第20話
部屋の隅に落ちた影が、まるで底なしの沼のように、俺たちの足元へとじわじわと迫ってきていた。
翌朝、俺は裏庭にしゃがみ込み、まだ小ぶりな鎮静用の薬草を数枚だけ摘み取った。
栽培している鎮静用の薬草は、あと数日分しか残っていない。大聖堂の圧力によって正規の取引ルートが完全に絶たれた今、この小さな薬草園だけが頼みの綱だった。だが、成長の遅い品種ばかりであり、消費のペースには到底追いつかない。
外の通りからは、いつもより足早に歩く人々の気配が伝わってくる。裏通りの住人たちも、見えない重圧を肌で感じ取っているのだろう。大聖堂の威光に逆らう者がどうなるか、彼らは骨の髄まで知っている。
立ち上がり、土を払ってから診察室へ戻る。
今日も待合室には、様々な事情を抱えた者たちが集まっていた。下町の職人から、顔を隠した凄腕の冒険者まで。身分も素性も問わず、先着順で受け入れるのが俺のやり方だ。
「あんた、また無茶をしたな」
診察台に座るリックの腕を見下ろし、俺は呆れたように言った。使い込まれた安物の革鎧は所々が裂け、深い切り傷からは赤黒い血が滲んでいる。
「仕方ねえだろ。依頼の途中で魔物の群れに囲まれたんだ。でも、あんたの魔法なら一瞬で治るだろ?」
生意気な口調の中にも、隠しきれない信頼の色が滲んでいる。
俺はリックの傷口に手をかざし、感覚を研ぎ澄ませた。ただ魔力で傷を塞ぐだけの対症療法ではない。対象の生命力を極限まで活性化させ、細胞の再生を促す特級の技術。淡い光が傷を包み込むと、裂けた皮膚がみるみるうちに癒着していく。
「すげえ……。やっぱり、あんたは世界一の治癒師だぜ」
リックは目を輝かせ、治ったばかりの腕を振り回した。
「暴れるな。まだ完全に馴染んでない」
俺は細く息を漏らし、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。たった一度の魔法行使でも、今の俺の体には重い負担がのしかかる。
一日の診察上限を五枠に定めている理由。それは、俺自身の魔力回路が修復不可能なほどに破損しているからだ。あの場所で、一人でも多くの命を救おうと限界を超えて魔法を使い続けた代償。高出力の治癒魔法を安全に放てるのは、一日に五回が限度だった。
その過去と自己犠牲の真相は、今やセリアやリックたち常連患者の間で静かに共有されている。
「お疲れ様です、アレン」
リックが帰った後、セリアが温かい紅茶を淹れて持ってきてくれた。彼女の眼差しには、以前にも増して深い敬意と気遣いが込められている。
「無理はしないでくださいね。あなたの体が一番大切なんですから」
「分かってる。俺のペースでやるさ」
受け取ったティーカップからは、心地よい香りが漂ってくる。この治療院は、いつの間にか俺にとってかけがえのない居場所になっていた。患者たちとの温かい絆が、傷ついた心を少しずつ癒やしてくれている。
だが、その温もりが今はひどく恐ろしかった。
俺がここに留まり続けることで、彼らを大聖堂の悪意に巻き込んでしまうのではないか。その不安が、胸の奥で黒い染みのように広がっていく。
◆ーーーー◆
その日の夜。診療を終え、静まり返った治療院の扉が控えめに叩かれた。
こんな時間に誰だ。警戒しながら鍵を開けると、そこに立っていたのは修道服に身を包んだクレアだった。銀縁眼鏡の奥の瞳が、暗がりの中で不安げに揺れている。
「夜分遅くに申し訳ありません」
彼女は周囲を気にするように素早く中へ入り、扉を閉めた。
「どうした。こんな裏通りまで、大聖堂の修道女が一人で来るなんて」
「警告に来ました」
クレアは真っ直ぐに俺を見据え、硬い声で告げた。
「先日の襲撃が失敗に終わったことで、ビショップ司祭はさらに強硬な手段に出る準備を進めています。薬草の供給を断ち、街の荒くれ者を差し向ける程度ではあなたを排除できないと悟ったようです。近いうちに、大聖堂の私兵や異端審問官を直接動かして、この治療院を異端の温床として完全に潰しにかかるはずです」
彼女の言葉に、俺は眉をひそめた。
「わざわざそれを教えに来てくれたのか」
「私は……」
クレアは俯き、ぎゅっと拳を握りしめた。
「私は、大聖堂のやり方が正しいとは思えません。権力闘争に終始し、誰を引きずり下ろすかばかりを考えている。でも、私には組織に逆らう力なんてない。だから、せめてあなたに逃げてほしかったんです」
彼女は顔を上げ、すがるような視線を向けてきた。
「裏通りから離れてください。このままでは、あなただけでなく、ここに出入りする患者たちまで危険に晒されます。あなたの魔法は素晴らしい。でも、たった一人で大聖堂に逆らうなんて無謀すぎます」
ルールと良心の狭間で葛藤する彼女の痛切な思いが、痛いほど伝わってくる。かつて俺が憧れ、そして絶望した組織の中で、彼女もまた苦しんでいるのだ。
だが、俺の答えは決まっていた。
「忠告はありがたい。でも、俺は逃げない」
「どうしてですか! あなたの体が万全ではないことくらい、私にも分かります。これ以上無理をすれば、今度こそ魔力回路が完全に焼き切れてしまうかもしれないのに」
「ここが俺の居場所だからだ」
静かな、けれど確かな声で俺は言った。
「目の前の命を救うことだけを考えていられる、俺にとっての唯一の場所だ。それを手放すつもりはない」
クレアは言葉を失い、呆然と俺を見つめた。彼女の目には、俺の選択がただの意地にしか映っていないのかもしれない。
「……分かりました。これ以上は何も言いません」
深く一礼すると、彼女は逃げるように治療院を後にした。俺は吹き込む冷たい夜風を遮るように扉を閉め、重い閂を下ろした。
扉に鍵をかけ、俺は薄暗い診察室の中央に立ち尽くした。
強がってはみたものの、クレアの言葉は鋭い棘のように胸に突き刺さっている。
大聖堂の暴力は、もうすぐそこまで迫っている。俺一人の力で、果たしてこの小さな居場所を守り抜けるのだろうか。
自分の手のひらを見つめる。かつてはどんな奇跡でも起こせると思っていた手は、今やひどく頼りなく、微かに震えていた。
セリアやリック、ダリウスたち。彼らの笑顔が脳裏をよぎるたび、胃の奥が冷たく縮み上がる。
俺の選択は、本当に正しいのか。彼らを巻き込み、傷つける結果になるのではないか。
答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐると回り続ける。
窓の隙間から吹き込む風が、蝋燭の炎を頼りなく揺らした。
迫り来る圧倒的な悪意を前に、俺はただ、暗闇の中で立ち尽くすことしかできなかった。




