第二話 武田を捨てた男 織田信長との取引
天正十年。信濃国木曽谷。雪解け前の山々は、まだ白い衣をまとっていた。
木曽福島城の一室で、俺は地図を睨んでいた。
目の前に広げられているのは、信濃、美濃、尾張、甲斐。
戦国の勢力図。しかし、俺が見ているのは現在ではない。未来だった。
「あと数年……いや、数ヶ月単位で考えねばならぬか」
家臣たちは黙っている。
最近の殿は変わった。
以前より慎重になった。
以前より領民を見るようになった。
以前より、先の先まで考えるようになった。
だが、その理由を知る者はいない。
58歳まで会社員として生きた男の知識。21世紀の歴史教育。テレビや書籍で得た戦国知識。
それらすべてが、今の俺の武器だった。
「武田家は、もう長くない」
心の中で何度も繰り返す。しかし
「だから裏切る」
それだけでは駄目だった。戦国武将の寝返りには理由が必要だ。ただ生きたいからでは弱い。
相手にとって価値ある存在にならなければならない。
「木曽谷は信濃の入口」
俺は地図を指で叩いた。
「ここを押さえる者は、美濃と信濃を繋ぐ」
信長なら理解する。そう確信していた。
織田家への接近。それは慎重を極めた。いきなり「武田を裏切ります」では、ただの危険人物だ。
信長は合理的だが、疑り深い。利用価値がある人間なら重用する。
しかし、信用できない人間は容赦なく切る。
俺はまず商人を通じて情報を流した。
木曽谷では、
・街道整備を進めていること
・兵糧備蓄を増やしていること
・領民の逃亡を防ぐ政策をしていること
・織田領との交易を増やしていること
それらを少しずつ伝えた。
「木曽義昌という男は、時代を見る目がある」
そう思わせるためだった。
そして、ついに織田家から正式な使者が来た。
「木曽殿」
使者は織田家臣の織田掃部。武田家との外交で活躍してきた武将。
ただの使者ではない。相手の価値を測りに来ている。
「信長様は、木曽谷の動きを気にしておられる」
俺は頭を下げる。
「ありがたきこと」
「しかし」使者は続けた。
「木曽殿は武田家臣」
その言葉には鋭さがあった。
「なぜ織田と関わろうとする?」
俺は一瞬沈黙した。ここが勝負だった。下手な言葉なら終わる。忠義を語っても意味はない。
信長が求めるのは現実だ。
「私は武田を憎んでいるわけではない」
俺は言った。
「だが、武将には守るべきものがある」
「それは?」
「家臣、領民、そして木曽家そのもの」
使者は黙る。
俺は続けた。
「滅びる主家に最後まで付き従うことだけが忠義ではない」
「生き残り、家を未来へ繋ぐこともまた武士の務め」
これは前世の自分への言葉でもあった。何も残せなかった人生。今度こそ、残す。
その報告は、すぐに信長へ届いた。
安土城。
織田信長は報告書を読んでいた。
「木曽義昌か」
信長は笑った。
「面白い男だ」
家臣が尋ねる。
「信用できますでしょうか」
信長は紙を置いた。
「信用?」
少し考える。
「戦国の世で、そんなものだけで人を使う者は死ぬ」
信長らしい言葉だった。
「重要なのは役に立つかどうかだ」
信長は木曽谷の地図を見る。
「武田の腹に刃を入れる場所だ」
そして。
「使える」
短く言った。
しかし、俺には別の問題があった。
織田家に近づけば、武田家から疑われる。
そして史実では木曽義昌の裏切りは、武田勝頼を激怒させた。
討伐軍が送られる。
だが、ここで俺は前世知識を使った。
正面衝突は避ける。
時間を稼ぐ。
戦うなら勝てる場所で戦う。
木曽谷は山岳地帯。
大軍が攻めるには不向き。
さらに、俺は兵士を鍛え直していた。
槍の長さ、陣形、補給。
現代の軍事知識をそのまま使うことはできない。
だが「準備された軍は強い」
それだけは時代が変わっても同じだった。
ある夜、家臣の一人が尋ねた。
「殿」
「何だ」
「本当に武田家を離れるおつもりですか」
俺は窓の外を見る。
木曽の山々。先祖から受け継いだ土地。
「私は裏切るのではない」
「では?」
「木曽家を守るのだ」
家臣は黙った。
天正十年二月。ついに決断の日が来た。
武田勝頼から命令が届く。
織田への警戒。
軍役。
出兵。
しかし、義昌は従わなかった。代わりに織田信長へ正式に使者を送る。
「木曽義昌、織田家に帰属する」
歴史が動いた。
武田家では騒ぎになった。
「あの木曽が!裏切った!」
しかし、俺は冷静だった。ここから先、武田家の滅亡は早い。
ならば次の主人を選ぶ必要がある。
俺は知っていた。信長との関係が長く続かないことを。
武田家の滅亡からわずか数ヶ月後。天下を揺るがす事件が起きる。
本能寺の変。
その混乱の中で多くの武将が未来を失う。だが、俺は未来を知っていた。
そして、次に接近すべき男の名も知っている。
三河の大名。後に天下を取る男。
徳川家康。
「次は家康だ」
俺は夜空を見る。
「信長の時代の次を生き残るには……徳川につながらねばならない」
そのためにはまず、織田信長の天下統一戦を生き抜かなければならない。




