第18話
同じ朝の光は、大聖堂の豪奢なステンドグラスをも通り抜けていた。色とりどりの光が磨き上げられた大理石の床に落ち、権威と富の象徴である空間を照らし出している。だが、この執務室に満ちているのは神聖な温もりではなく、底冷えするような冷酷な意思だった。
「裏通りの治療院は、ただの気休め程度……だと?」
豪奢な法衣に身を包んだビショップが、ねっとりとした声で私の提出した報告書を読み上げる。恰幅の良い体を椅子に深く沈め、彼は私を見下すような冷たい目を向けていた。
私は修道服の袖をきつく握りしめ、銀縁眼鏡の奥で視線を伏せながら静かに頷いた。
「はい。貧しい者たちが集まるだけの、取るに足らない場所です。大聖堂の脅威となるようなものではありません」
嘘だった。アレンの特級技術は健在であり、彼が救った命の数は計り知れない。私は彼を、あの裏通りの温かい場所を守りたかった。ルールに厳格に従うべき修道女としての立場と、真の治癒を目の当たりにした良心の間で、私の心は激しく軋んでいた。
だが、ビショップは鼻で笑い、机の上に数枚の羊皮紙を無造作に放り投げた。
「お前は私を愚弄しているのか、クレア」
びくりと肩が震える。羊皮紙には、大聖堂で見放され、後に裏通りで完治した患者たちの記録が克明に記されていた。
「貴様が隠し立てしようと無駄なことだ。私はすでに、奴が治癒した患者たちの患部を調べさせている」
ビショップはゆっくりと立ち上がり、威圧するように歩み寄ってきた。
「あの男の魔法は、対象の生命力を極限まで活性化させ、病魔ごと根絶やしにする規格外の代物だ。だが、その痕跡には妙な乱れがある。……奴の魔力回路は、すでに修復不可能なほどに壊れているのだよ」
心臓が冷たい音を立てた。
ビショップは、アレンが一日五人しか診られない理由を完全に把握していたのだ。
「かつてこの大聖堂で、一人でも多くを救おうと愚直に魔力を絞り出し続けた結果がこれだ。高位の魔法を使えるのは、せいぜい一日に五回。それ以上使えば、奴自身の命に関わる」
嘲笑を含んだ声が、執務室に響き渡る。
「身分の低い者は上の者に従うべきだ。大聖堂の権威は何よりも優先される。それを理解せず、権威に背を向けた天才の末路としては、あまりにも滑稽ではないか」
私は唇を噛みしめた。アレンは誰よりも真摯に患者と向き合っていた。その結果負った傷を、この男は利用価値の有無でしか測っていない。
「……司祭様は、どうされるおつもりですか」
「決まっているだろう。あの無能な男を、再び私の手駒として連れ戻す」
ビショップは冷酷な笑みを浮かべた。
「まずは、あの薄汚い治療院に出入りする薬草業者に圧力をかけろ。それから、裏通りに相応しいならず者たちを集め、定期的な『挨拶』に向かわせるのだ。奴が自ら膝を屈するまで、徹底的にな」
◆ーーーー◆
ビショップの命令を受け、私は偵察という名目で裏通りへと足を運んだ。
表通りの華やかな喧騒から離れ、湿った土の匂いと日々の生活の匂いが混ざり合う路地裏。その一角にある小さな木張りの建物の前には、朝早くから異様な光景が広がっていた。
下町の職人風の男、顔色の悪い老婆、さらには歴戦の傷を負った重武装の冒険者たち。
身分も事情もバラバラなワケありの患者たちが、治療院の前に長い列を作っていたのだ。彼らは皆、どんな難病もたちどころに治してしまうという天才治癒師の噂を聞きつけ、藁にもすがる思いでやってきた者たちだった。
「俺の仲間は、毒で死にかけていた。大聖堂じゃ金が足りなくて追い出されたのに、先生は嫌な顔一つせず、あっという間に治してくれたんだ」
「私の娘も、先生の魔法でようやく歩けるようになったんですよ」
列の中で、患者たちが口々にアレンの神業について語り合っている。対象の自然治癒力を極限まで高め、淡々と彼らを治療していくアレンの姿が、彼らの言葉からありありと浮かび上がってきた。
だが、入り口の扉の前には、使い込まれた清潔なエプロンを身につけた食堂の女将マリーと、受付嬢のセリアが立ち塞がっていた。
「本当に申し訳ありません。アレン様は……今、ひどい熱を出して倒れておいでなのです」
セリアが深く頭を下げる。その声には、救えるはずの命を救えない苦渋が滲んでいた。
マリーも腕を組み、辛そうな表情で患者たちを見渡す。
「あたしたちも心苦しいんだ。あんたたちがどれだけ切羽詰まってるかも分かってる。だけど、あいつの体が一番大事だからね。あんたたちも、今日は帰ってくれないか」
列の先頭にいた大柄な冒険者が、舌打ちをする代わりに深く息を吐き出した。
「そうか……。噂は本当だったんだな」
「噂?」セリアが顔を上げる。
「先生が、一日に五人しか診られない理由だよ。大聖堂の連中が『あの男は魔力回路が壊れている』と触れ回って、ここの出入り業者に圧力をかけているらしい。昔、大聖堂で無理をして体を壊したって話は本当だったんだな」
その言葉に、列に並んでいた他の患者たちもざわめき始めた。
難病の患者が続く中、なぜ「一日五人」しか診ないのか。その謎の真相が、今ここで完全に共有されようとしていた。
「じゃあ、先生は俺たちみたいな見捨てられた人間を救うために、自分の命を削って……」
「なんてこった。俺たちはそんなことも知らずに、無理を言おうとしていたのか」
誰一人として、不満を口にして暴れる者はいなかった。
高位魔法を使えるのが一日五回までという制限と、アレンの自己犠牲の過去を知った彼らは、むしろ深い敬意を込めて治療院の扉を見つめていた。
「受付の嬢ちゃん、先生に伝えてくれ。俺たちはいつまでも待つってな」
冒険者が優しく微笑み、踵を返す。他の患者たちも次々とそれに倣い、静かに路地を去っていった。
残されたセリアとマリーは、顔を見合わせて小さく頷き合った。
「……愛されてるね、あいつは」
「はい。アレン様が命を懸けて救ってきた方々ですから」
二人の間に流れる温かい空気。それは、大聖堂の冷たい石壁の中には決して存在しない、確かな絆だった。治療院は間違いなく、彼らにとってかけがえのない居場所となっていた。
私は物陰からその光景を見つめながら、胸の奥が締め付けられるのを感じた。
アレンは権力闘争から逃げ出したのではない。ただ、目の前の患者を確実に救える場所を、自分の手で築き上げただけなのだ。
そして今、その場所は彼を慕う人々によって守られようとしている。
だが、現実は残酷だった。
ふと視線を路地の入り口に向けると、柄の悪い男たちの影がいくつか見え隠れしていた。手には鈍く光る鉄パイプや棍棒が握られている。
ビショップが放った、嫌がらせの部隊だ。
男たちの一人が下卑た笑いを浮かべ、丸腰のセリアとマリーへ向かってじりじりと距離を詰め始めた。
彼らが築き上げた温かい居場所が、大聖堂の理不尽な悪意によって踏みにじられようとしている。
私は壁に手をつき、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
大聖堂の修道女という立場が呪いのように私の足を縫い留め、助けを呼ぶ声すら喉の奥で凍りついてしまう。彼らのささやかな幸福が暴力によって蹂躙される瞬間を、私はただの傍観者として見届けるしかないのだ。
大聖堂の圧力は、果たしてどのような形でこの小さな治療院を襲うのか。
静かな不安だけが、裏通りの冷たい風と共に私の足元に忍び寄っていた。




