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第17話

薄れゆく意識の底で、俺は誰かが叫ぶ声を聞いた。


「先生……!」


ダリウスの悲痛な叫びが、遠くで響いている。

彼とエレナは、自分たちのせいで恩人が倒れたという事実に直面し、青ざめた顔で立ち尽くしているのだろう。


「親方、手を貸して! アレンを奥のベッドへ!」


セリアの鋭い指示が飛ぶ。直後、筋骨隆々の腕が俺の身体を持ち上げ、診察室の奥へと運んでいくのを感じた。

天井の木目が、ぐらぐらと揺れながら流れていく。

背中が柔らかいマットレスに沈み込む感覚を最後に、俺の意識は深い闇へと落ちていった。


暗闇の中で、俺は夢を見ていた。

裏通りの古びた建物に、小さな看板を掲げてからの日々。

湿った土の匂いと、煮炊きする煙が混ざり合うこの場所には、本当に色々な連中がやってきた。

路地裏で足を滑らせて骨折した下町のパン屋。依頼の帰りに未知の毒を受け、死にかけていたSランク冒険者。そして、重武装の騎士を引き連れてやってきた、呪いに蝕まれるお忍びの貴族。

身分も事情もバラバラなワケありの患者たち。大聖堂の基準なら、門前払いされるか、莫大な献金を要求されるような者ばかりだ。

俺はひたすら、彼らの身体に触れ、対象の生命力を極限まで引き出すことで、淡々と病魔や怪我を消し去ってきた。

誰の指図も受けず、目の前の患者だけを確実に救う。終わりのない権力闘争から離れ、自分の手の届く範囲だけを守る。それが俺の望んだ平穏だった。


だが、夢の景色は不意に歪み、冷たい石造りの広間へと姿を変える。

大聖堂の最深部。磨き上げられた大理石の床に、血と膿の匂いが染み付いている。

目の前には、際限なく押し寄せる重傷者たちの列が続いていた。

上層部の神官たちは派閥争いに現を抜かし、面倒な患者や貧しい者たちをすべて俺に押し付けていた。


『もっと、もっと救わなければ』


焦燥感に駆られ、休むことなく治癒魔法を展開し続ける。

限界など、とうに超えていた。指先は痙攣し、視界は赤く染まっている。それでも、目の前で苦しむ者を見捨てることなんてできなかった。


そして――。


バチン、と。

胸の奥で、何かが決定的に弾ける音がした。

魔力回路が焼け焦げ、全身の血が沸騰するような激痛が走る。二度と元には戻らないと、本能で理解した瞬間だった。


「あ……ぁ……」


現実の痛みと記憶が交錯し、俺はたまらずうめき声を上げた。


◆ーーーー◆


「アレン……!」


苦しげなうめき声を聞き、セリアは弾かれたように身を乗り出した。

ベッドに横たわるアレンは、シーツを固く握りしめ、ひどい高熱にうなされている。額には脂汗が浮かび、普段の飄々とした面影はどこにもなかった。

セリアは冷水に浸したタオルを固く絞り、彼の額にそっと乗せる。熱を帯びた肌に触れるたび、彼女の胸はギリギリと締め付けられた。

傍らでは、ダリウスが両手で頭を抱え、丸椅子に座り込んでいる。健康な顔色を取り戻したエレナは、父親の膝にしがみつきながら、不安そうにアレンを見つめていた。


「俺のせいだ……」


ダリウスが、絞り出すような声で呟いた。


「俺たちが、先生に無理をさせたから……。娘の命と引き換えに、先生がこんな目に遭うなんて……」


「ご自分を責めないでください」


セリアは振り返り、静かに首を振った。


「アレンは、自分で決めたのです。目の前で苦しむエレナを、絶対に見捨てないと。彼はそういう人です」


そう言い聞かせながらも、セリア自身の手は微かに震えていた。

あの規格外の治癒魔法が、どれほどの負担を強いるものなのか。彼女は受付嬢として、アレンの傍でずっと見てきたはずだった。彼の顔色が少しずつ悪くなっていくことにも、気づいていたはずなのに。

その時、アレンの唇が微かに動いた。


「……限界、なんだ……」


かすれた声が、静まり返った部屋に響く。

セリアは息を呑み、彼に顔を近づけた。


「一日……五人が……これ以上は、回路が……」


途切れ途切れのうわ言。それは、彼が心の奥底に隠し続けてきた過去の傷跡だった。

大聖堂での過酷な日々。一人でも多く救おうとして無理を重ね、自身の魔力回路を焼き切ってしまった瞬間の記憶。

セリアの脳裏に、これまでの光景がフラッシュバックする。

なぜ彼が、どれほど頼まれても頑なに人数制限を守り続けていたのか。

それは決して、怠慢でも気まぐれでもなかった。

彼自身の命を繋ぎ止め、それでもなお、裏通りで苦しむ患者たちを救い続けるための、ギリギリの防衛線だったのだ。


「アレン……あなたという人は……」


セリアの目から、堪えきれずに涙がこぼれ落ちた。

自分の身を削ってまで、他者の痛みを引き受けようとする不器用な優しさ。

ダリウスもまた、うわ言を聞いてすべてを悟ったのか、床に崩れ落ちるようにして深く頭を下げた。


「先生は……ご自分の命を削って、俺たちを救ってくれたんだな」


大工職人の分厚い肩が、震えていた。


「絶対に、忘れねえ。この御恩は、俺の命に代えても報いてみせる。先生の居場所は、俺たちが必ず守り抜く……!」


その言葉には、確かな熱がこもっていた。

アレンがひたすら施してきた救済は、確実に人々の心に根を下ろしている。

セリアやダリウス、そしてこれまで治療院を訪れた常連患者たち。彼らの間に、アレンへの深い敬意と、温かい絆が結ばれていくのを感じた。


夜が更け、ダリウス親子を無理やり家に帰らせた後も、セリアは一人で看病を続けた。

何度タオルを替えても、アレンの熱は一向に下がる気配を見せない。

魔力回路の破損という、治癒師にとって致命的な傷。それが限界を超えて酷使された今、彼の身体の中で何が起きているのか、セリアには知る由もなかった。

ただ、彼の手を両手で包み込み、祈るように握りしめることしかできない。


「お願いです、目を覚ましてください……」


窓の外の空が、少しずつ白み始めていた。

夜明けの冷たい空気が、隙間風となって部屋に入り込む。

主を失ったように静まり返る治療院に、静かな朝が訪れようとしていた。

大聖堂の司祭たちは、アレンの不在を嗅ぎつければ、確実にこの隙を突いてくるだろう。

もし、彼がこのまま二度と目を覚まさなかったら。

胃の奥が冷たく重い鉛に変わっていくような、底知れぬ無力感がセリアを襲う。

それでも、彼女はアレンの冷え切った手を強く握り直した。

彼が守ろうとしたこの場所を、今度は自分が守る。

その小さな決意だけを胸に抱きながら、セリアはただ、静かな不安の中で朝の光を見つめていた。


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