惚れられた喜久蔵 (前編)
*思ったより長くなったので、2回に分けました。後編は明日か明後日夜の掲載/公開予定です。
白い光と黄色い光がさきの視界を飛び交っていた。
「おとっつぁん、頑張って」
さきは小声でおとっつぁん、喜久蔵である白い光を応援し続けていた。
前に見た戦いよりも長い。なかなか決着がつかない。
さきは喜久蔵に加勢したかったが、二つの光が動いているのは、さきの手が届かない高さだ。なかなか地面近くに降りてこない。
その戦いは、かれこれ四半刻以上続いていた。
さきと喜久蔵が川沿いに山を降りていた時、突然黄色い光が空から落ちてきたのだ。喜久蔵は間一髪、さきを押しのけて転がり、次の瞬間には白い光となって黄色い光と格闘を始めた。
慌ててさきは立ち上がったが、その時、二つの光は遥か上空へと登っていた。
そこからは動きがあまりに目まぐるしくて、さきは途中、二つの光を見失ったくらいだった。
さきは二つの光を追って、川沿いを離れて藪や林の中を駆けた。そして、ついに岩の多い浜へと出た。
援護したくても何もできず、さきはひたすら喜久蔵が勝つことを祈っていた。
やがて二つの光は重なり、キリキリと舞いながら、海に突っ込んでいった。
さきは息を呑んだ。
海は二つの光を受け止めた衝撃で高波を起こし、さきのいる岩石海岸にも大きな波が押し寄せてきた。
さきは波を避けながらも、二つの光が落ちた海の辺りを視界に入れ続けた。
海の中で何かが光っていた。
ザバッと音を立てて今度は光が海から飛び出した。立て続けに二つ、先に白い光、後から黄色の光だ。
また目まぐるしく二つの光が空を駆け巡る。光の動きを目で追いかけていたさきは、めまいがしてきた。……と、白い光がまた海に向かった。
海に突っ込むと見えた時、白い光は海面すれすれで上昇に転じた。
黄色の光がそのまま海に突っ込んでいったのを今度は白い光が追いかけ、海に恐ろしい速さで飛び込んだ。
直後に何か音がしたと、さきは思った。
音と同時に二つの光が入ったあたりの海面が膨らんだ。
二つの光が海に突入したときにも大きな波紋が起きていたが、もっと大きなうねりが海岸に押し寄せてきた。
さきが立ちすくんでいる岩にも大きな波がぶつかり、さきは急いで後退ったが、したたかにそのしぶきを浴びた。
それ以降、海は徐々に落ち着いていった。
二つの光は出てこない。
さきはひたすら海を見つめ続けた。ひたすら心の中では、「おとっつぁん」を繰り返していた。
やがて、波が固まった……ように見えたと思ったら、さきが立っているところから少し離れた岩にブヨブヨの塊が打ち上げられた。
さきは足を滑らせないように気をつけながら、急いでそこへ移動した。
ブヨブヨの乳白色の物体は、岩の上にじわじわと広がっている。
「おとっつぁん、大丈夫?」
ブヨブヨがブルルと震えた。
〈あんまり大丈夫じゃねえ……おさき、なんとか酒を持ってきてくれねぇか……〉
「お酒ね。なんとかする!けど、ここにいちゃダメよ。どこかに隠れなきゃ……」
さきは周囲を見回した。
少し先に大きな岩がいくつか見えていた。しかし、さき一人ではそこまでブヨブヨで平べったくなった喜久蔵を運べない。
「おとっつぁん、なんとかあの岩の陰まで動けない?」
ブヨブヨは、またブルルと震えた。
今度のブルル……は先ほどより激しく、平べったくなっていたのが徐々に盛り上がってきた。
動こうとしているのだと、さきは感じた。
――でも、ブヨブヨでどうやって?
そう思ったさきは、しばらくブヨブヨを見守ることにした。
まもなくぶるぶる震える白いブヨブヨに頭と手足のような突起が出てきた。そして突起の色は肌色に、中心は青い色に変わってきた。その様子にさきは作りかけの土人形のようだと思った。
そこから喜久蔵の姿に変わることをさきは期待したが、顔にあたる部分にぼんやりと目鼻の凹凸が現れただけで、震えは止まった。しばらく待ったが、作りかけの粗い彩色の土人形状態から変わらない。
〈今はこれ以上無理だ……遠目からは人に見えないことはないだろ?〉
喜久蔵の声が聞こえた。同時に、わずかに鼻筋と目のくぼみがあるだけののっぺらぼうがさきに向いた。
ブヨブヨの方がマシだったかもしれないと思う気持ちをなんとかこらえ、さきは言った。
「動ける?」
作りかけの土人形が、ゆっくりと立ち上がった。だが、足を前に出そうとしてよろめいた。
「危ない!」
さきは叫びながら、作りかけの土人形の片腕をつかんで、その脇に身体を入れた。
〈ありがとうよ……〉
ただでさえ足元に気をつけないといけない不定形な岩の上を、作りかけの土人形状態の喜久蔵を支え、さきは目指す大岩の陰へと慎重に歩いていった。
幸いなことに、作りかけの土人形状態の喜久蔵は軽かった。完全に喜久蔵の姿でいるときの半分くらいの重さしかないようにさきは感じた。
大岩の陰にたどり着くと、喜久蔵は倒れ込むように横になった。肌色と青色が消えて、質感もブヨブヨになっていく。
「ここで待っててね。お酒、手に入れてくるから!」
さきは岩石海岸から川下を目指して走った。そこにこの辺りでは最大と言っていい、大きな村があるのだ。
さきは村に入るとすぐに道行く人に酒屋の場所を尋ねた。最寄りの酒屋は、二十間ほど先にあった。
さきは教えられた酒屋に走り込んで叫んだ。
「す、すみません!お酒を三合ください!」
一息で言い終えると、さきはぁはぁと肩で息をした。
酒屋にいたのは、さきと同い年くらいの丁稚と三十くらいの女だった。
女将と見える女には落ち着きがあり、美人の部類に入ると、さきは思った。その女が言った。
「まさか、あなたが飲むんじゃないわよね?」
「ち、ち、違います!……はぁ、はぁ……おとっつぁんです!はぁはぁ……お、お金ならあります!」
さきは懐から財布を取り出し、女に向かって差し出した。
女は丁稚に酒を三合徳利に入れるよう指図したが、そのあとでじっとさきを見つめてきた。
「そんなに急いでお酒を買いに来るなんて、ただごとじゃないわね」
「いえ、大したことないんです」
「大したことないって、何が?」
とっさに出てしまった言葉に、さきは大いに後悔した。
「とにかく、早く買って帰らないと……」
「叱られるの?」
「違います!」
さきは手ぶりもつけて否定した。
「そんなに躍起になって違うって言うのも変よ」
普段なら、落ち着いていれば、喜久蔵よりうまく「嘘も方便」ができると思っていたさきだったが、非常事態にうまく頭がまわらない。気持ちだけ焦る。
「あの、ちょっと具合が悪くて、お酒が良いって……」
女は目を丸くした。
「具合の悪い時にお酒が良いって、『おとっつぁん』が言ったの?」
「ち、違うんです!そうじゃなくて、あの……とにかく売ってください。お願いします」
さきは深くお辞儀をした。
「もしも怪我なら、焼酎の方がいいんだけど、お酒でいいの?」
女の言葉にさきは驚いて頭をあげた。
「そうなんですか?」
女は頷いた。
「焼酎の方がなんていうか、濃いお酒で、怪我したときにはいいの」
言われてみれば、そんなことを聞いた気がしたさきだったが、今の喜久蔵にどちらが良いのか、わからない。これまで喜久蔵が飲んでいたのは濁り酒か清酒で、焼酎は飲んだことがないのだ。
さきは何も言えず、しばらく女の顔を見た。
――早くしないと、おとっつぁんが……
それなのに、さきはうまい言い訳が思いつかない。涙があふれてくるのを必死にこらえた。
そんなさきを見つめていた女がふいと、三合徳利を持ってきた丁稚に向かって言った。
「三吉、焼酎も三合徳利に用意して」
喜久蔵が待つ大岩へ向かって三合徳利を胸元に抱えて歩きながら、さきはさらに困ったことになったと、心の中では焦っていた。あの女、酒屋の女将がすぐ後ろを歩いているのだ。
女はこまと名乗った。
「ひとりで三合徳利二本はきついでしょう」
そう言って、さきについてきたのだ。
さきはこまの同道を断るうまい理由が浮かばず、ぺこりと礼をした後は、黙って早足で歩いている。
――あ〜もう、どうしたらいいの?
やがて、作りかけの土人形状態の喜久蔵が潜む大岩が見えてきた。
「『おとっつぁん』は、あんなところに?」
こまの声だ。
さきは歩きながら必死に考えたせりふを口にした。
「あ、あの、おとっつぁん、まさか女の人が来てくれるなんて思ってないから、この辺りで少しだけ待ってもらえますか。先にあたしが顔を見せて、安心させたいんです」
こまは頷いて、焼酎の徳利をさきに手渡した。
さきは二つの徳利を抱えて慎重に大岩へと歩いていった。
「おとっつぁん」
声をかけながら、さきは喜久蔵が潜んでいるはずの大岩の向こうをそっと覗いた。
見えたのはやはりブヨブヨの白い塊だ。さきは小声で呼びかけた。
「おとっつぁん、酒屋の女将さんがついてきてるの。なんとか人の姿になれない?あ、これ、お酒」
と言いながら、さきはブヨブヨに徳利を一本差し出した。
すぐにブヨブヨから突起が出現して徳利を受け取り、徳利はブヨブヨの中へ消えた。
少し間をおいて、ぶはーっとブヨブヨから声が聞こえた。
〈こいつは、何だ?初めて飲んだぞ、おさき。うわっ、頭がくらくらする……〉
言われてさきは気づいた。
「あ、それ、焼酎の方だった」
「大丈夫?」
後ろからこまの声がした。
「大丈夫です」
急いで返してから、さきは岩陰から顔をこまに見せた。
「本当にありがとうございます。気にかけてくださって」
「怪我にしろ、病気にしろ、こんなところで寝ていてはよくならないわよ」
「もう大丈夫だと思います。もう少ししたら、動けるようになります」
さきはひたすらコメツキバッタのようにペコペコ頭を下げた。
「お気遣いはありがてぇでやすが、おさきの言うとおり、もう大丈夫でやす」
喜久蔵の声がして、さきは喜久蔵の姿になったんだと喜んで振り向いた。
そこでさきの目に入ったのは、確かに喜久蔵によく似ていたが、少々違っている顔だった。
――おとっつぁん、目が違うよ……
目がいつもより黒目がちの丸い目になっていたのだ。
言いたいのに言えない言葉を飲み込んださきである。
喜久蔵自身は、いつもと目が少々違うのに気がついていないらしく、さきの動揺に気づいた様子もなく、立ち上がろうとした。
さきがはたと気づいて喜久蔵に手を伸ばした時、もっと長い腕が喜久蔵を助け起こした。
「大丈夫そうには見えませんね。お酒より、もっと必要なものがあるでしょう」
こまの声には苛立ちが感じられた。
さきとこまに両脇を支えられて歩き出した喜久蔵は、明らかにつらそうだった。そして、途中でチラリとさきを見た。正確にはさきが抱えている徳利を、だ。
今の喜久蔵に一番必要なのは、酒に違いない。しかし、人間の振りをしている限り、酒は勧めてくれないどころか、むしろ禁止される。
さきは親切心でついてきてくれたこまを呪いたい気持ちになった。
こまは喜久蔵とさきを酒屋の裏口へ連れていった。
裏の潜り戸を入ると、目の前に平屋があり、こまの呼びかけに女中らしい女が前掛けで手を拭きながら、濡れ縁に現れた。
こまは女に、湯と客間に布団を用意するよう命じた。
喜久蔵はなんとか自分で歩こうとしていたが、足元がおぼつかない。結局、平屋に入ってもこまとさきが喜久蔵を支え続け、喜久蔵は女中が敷いた布団に倒れ込んだ。
体に良いものを持ってきますからと言い置いてこまが部屋を出た隙に、さきは喜久蔵に酒を飲ませた。そして、小声で告げた
「おとっつぁん、目がいつもと違うけど、今さら変わったら変だから、この村を出るまではそのままの目にしていて」
「えっ!目が違う?」
間もなくこまと女中が膳を運んできた。
「大したものはないけど、具合が悪い時には、こうしたものが良いのよ」
粥と漬物くらいだろうと思っていたさきは、置かれた膳の上を見て驚いた。
飯こそ白米に粟を混ぜた粟飯粥だったが、煮魚に芋と菜の煮物、漬物から味噌汁までのっていたのだ。
「こ、こんな料理、お正月くらいです。お、お金、そんなに無いんですけど……」
恐縮したさきと喜久蔵に、こまは「お金のことは気にしないで」と、軽く手を振って言った。
夕方には焼酎と酒の注入で、かなり喜久蔵は元気を取り戻してきた。しかし、酒で急に元気になるのは怪しすぎる。
さきのすすめで喜久蔵はもうしばらく具合の悪い振りをすることにした。
翌朝、さきが朝湯から戻ってきたら、喜久蔵は布団の中で上体を起こしていて、枕元にはこまがいた。二人が和やかに会話している様子に、さきは思わず手前の部屋に隠れた。
「お酒のお金はちゃんといただきましたし、困った時はお互いさま。昨日も言いましたけど、気になさらないでください」
こまの声はどこか弾んで聞こえた。
「そう言ってくださるのは、ほんっとにありがてぇんですが、お心遣いに甘えてばかりもいられやせん。もうかなり良くなりましたし、明日からはご恩返しで、少しお手伝いさせていただけたらと思っておりやす」
「そんなお気遣いも無用ですよ。それにあと一日、二日はお休みになっておられた方が……」
さきは意外な展開に心の臓が大きく打ち始めた。
先ほど女中に聞いたところでは、こまは一年半ほど前に旦那を亡くし、今は独り身だという。ということは、こまが喜久蔵に惚れたとて、不義にはならない。
――でも、あのおとっつぁんに惚れる?
この時の喜久蔵は、いつもと目が違うままだから、さきには違和感が強いのだが、初めて見る人には、悪くない顔なのかもしれない。
そう考えると少し楽しくなったが、はたと気づいた。
――おとっつぁんは、女の人を好きになるのかしら?
なにせ、本体はブヨブヨかふわふわである。これまでにも女人を気にするような素振りをさきは見たことがない。
さきが首を傾げていると、表の方からこまを呼ぶ声が聞こえ、すぐにこまが目の前の濡れ縁を早足で通っていった。




