第19話
重い瞼を押し上げると、見慣れた天井の木目がぼんやりと視界に滲んだ。
全身が泥のように重い。指先一つ動かすのにも、ひどい労力を要した。微かに開いた窓の隙間から、冷たい風が入り込んでくる。肌を撫でる冷気が、自分がまだ生きていることを辛うじて教えてくれた。
外から、くぐもった怒声のようなものが聞こえた気がした。金属がぶつかり合うような硬い音と、誰かの怒鳴り声。だが、それもすぐに遠ざかり、静寂が戻ってくる。
ゆっくりと身を起こそうとした瞬間、胸の奥で鋭い痛みが跳ねた。
「……っ」
思わず顔をしかめ、胸元を押さえる。魔力回路が軋むような悲鳴を上げている。まるで焼け焦げた鉄の棒を肺の奥にねじ込まれたような激痛だ。
大聖堂にいた頃、俺は一人でも多くの患者を救おうと、自身の限界を無視して治癒魔法を使い続けた。その結果がこれだ。魔力回路は無残に破損し、高位の魔法を使えるのは一日に五回までという制限を抱えることになった。限界を超えて魔法を使った代償は、予想以上に深く体を蝕んでいた。
扉が静かに開き、セリアが入ってくる。彼女はベッドの上で身をよじっている俺を見て、手にした水差しをテーブルに置き、足早に駆け寄ってきた。
「起きてしまわれたのですね。まだ安静にしていなければ駄目です」
凛とした声には、隠しきれない安堵と、わずかな咎めるような響きが混じっていた。普段の落ち着いた佇まいとは裏腹に、彼女の服の袖口には微かな土埃がついていた。
「悪い……どれくらい寝てた?」
「丸三日です。熱が下がらず、一時はどうなることかと……」
三日。思わず息を呑む。そんなに長い時間、意識を手放していたのか。喉の渇きを癒やすためにセリアから差し出されたコップを受け取り、ゆっくりと水を飲み下す。冷たい水が胃の腑に落ちていく感覚が、少しだけ頭をはっきりさせた。
「外が騒がしかった気がするが……何かあったのか?」
空になったコップをテーブルに戻しながら尋ねると、セリアは少しだけ目を伏せ、それから真っ直ぐに俺を見た。
「大聖堂からの嫌がらせです。柄の悪い男たちが、この治療院を荒らそうと押しかけてきました。手に棍棒や鉄パイプを持ち、力ずくで中に入ろうと……」
「なっ……あんた、怪我は」
「私とマリーは無事です。彼らは中に入る前に、追い払われましたから」
セリアの言葉に、俺は首を傾げた。俺が動けない状態で、誰がそんな荒事を引き受けてくれたというのか。
「誰が?」
「これまであなたが治してきた患者様たちです」
セリアの口元に、微かな誇らしげな笑みが浮かぶ。
「下町にお住まいの方々や、冒険者の方々。皆さんが自発的に集まり、入り口を塞いでくださったのです。大聖堂の差し金だと分かっても、誰一人として怯むことはありませんでした。彼らは一歩も引かず、男たちを路地の外まで追い返してくれたのです」
これまで、身分や事情を問わず、様々なワケありの患者を診てきた。対象の生命力を活性化させ、病魔ごと根治させる。ただそれだけを淡々と繰り返してきた。
俺の魔力回路が破損しており、高位の魔法を使える回数に制限があること。かつての職場で無理を重ねた過去があること。
その事実を知った彼らは、俺を軽蔑するどころか、こうして身を挺して居場所を守ってくれたのだ。
胸の奥に、温かいものが広がるのを感じた。
「……そうか。みんなに迷惑をかけちまったな」
「迷惑だなんて、誰も思っていません。皆、あなたに救われた命を、今度は自分たちが守るのだと仰っていました」
セリアは真剣な眼差しで俺を見つめる。
「ですが、もう無茶はしないでください。あなたが倒れてしまっては、元も子もありません。私たちは、あなたが健やかでいてくれることだけを望んでいるのですから」
「ああ、分かってる。俺のペースでやるさ」
苦笑しながらそう返したが、内心では焦りがあった。
魔力回路の回復が、以前よりもずっと遅い。少し魔力を練ろうとするだけで、焼き切れるような痛みが走る。この状態では、まともに治癒魔法を行使することすら難しい。二度と魔法が使えなくなるかもしれないという恐れが、冷たい蛇のように背筋を這い上がってくる。
そこへ、乱暴な足音が近づいてきた。
「おい、生きてるか不良神官」
扉を開けて入ってきたのは、険しい顔をしたトビーだった。背を丸め、片眼鏡の奥の目を鋭く光らせている。
「トビーさん……」
「まったく、三日も寝込みおって。わしが調合した薬を無駄にする気か」
ぶっきらぼうな口調で言いながら、老薬師はベッドの脇に椅子を引き寄せてどっかりと腰を下ろした。いつも漂わせている薬草の匂いが、今日はどこか焦げ臭く感じられた。
「無茶をしたのは反省してるよ。それで、今日はどうしたんだ? そんな怖い顔をして」
俺の問いに、トビーは片眼鏡の奥の目を細め、重々しい溜息をついた。
「……悪い知らせだ。大聖堂の連中が、本格的に動き出しよった」
トビーの言葉に、部屋の空気が張り詰める。
「正規のルートで仕入れていた薬草の取引が、完全に止められた。問屋の連中も、大聖堂からの圧力に逆らえんらしい。少しでもあんたの治療院に物資を流した業者は、即座に取引を打ち切られるという通達が出回っとる」
「取引が停止……?」
セリアが驚きの声を上げる。
「わしの店も例外じゃない。表立ってあんたに良質な素材を回すのは、もう限界だ。店の周りにも、不審な影がうろつくようになりおった」
トビーは忌々しそうに舌打ちをした。
「連中、あんたの魔力回路の欠陥を完全に把握しとる。あんたが鎮静用の薬草なしじゃ、まともに魔法を使えんこともな。そこを突いて、兵糧攻めにする気だろう」
大聖堂のやり口はいかにもビショップらしい。力でねじ伏せるのではなく、俺の生命線をじわじわと断ち切る。患者を直接傷つけるのではなく、治療院そのものを機能不全に陥らせる算段だ。
「裏庭の薬草園にあるストックは、どれくらい持つ?」
俺はセリアに視線を向けた。
「今のペースで消費すれば、もって半月……いえ、あなたがその状態では、もっと早く底を突くかもしれません」
セリアの表情が暗く沈む。
俺は天井を仰いだ。魔力回路の痛みを抑え、魔法の暴走を防ぐためには、特定の薬草が不可欠だ。それが手に入らなくなれば、治療院の機能は完全に停止する。それどころか、俺自身の体を維持することすら危うくなる。
「トビーさん、裏ルートや別の街から取り寄せることはできないか?」
「簡単にはいかん。大聖堂の息がかかった監視の目が、あちこちに光っとる。見つかれば、協力してくれた連中まで巻き込むことになるぞ。それに、あんたが必要としているのは特殊な薬草だ。その辺の野山で摘んでこれるような代物じゃない」
トビーの言葉が、重くのしかかる。
患者たちが体を張って守ってくれたこの場所。だが、物理的な暴力は退けられても、権力という見えない暴力は、確実に俺たちの首を絞めにかかっていた。
ベッドのシーツを握りしめる手に、力が入らない。自分の無力さが、これほど歯がゆいことはなかった。
「……すまない、トビーさん。わざわざ知らせてくれて」
「謝るな。わしも、このまま黙って引き下がるつもりはない。だが、今は耐えるしかないぞ」
トビーは立ち上がり、心配そうな視線を一度だけ向けてから、部屋を出て行った。残された薬草の匂いだけが、重苦しい空気の中に漂い続けている。
静まり返った部屋の中で、俺は自分の手のひらを見つめた。
かつては、どんな難病でも治せると思っていた。だが今は、自分の体すら満足に治せない。
限られた物資。回復しない魔力回路。
大聖堂の悪意は、俺が築き上げたささやかな日常を、音もなく崩し始めている。
「アレン……」
セリアが不安げに俺の名を呼ぶ。
「大丈夫だ。何とかする」
そう答える声は、自分でも驚くほど虚ろに響いた。
どうやって?
その問いに対する答えは、今の俺には見つからなかった。
部屋の隅に落ちた影が、まるで底なしの沼のように、俺たちの足元へとじわじわと迫ってきていた。




