表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/8

第一話 死んだ男、木曽谷に立つ

最後に見たものは、天井だった。

白い蛍光灯。六畳一間の古いアパート。テレビの音。

そして、誰にも届かなかった自分のため息。

「……俺、こんな終わり方か」

男は床に倒れながら、ぼんやりと思った。


名前は、鈴木太郎。

58歳。独身。会社員。定年まであと数年。

大きな失敗もなかった。

大きな成功もなかった。

毎日、満員電車に揺られ、会社では中間管理職として頭を下げ、家に帰ればコンビニ弁当を食べ、酒を少し飲んで眠る。

そんな人生だった。


家族はいない。妻も子もいない。親はすでに亡くなった。友人とも、いつの間にか疎遠になった。

会社では「鈴木さん」と呼ばれた。しかし、一歩会社を出れば、自分を待つ人間はいなかった。

孤独。それが当たり前になっていた。だから、死ぬ瞬間も不思議ではなかった。


胸の奥が苦しくなった時も、「疲れているだけだ」そう思った。

スマートフォンには、未読の通知が数件。

会社の連絡。通販の広告。

それだけだった。


最後に思った。

せめてもう一度人生をやり直せるなら。今度は何かを残したい。

金でも名誉でもない。自分が生きた証。

誰かが覚えていてくれる何か。

その願いを抱いたまま、意識は闇に沈んだ。

-------------------------------------------------------------------------------------------

目を開けた瞬間、最初に感じたのは寒さだった。

「……寒い?」

畳ではない。布団でもない。背中に感じるのは固い土。

空気は冷たく、鼻に入る匂いが違った。


土。木。煙。そして馬。

「……何だ?」

起き上がろうとして、違和感に気づく。

手が違う。自分の手ではない。荒れている。傷がある。若い。

「……え?」

声も違った。低く、力強い。


慌てて周囲を見る。

山。深い森。見たことのない服。腰には刀。そして、自分を見る男たち。

「殿!」

「お目覚めになられましたか!」

「義昌様!」


その瞬間、頭の中に強烈な痛みが走った。知らない記憶が流れ込んでくる。

信濃国木曽谷。木曽福島城。武田家。甲斐。信玄。勝頼。戦。裏切り。家臣。父。母。

そして――木曽義昌。

「……嘘だろ」

男は震えた。知っている名前だった。


戦国時代。武田家の重臣。信濃国木曽谷を治めた武将。

そして、武田家を裏切り織田信長へ寝返った男。

「俺が……木曽義昌?」

家臣たちは怪訝な顔をした。

「殿?」

鈴木太郎。58歳の平凡な会社員だった男は。戦国乱世の武将になっていた。


数日後。

俺は理解した。これは夢ではない。幻でもない。本当に戦国時代へ来た。

しかも、よりによって危険な時期。

永禄末期。武田信玄亡き後。武田家は急速に崩れ始めていた。


現代知識がある。歴史を知っている。だから分かる。

武田勝頼は能力のない人物ではない。しかし時代の流れは変えられない。


長篠の戦い。御館の乱。織田信長の台頭。そして武田家滅亡。

問題は、自分がその滅亡する家臣側にいることだった。

「……まずい」

俺は呟いた。


武田家に忠義を尽くして最後まで付き合えば。木曽家は消える。

だが、早く動きすぎれば、ただの裏切り者になる。

戦国武将にとって家名とは命そのもの。

「俺の目的は天下じゃない」

俺は拳を握った。前世では何も残せなかった。今度は違う。

「木曽家を残す。」

それだけだ。


俺は武田家について考えた。信玄の時代なら問題なかった。だが、勝頼の時代は違う。

武田家最大の問題。それは敵ではない。判断の遅さだった。

勝てる戦。負ける戦。付き合う相手。切る相手。

それを間違えれば、一族ごと滅ぶ。


「武田家は……もう永遠には続かない」

口に出した瞬間。部屋にいた家臣が顔を上げた。

「殿……」

俺は慌てて言葉を選ぶ。

「いや、勝頼様を侮っているわけではない」

だが心の中では確信していた。歴史を知る者として。武田家は終わる。

ならば、いつ動くか。そこが問題だった。

「織田信長」

その名前を思い浮かべる。未来の天下人。合理主義者。敵には苛烈。しかし能力を認めた者には寛容。

木曽谷という地理的価値を考えれば、接近する価値はある。

問題は、早すぎると疑われること。遅すぎると滅亡に巻き込まれること。

「勝負は一度だけ」

俺は決めた。武田家を見限る。しかし、ただ裏切るのではない。

木曽家が生き残るための戦略としてだ。


数年後。武田家では不穏な空気が流れていた。俺は静かに準備を進めた。

兵糧。武器。家臣団。領民。戦ではない。生存のための準備。

そして、ある日。決断の日が来る。

織田信長からの使者。

「木曽殿」

使者は言った。

「信長様は、木曽谷の重要性を理解しておられる」

俺は笑った。未来を知る者として。信長の価値観は分かっていた。

土地より。人より。使える能力を見る男。ならば、自分も利用する。

「織田様へ伝えよ」

俺は言った。

「木曽義昌、織田家に力を貸す用意があると」

歴史では「裏切り」と呼ばれた行動は、一人の男にとって家を未来へ残すための第一歩となった。


しかし、俺にはまだ知らないことがあった。

武田家を離れた先に待つのは信長だけではない。やがて出会う男。

徳川家康。

この男こそ。木曽家の未来を決める存在になる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ