第21話
夜が明けても、どんよりとした灰色の雲が垂れ込めていた。
治療院の前の通りは、いつもなら朝早くから露店を引く商人や、日雇いの仕事を求めて行き交う町人たちの足音で賑わう時間帯だ。けれど今朝は、気味の悪い静けさが漂っていた。
ガラリと木の扉を開けて表の空気を確かめようとした時、不快な笑い声と金属が擦れ合う音が耳に飛び込んできた。
「おいおい、こんな薄汚いあばら家で本当にまともな手当てなんて受けられるのかねえ!」
「大聖堂の認可も受けていないようなモグリの治療院だぞ。変な呪術でも掛けられたら命がいくつあっても足りんぜ!」
通りを塞ぐようにして、揃いの革鎧を身につけた柄の悪い男たちがたむろしていた。手には棍棒や短剣を提げ、これ見よがしに腰の鞘を鳴らしている。胸当ての隅には、大聖堂の息がかかった自警傭兵団の紋章が刻まれていた。
大聖堂の司祭ビショップの息がかかった連中だ。直接的な破壊活動を仕掛けてくれば衛兵に通報もできるが、彼らはぎりぎり法に触れない範囲で、ただ大声で罵声を浴びせ、治療院に入ろうとする者の行く手を阻むように睨みを利かせている。
「……露骨な真似をしてくれる」
俺は小さく呟き、眉間を押さえた。
大聖堂は俺が抜けた後、重篤な患者の処置が滞り、貴族たちからの突き上げで混乱していると聞く。ビショップは自らの面目を保つため、何としても俺を大聖堂へ引き戻そうと躍起になっているのだ。実力で強引に連れ戻す口実を作るために、まずはこうして嫌がらせを仕掛けて孤立させようとしているのだろう。
通りを歩こうとした近所の仕立て屋の親父が、男たちにギロリと睨みつけられ、青ざめた顔で足早に引き返していった。
物理的な暴力は振るわない。だが、裏通りで生きる市井の人々にとって、大聖堂の権威を笠に着た武装集団の威圧感は十分すぎる脅威だった。あんな連中が扉の前に居座っていては、具合の悪い者が安心して近づけるはずがない。
時間が過ぎても、いつもなら受付の前にできるはずの順番待ちの列は現れなかった。
「アレン、ちょっとこれどういうことだい!」
裏口の勝手口が勢いよく開き、エプロン姿のマリーが飛び込んできた。手には焼きたてのパンを包んだ布を持っているが、その顔は怒りで真っ赤に染まっている。
「表のあのチンピラども、うちの食堂のお客にまでガン飛ばして邪魔してるんだよ! 大聖堂の名前を騙るゴロツキどもが、いい気になりおって!」
「マリー、声が大きい。あいつらに聞こえる」
「聞こえて結構だよ! あたしが直接あいつらの頭をフライパンで叩き割って追い払ってやる!」
マリーは本気で腕まくりをし、表へ飛び出そうと足を踏み出した。
「待てって、マリー」
俺は慌てて彼女の腕を掴み、引き止めた。
「離しておくれ! あんな連中の好き勝手にさせといたら、あんたの治療院が潰されちまうよ!」
「落ち着けよ。相手は大聖堂に雇われた傭兵だ。手を出したら、そっちが先に暴力を振るったって言いがかりをつけられて、衛兵に突き出されるのが関の山だ」
「だけどさあ……!」
「あんたに怪我をされたら、俺は困るんだよ。頼むから無茶はしないでくれ」
強い口調でそう告げると、マリーは悔しそうに唇を噛み締めた。その瞳には涙が滲んでいる。
「……あんた、いつもそうだ。自分が一番大変なときに限って、周りの心配ばっかりして」
「大変なのはいつものことだ。ほら、そのパン、置いていってくれよ。朝飯がまだだったんだ」
何でもないことのように笑ってみせたが、マリーは納得のいかない表情のまま、包みを机に置いて肩を落とした。
「……何かあったら、すぐ大声を出すんだよ。裏通りの連中だって、黙って見てるわけじゃないんだからね」
マリーは乱暴に勝手口の扉を閉め、食堂へと足早に戻っていった。
一人残された診察室に、再び表からの騒ぎ声が響いてくる。
机の上の診療録を開いてみるが、白紙の頁が虚しく広がるだけだった。陽は高く昇り、昼を過ぎても、訪れる患者は一人もいない。
普段なら、午後にはその日の診療人数の上限に達し、受付を締め切っている時間だ。激痛に耐えながら訪れる冒険者や、咳き込む子供を抱いた母親の姿はどこにもない。
診察室の長椅子は冷たく冷え切り、薬品の匂いだけがやけに鼻についた。
表では男たちが飽きもせず、通りかかる人々に嫌がらせを続けている。時折、治療院の木の壁をわざとらしく蹴飛ばす乾いた音が響いた。
俺は椅子に深く腰掛け、両手で顔を覆った。
大聖堂を辞めた時、俺はもう二度とあのような権力争いや理不尽に巻き込まれることはないと思っていた。自分の手の届く範囲で、目の前で苦しんでいる者だけに力を尽くせばいいと信じていた。
だが、現実は違った。
俺がここにいるという事実そのものが、大聖堂の歪んだ執着を裏通りへと引き寄せてしまったのだ。マリーや食堂の客たち、そしてこの界隈で静かに暮らしていた人々の日々を、俺という存在が脅かしている。
『一日五人』という制限すら、患者が来なければ何の意味も持たない。治す腕があっても、届けるべき相手が近づくことすら阻まれている。
自分の手のひらをじっと見つめる。
握り締めた指先で、魔力回路が鈍く軋む。かつて奇跡と呼ばれた力も、扉の向こうに届かなければ何の役にも立たない。
大聖堂の持つ強大な権力と組織の暴力の前に、個人ができることの小ささを思い知らされる。
もし俺がここから立ち去れば、大聖堂の嫌がらせは収まるのだろうか。裏通りには再び、貧しくとも穏やかな日常が戻るのだろうか。
そんな考えが頭をよぎるたび、胸の奥に鉛を流し込まれたような重い痛みが広がった。
窓の外が茜色に染まり始め、やがて夜の帳が下りてくる。
結局、その日は誰一人として診察室の敷居を跨ぐことはなかった。
男たちは日が暮れると、嘲笑うような捨て台詞を吐き散らしながら通りの闇へと消えていった。だが、明日になればまた同じように現れるだろう。アレンを根負けさせ、大聖堂へ引きずり戻すまで、彼らの嫌がらせが終わることはない。
灯りを落とした薄暗い部屋で、木製の診察台を指先でなぞる。
静まり返った空間に、自分の呼吸の音だけが不気味なほど大きく響いていた。
患者の来ない診察室で、俺はただ一人、深く俯くことしかできなかった。




