第一話 死んだ男、木曽谷に立つ
最後に見たものは、天井だった。
白い蛍光灯。六畳一間の古いアパート。テレビの音。
そして、誰にも届かなかった自分のため息。
「……俺、こんな終わり方か」
男は床に倒れながら、ぼんやりと思った。
名前は、鈴木太郎。
58歳。独身。会社員。定年まであと数年。
大きな失敗もなかった。
大きな成功もなかった。
毎日、満員電車に揺られ、会社では中間管理職として頭を下げ、家に帰ればコンビニ弁当を食べ、酒を少し飲んで眠る。
そんな人生だった。
家族はいない。妻も子もいない。親はすでに亡くなった。友人とも、いつの間にか疎遠になった。
会社では「鈴木さん」と呼ばれた。しかし、一歩会社を出れば、自分を待つ人間はいなかった。
孤独。それが当たり前になっていた。だから、死ぬ瞬間も不思議ではなかった。
胸の奥が苦しくなった時も、「疲れているだけだ」そう思った。
スマートフォンには、未読の通知が数件。
会社の連絡。通販の広告。
それだけだった。
最後に思った。
せめてもう一度人生をやり直せるなら。今度は何かを残したい。
金でも名誉でもない。自分が生きた証。
誰かが覚えていてくれる何か。
その願いを抱いたまま、意識は闇に沈んだ。
-------------------------------------------------------------------------------------------
目を開けた瞬間、最初に感じたのは寒さだった。
「……寒い?」
畳ではない。布団でもない。背中に感じるのは固い土。
空気は冷たく、鼻に入る匂いが違った。
土。木。煙。そして馬。
「……何だ?」
起き上がろうとして、違和感に気づく。
手が違う。自分の手ではない。荒れている。傷がある。若い。
「……え?」
声も違った。低く、力強い。
慌てて周囲を見る。
山。深い森。見たことのない服。腰には刀。そして、自分を見る男たち。
「殿!」
「お目覚めになられましたか!」
「義昌様!」
その瞬間、頭の中に強烈な痛みが走った。知らない記憶が流れ込んでくる。
信濃国木曽谷。木曽福島城。武田家。甲斐。信玄。勝頼。戦。裏切り。家臣。父。母。
そして――木曽義昌。
「……嘘だろ」
男は震えた。知っている名前だった。
戦国時代。武田家の重臣。信濃国木曽谷を治めた武将。
そして、武田家を裏切り織田信長へ寝返った男。
「俺が……木曽義昌?」
家臣たちは怪訝な顔をした。
「殿?」
鈴木太郎。58歳の平凡な会社員だった男は。戦国乱世の武将になっていた。
数日後。
俺は理解した。これは夢ではない。幻でもない。本当に戦国時代へ来た。
しかも、よりによって危険な時期。
永禄末期。武田信玄亡き後。武田家は急速に崩れ始めていた。
現代知識がある。歴史を知っている。だから分かる。
武田勝頼は能力のない人物ではない。しかし時代の流れは変えられない。
長篠の戦い。御館の乱。織田信長の台頭。そして武田家滅亡。
問題は、自分がその滅亡する家臣側にいることだった。
「……まずい」
俺は呟いた。
武田家に忠義を尽くして最後まで付き合えば。木曽家は消える。
だが、早く動きすぎれば、ただの裏切り者になる。
戦国武将にとって家名とは命そのもの。
「俺の目的は天下じゃない」
俺は拳を握った。前世では何も残せなかった。今度は違う。
「木曽家を残す。」
それだけだ。
俺は武田家について考えた。信玄の時代なら問題なかった。だが、勝頼の時代は違う。
武田家最大の問題。それは敵ではない。判断の遅さだった。
勝てる戦。負ける戦。付き合う相手。切る相手。
それを間違えれば、一族ごと滅ぶ。
「武田家は……もう永遠には続かない」
口に出した瞬間。部屋にいた家臣が顔を上げた。
「殿……」
俺は慌てて言葉を選ぶ。
「いや、勝頼様を侮っているわけではない」
だが心の中では確信していた。歴史を知る者として。武田家は終わる。
ならば、いつ動くか。そこが問題だった。
「織田信長」
その名前を思い浮かべる。未来の天下人。合理主義者。敵には苛烈。しかし能力を認めた者には寛容。
木曽谷という地理的価値を考えれば、接近する価値はある。
問題は、早すぎると疑われること。遅すぎると滅亡に巻き込まれること。
「勝負は一度だけ」
俺は決めた。武田家を見限る。しかし、ただ裏切るのではない。
木曽家が生き残るための戦略としてだ。
数年後。武田家では不穏な空気が流れていた。俺は静かに準備を進めた。
兵糧。武器。家臣団。領民。戦ではない。生存のための準備。
そして、ある日。決断の日が来る。
織田信長からの使者。
「木曽殿」
使者は言った。
「信長様は、木曽谷の重要性を理解しておられる」
俺は笑った。未来を知る者として。信長の価値観は分かっていた。
土地より。人より。使える能力を見る男。ならば、自分も利用する。
「織田様へ伝えよ」
俺は言った。
「木曽義昌、織田家に力を貸す用意があると」
歴史では「裏切り」と呼ばれた行動は、一人の男にとって家を未来へ残すための第一歩となった。
しかし、俺にはまだ知らないことがあった。
武田家を離れた先に待つのは信長だけではない。やがて出会う男。
徳川家康。
この男こそ。木曽家の未来を決める存在になる。




