第15話
翌日。
治療院の古い扉を開けると、すでに数人の患者が列を作っていた。
顔に深い裂傷を負った冒険者、長年の関節痛に苦しむ下町の老婆、そしてどこか訳ありげな身なりの良い商人。表通りでは決して交わることのない者たちが、この薄暗い裏通りで静かに順番を待っている。
俺は白衣代わりの上着を羽織り、一人ずつ診察室へ通した。
「傷口が呪いを受けて化膿しているな。少し熱くなるぞ」
冒険者の患部に手を当て、意識を沈める。対象の生命力を感知し、そこに直接干渉する。呪いを力技で打ち消すのではなく、彼自身の自然治癒力を極限まで引き上げ、病魔ごと根治させる。
淡い光が収まると、どす黒く変色していた傷口は綺麗に塞がっていた。
「嘘だろ……大聖堂じゃ腕を切り落とすしかないって言われたのに」
「大げさな連中だ。三日は酒を控えること。次」
驚愕に目を見張る冒険者を軽くあしらい、次の患者を呼ぶ。セリアが手際よく案内を引き継ぎ、待合室の患者たちに温かいお茶を振る舞っていた。彼女の淹れる紅茶は、この裏通りには似つかわしくないほど香りが良く、患者たちの強張った顔を和ませていく。
午後になり、その日の五人目の治療を終えた。
表の看板を『本日の診察は終了しました』と裏返した直後、蝶番が微かに軋む音を立てて扉が開いた。
「邪魔するぞ、お前さん」
独特の苦い薬草の匂いとともに、老薬師のトビーが顔を出した。背中には大きな籠を背負い、片眼鏡の奥の目を細めている。
「いらっしゃいませ、トビーさん」
セリアが微笑んで出迎えると、トビーはぶっきらぼうに頷いた。
「おう。今日もきっちり五人、治しちまったようだな。まったく、こんな裏通りで特級の治癒魔法を安売りする馬鹿は、世界中探してもお前さんくらいだ」
「ヤブ医者呼ばわりされないだけマシか。で、頼んでた物は手に入ったか?」
俺が尋ねると、トビーは籠を下ろし、布に包まれた束を机の上に無造作に置いた。
「ほれ。エレナ嬢ちゃんの治療の総仕上げに使う薬草だ。それと、こっちはお前さんの魔力回路を休ませるための鎮静薬草。どっちも希少な特級品だぞ。探すのに骨が折れたんだからな」
「助かる。あんたの目利きは確かだからな」
布を開き、葉脈の走り方と香りを確かめる。申し分のない品質だ。これなら、エレナの病魔を完全に断ち切るための助けになるし、俺の魔力回路への負担もかなり軽減できる。
「……お前さん、また無理をしてるんじゃないだろうな」
トビーが低い声で釘を刺してきた。
「一日五人。その制限は絶対に守ってるさ」
「ならいい。大聖堂で一人でも多くなんて綺麗事を並べて、自分の魔力回路を焼き切った大馬鹿野郎だからな、お前さんは。これ以上壊れたら、二度と魔法が使えなくなるぞ」
その言葉に、奥の部屋で休んでいたダリウスとエレナ、そして片付けをしていたセリアの動きがピタリと止まった。
俺の魔力回路の欠陥。それは、大聖堂時代に無茶を重ねた代償だ。高位の治癒魔法を使えるのが一日五回までという制限の理由は、すでに彼らには明かしている。だが、改めて他人の口から語られると、少しばかり居心地が悪かった。
「先生は、私たちのために……」
エレナが申し訳なさそうに俯き、小さな手を握りしめる。
「気にするな。俺が勝手にやってることだ。治らない患者がいると、俺のプライドが許さないって言っただろ」
俺は飄々とした態度で笑い飛ばそうとしたが、セリアが凛とした声で遮った。
「いいえ。先生がご自身を削ってまで、私たちを救ってくださったこと。その事実は変わりません」
セリアは真っ直ぐに俺を見つめていた。その瞳には、一切の揺らぎがない。
「だからこそ、私たちはこの場所を大切にしたいのです。先生が無理をしなくてもいいように、私たちが支えます」
ダリウスも深く頷き、一歩前に出た。
「アレン先生。俺たちにできることがあれば、何でも言ってくれ。あんたの平穏は、俺たちが守る。この命に代えてもな」
彼らの真剣な眼差しに、俺は小さく息を吐いた。
「……大げさだな。俺はただ、目の前の患者を治したいだけだ」
頭を掻きながらそっぽを向いたが、胸の奥には確かな温かさが広がっていた。大聖堂の冷たい石壁の中では決して得られなかった、確かな居場所がここにある。
トビーがふうと息を吐き、周囲を見回してから声を潜めた。
「その平穏だがな。少し厄介なことになってるかもしれん」
「どういうことだ?」
「表通りの連中が、この辺りを嗅ぎ回ってる。大聖堂の息がかかった奴らだ。どうやら、お前さんの治療院の噂が、上層部の耳に入ったらしいぞ」
トビーの言葉に、場に緊張が走った。
「ビショップか」
俺の脳裏に、豪奢な法衣を纏った傲慢な司祭の顔が浮かんだ。
「ああ。権力を盾にして、目障りなお前さんを力ずくで連れ戻そうって魂胆だろうよ。気をつけな」
「……忠告、感謝するよ」
俺は机の上の鎮静薬草を静かに握りしめた。エレナの治療は、まだ総仕上げが残っている。あんな連中に、邪魔をさせるわけにはいかない。
◆ーーーー◆
大聖堂の奥深く。豪奢な執務室の分厚い絨毯を踏みしめながら、クレアは背筋を伝う冷や汗を必死に抑え込んでいた。
「遅い。報告はどうなっている、クレア」
マホガニーの机越しに、ビショップがねっとりとした声を投げかけてくる。
「申し訳ありません、司祭様。調査に手間取っておりまして」
「言い訳は聞きたくない。あの裏通りのネズミ……アレンの尻尾は掴めたのか。大聖堂の権威を脅かすような真似をしているのであれば、即刻異端として連行し、私の手駒として再教育してやらねばならん」
ビショップの冷酷な瞳が、クレアを射抜く。
クレアの脳裏に浮かんだのは、裏通りの小さな治療院の光景だった。
身分を問わず、真摯に患者と向き合うアレンの姿。彼を慕うセリアや、笑顔を取り戻した患者たち。あそこには、大聖堂が失ってしまった真の救済があった。
(あの場所を、この人に壊させるわけにはいかない)
クレアは静かに息を吸い込み、銀縁眼鏡の位置を直した。
「……ご報告いたします。アレンの治療院ですが、特筆すべき点は見当たりませんでした」
「何?」
「ただの貧相な施設です。患者も下賤な者ばかりで、大聖堂の脅威となるような高度な治癒が行われている形跡はありません。噂は、無知な平民たちが誇張して広めたものに過ぎないかと」
嘘だった。アレンの特級治癒は、大聖堂のそれを遥かに凌駕している。だが、今は時間を稼ぐしかなかった。
「チッ……くだらん。私の手を煩わせるほどの価値もないか」
ビショップは忌々しげに舌打ちをし、背もたれに深く寄りかかった。
「引き続き監視は続けろ。少しでも妙な動きがあれば、実力行使に出る」
「はっ。承知いたしました」
一礼して執務室を退出したクレアは、重い扉が閉まった瞬間、小さく息を吐き出した。
心臓が早鐘のように打っている。小さな裏切り。これが露見すれば、自分もただでは済まないだろう。
(どうか、間に合って……)
祈るような思いで、クレアは窓の向こうの、裏通りの空へと視線を向けた。大聖堂の魔の手が届く前に、あの少女の治療が無事に終わることを願って。




