似をして」
カップを受け取り、微かに震える指先で温もりを確かめる。
「無茶ではありませんよ。ここにいる方々は皆、あなたに救われ、あなたという人を信じているのです。守られているのは、あなただけではありません。皆さんもまた、自分たちの希望を守ろうとしているのですよ」
セリアの静かな声が、胸の奥深くまで染み渡っていく。
俺がここに治療院を開いたのは、ただ自分の静かな日常を守りたかったからだ。誰の指図も受けず、目の届く範囲の者だけを確実に救うための隠れ家のはずだった。
だが、いつの間にかここは、俺一人の場所ではなくなっていたのだ。
「おい、先生! どうだ、この柵! ちったあ見栄えがいいだろ!」
ダリウスが防護柵の上から大声で手を振った。職人たちが木槌を打ち鳴らし、笑い声を響かせる。
「ああ、頑丈すぎて患者が入ってこれないんじゃないか」
俺が呆れたように声を返すと、通りにどっと笑いが起きた。リックが「扉はちゃんと開くようになってるぜ!」と親指を立てて見せる。
胸の奥に渦巻いていた重苦しい澱が、少しずつ溶けていくような気がした。魔力回路の鈍い軋みはまだ消えていない。大聖堂との対立が根本的に片付いたわけでもない。これから先、もっと厄介な圧力がかかる可能性だってある。
それでも、俯いて閉じこもる時間はもう終わりだ。
仲間たちの手によって手際よく築かれた木製のバリケードを見上げ、俺は小さく笑った。
守るべき日常と、背中を預けられる連中がここにいる。なら、俺がやるべきことは最初から決まっていた。




