狸の恩返し?
* 今回もさきの視点(で統一)です。
谷岩村を出た喜久蔵とさきは、またしても空腹に耐えながら、森の中を歩いていた。
そして、谷岩村を出てからさほどたっていないのに、失恋の痛手にその相手がそれまで信じていなかった、人に化けた狐だった驚きのせいか、さきはすぐにヘトヘトになってしまった。
谷岩村同様に、さきが空腹に耐えかねて大木の根元に腰をおろそうとした時、少し先の木の影からチラリと顔を覗かせた生き物がいた。
「狸?」
さきの呟きに、喜久蔵が答えた。
「狸だな……」
狸は頭だけ出してこちらを見ている。
「あれは……谷岩村の稲荷にいた狸だよ」
喜久蔵がさらりと言った。
「あの狸がこんなところに?」
「おいら達は結構歩いたつもりだが、狸にとっちゃ、それほどでないかもしれんよ」
喜久蔵がそう言っている間に、狸は頭だけでなく全身を見せた。それから、向こうを向いて頭だけこちらに向けた。
「なんか、ついてこいって言ってるみてぇだな……」
さきは喜久蔵の言ったことに半信半疑だったが、好奇心が湧いた。
「お父つぁんがそう思うんだったら、ついていってみようよ」
狸は喜久蔵とさきが五間ほど後ろを歩いているのを確かめるかのように、時々後ろを振り返りつつ、てくてくと歩いていった。途中からは全くの獣道で、喜久蔵とさきは藪をかき分けながら進んだ。
やがて籔が途切れ、二人は畑道らしい均された道へ出た。目の前には幅十間近くにわたって瓜らしい楕円形の作物が葉の下に見えている。
どう見ても瓜畑である。
狸は瓜畑に片足を入れた状態で、さき達を一度見返り、それから畑の中へと入っていった。
さきと喜久蔵はだまって狸を見送った。その後で二人は顔を見合わせた。
「きっとおにぎりの礼だよ」
喜久蔵の嬉しそうな声に、さきの声はひっくり返った。
「畑なのよ!持ち主にだまってこの瓜を食べたら、泥棒じゃない!」
「あ~……そうなるか……じゃ、何かと交換で……」
その時、さき達が畑の中へ入らないのを気にしたのか、狸が瓜畑から顔を覗かせた。
「それじゃ、あいつを捕まえて……」
喜久蔵の輪郭がボヤけ始めた。姿を変えて狸を捕まえるつもりだ。
さきは思わず叫んでいた。
「そんなひどいこと言わないで!せめて別の狸にして!」
どこかで割り切ってはいるさきである。
狸の方は、ぼんやりと喜久蔵とさきを見ていた。危機意識が欠如しているらしい。
「それじゃ……」
喜久蔵は言いきらずに口を閉じてしばらくぼうっと立っていたと思ったら、さっとブヨブヨからふわふわへと姿を変え、ひゅーっと畑の上を飛んでいった。
ふわふわがさきの傍へ戻ってきて再び喜久蔵の姿になった時には、手に持つ風呂敷の中に魚が五匹いた。
前にふわふわの喜久蔵が瞬く間に魚を捕まえる様子を見たことがあったから、魚を捕らえてきたことには驚かなかったさきだが、
「この近くに大きな川があるの?」
「幅一間くらいの川があるよ。谷底に」
さきはそれ以上尋ねるのをやめた。
「今日の夜食だね」
さきの言葉に喜久蔵は軽く首肯した。
「二匹はおいら達で食べて三匹は瓜や酒……じゃなくて粟か米と交換してもらおう」
問題は瓜畑の持ち主がいつ現れるか、である。待っていては、魚が痛んでしまうかもしれない。
「魚を取りに行く時に、小屋とか人は見えなかったの?」
さきは喜久蔵に訊ねた。
「人は見えなかったなぁ。小屋みたいなのはチラリと見えたけど」
「小屋があったのね!この畑の持ち主の家はそこじゃない?」
「えー?あんなボロ小屋に畑持ってるような人が住んでるかなぁ……」
呑気な喜久蔵だったが、さきが急かしてそのボロ小屋へ行ってみると、人がいた。
延び放題で総髪となり、うなじの辺りでひとまとめにしただけの白髪に黒々と日焼けした顔をしていて、その色の対比は目がチカチカしそうだと、さきは思った。よく見ると、日焼けした顔は皺だらけだ。かなりの高齢に見えた。
「あの~、瓜と粟飯を分けていただきたいとと思いやして……この魚と交換で……」
どんな時にも怖じ気づくことのない喜久蔵は、笑顔を浮かべて男に話しかけた。
男はまじまじと喜久蔵と、喜久蔵が見せた魚を見つめた。
「あんた達はわざわざ谷底からこんな上まで登ってきたのか?何のために?」
さきは思わず喜久蔵の顔を見た。
喜久蔵の笑顔は張りついた笑顔に変わっていた。
「えーと、そのぉ……色々ありやして……」
気まずい無言の間があった。
「まぁ、いいさ。ひさしぶりに大きな魚が食えるんだからな。ただし、珍しく先客がいるぜ。入りな」
喜久蔵とさきが小屋に足を踏み入れた途端、「あっ」という声が聞こえた。
「あっ」
続いての声は、先に声がした方を見た喜久蔵だ。
「えーと……穴加辺村でお会いしましたよね?」
喜久蔵は今度は奥に向いて張りついた笑顔を見せていた。
小屋の奥に座っていたのは、喜久蔵と年も体格も同じくらいの男だった。身なりと傍らに置いている荷物からは、行商人に見える。
相手の方は、喜久蔵を呆然と見つめていた。
「やっぱり喜久蔵じゃねぇか!」
喜久蔵の方は相変わらずの調子だった。
「ええ~と……あなた様はどちら様で?」
「俺を覚えてねぇって言うのか?」
行商人風の男は、銀次郎と名乗った。
「お前と俺は古い付き合いだぜ。それを忘れちまうたぁな……」
さきはまずいと思ったが、さきは銀次郎に全く見覚えがないのだから、「人違いじゃないですか?」しか言えない。
さらに悪いことに、銀次郎も権八同様、酒を出してきた。喜久蔵は目が変わりかけるくらい喜んでいる。
さきは喜久蔵をつついた。
「この人の前では飲んじゃダメよ」
「あんたらは知り合いかね?」
小屋の主、与右衛門の問いかけに、銀次郎は三つの湯飲みに酒を注ぎながら答えた。
「……と、思うんだが、覚えがねぇっていう……顔だけじゃなく、名前も同じなのにな」
銀次郎は酒を八分ほど注いだ湯飲みを与右衛門と喜久蔵の前に置いた。
「ま、一杯やってくれ」
喜久蔵が子供のような笑顔になって湯飲みに口を近づけようとしたのを、さきがぐいと後ろ衿を引っ張り、無情に止めた。
「ダメだったら!」
喜久蔵がさきに顔を向けて、何か言おうとした時、銀次郎が言った。
「その子を育ててどうするんだ?売るのか?それとも親を強請る気か?」
さきは呆然と銀次郎の顔を見た。次に喜久蔵の顔を見た。
「さきはおいらの娘だ。そんなことはしねぇ」
そう返した喜久蔵もまた面食らっている。
「……ま、そういうことにしておこうか」
銀次郎は意地の悪そうな笑みを浮かべて酒を飲み始めた。
小屋の主、与右衛門は、客人三人のそんな不思議なやり取りを黙って聞いていた。
さきはの心の臓は激しく打っていた。
――嘘言って、お父つぁんとあたしに喧嘩させようとしてるんだ、あの人……
そう思いながら、さきの頭にかすかな引っ掛かりがあった。知らない男女が自分を見つめていた記憶があるのだ。男は喜久蔵ではない。もう少し年上で細面だ。女は男よりかなり若く、二十歳くらいに見える。自分を見ている様子は二人とも優しく穏やかだ。
――たまたま家に遊びに来ていた親戚か近所の夫婦だろうか?
喜久蔵は酒を目の前に目から涎を垂らしそうな雰囲気だったが、銀次郎の様子に手は出さなかった。しばらく酒を飲む銀次郎を黙って見ていた。
「おいらとは古い知り合いだっておっしゃいやしたが、人違いですよ。その、お知り合いのきくぞうって方は、どのようなお方で?」
今度は銀次郎がしばらく黙って喜久蔵を見た。やっと口を開いて言ったのは、
「確かに雰囲気はちと違うが、あれから五年以上経つんだ。全く同じでいられねぇだろうよ」
だった。
「ホントにあっしはお前さんとは穴加辺村で初めて会ったんでやすよ」
紛れもない事実だから、喜久蔵の顔つきにも声にも浮わつきはない。
「おさきはおいらの娘だし。そうだ。おめぇ様が知ってる『きくぞう』って男のことを教えてくだせぇ」
さきの注意がつい銀次郎に向いた間に喜久蔵は湯飲みに口をつけていた。
「あーっ」と声を出してさきは喜久蔵の腕を掴んだが、喜久蔵は恐るべき早さで酒を飲み干していた。ぷはーっと満足げな息を吐く。
「気を抜かないでよ」
耳元に囁いたさきに、喜久蔵もまた囁きで返した。
「銀次郎さんの話に気が抜けないよ」
銀次郎は喜久蔵の湯飲みにまた酒を注いだ。
「俺の知ってる、あんたにそっくりな喜久蔵は、通称、韋駄天の喜久蔵。決まった頭はもたず、その時々で盗賊の仲間に入っていた悪党だ。七年前から六年前まで上方の津野屋っていう飛脚屋に手代として潜り込んでいた。しょうきのもんじってお頭の手下としてな。『しょうき』は小さい亀。『もんじ』は家紋の紋に次だ。その小亀の紋次一味が津野屋に押し込んだ後、韋駄天の喜久蔵は行き方知れずになった。津野屋の娘も行き方知れず。その、おさきって娘は、津野屋の娘と同い年に見えるんだがなぁ……」
「なんで手代として大店に潜り込んでた喜久蔵ってのが、そこの娘を連れて、行方をくらますことになるんです?」
喜久蔵の質しに銀次郎は首を傾げた。
「そこが俺にもわからねぇところだ。喜久蔵ってヤツは独り身で子どもをかまったことなどありはしねぇ。だのに、紋次らが津野屋を襲ったあとに喜久蔵と娘の姿が見当たらなかった……娘は当時四つだったかな」
さきは他人事か昔話を聞いている気分だった。
――本物の喜久蔵お父つぁんが盗賊だったなんて、嘘よ!あたしの本当のお父つぁんじゃないなんて、嘘よ!
本物と入れ替わった、今のお父つぁんの喜久蔵も、なんとも言えない顔つきになっている。
「このお人が元盗賊とは思えねぇな」
突然響いた低い声は、この屋の主、与右衛門だ。
「銀次郎さんとやら、人違いだろうよ。世の中には良く似たヤツが三人いるって言うからな」
さきは思わぬ援軍にほっとした。
ほっとして喜久蔵の顔を見たら、目と目の間が広がり、その目は黒目がちの丸い目になりかけていた。
咄嗟にさきは喜久蔵をつねった。
「いてっ!」
喜久蔵をつねると同時に、さきは銀次郎と与右衛門を見た。二人は顔を見合わせていて、喜久蔵を見ていなかった。……が、「いてっ!」の声で同時に喜久蔵を見た。
「そんな喜久蔵さんと古い知り合いということは、銀次郎さんも盗っ人でやすか?」
さすが、喜久蔵は真っ向勝負である。さきも同じことを思ったが、自分のような子どもならともかく、大人がそんな聞き方して正直に答えてくれるんだろうかと呆れた。
「とんでもねぇ。俺はしがねぇ薬の行商人だよ」
さきは銀次郎の言ったことが信じられなかった。ただのしがない薬の行商人であるわけがない。とはいえ、極悪人とも思えなかった。
喜久蔵もどう問い質したものか迷って見えた。
そんな雰囲気を察してか、与右衛門が言った。
「さっさと飲んで、さっさと休もう」
与右衛門の小屋は、さきと喜久蔵が暮らしていた小屋同様、土間と板の間二つなので、さきと喜久蔵が囲炉裏のある部屋で、与右衛門と銀次郎が板の間だけの部屋で眠りについた。
どれくらい経った頃なのか。さきは妙な気配に目が覚めた。
誰かが、喜久蔵以外の誰かが、部屋にいた。
部屋に灯りはなく真っ暗だから、見回しても何も見えない。だが、第三の人の気配があることは、間違いなかった。
――誰?
さきと喜久蔵の他には二人しかいない。与右衛門か銀次郎だ。いったい何しに来たのか。
さきはどくどくと心の臓が大きく打つのを感じた。静かだから、相手に聞こえそうな気がした。
すぐ隣に寝ている喜久蔵はピクリとも動かない。
その人物はどうやら壁をつたいながら、さきと喜久蔵の枕元へやってこようとしている。狙いは二人の荷物だと、さきは思った。
――起きてることを知らせたら、やろうとしていることをやめるだろうか?
さきは喜久蔵をそっとつついた。
喜久蔵の声が頭に響いた。
〈起きてるよ。何をやろうとしてるか、見極めようじゃないか〉
近づいてくるのは間違いなく男で、嫌な体臭が臭ってきた。枕元の近くで立ち止まった。狙いはさきと喜久蔵の荷物だ。少額だが銭が入っている。
――きっと銀次郎さんだ……
ゴソゴソという音が聞こえ始めた。行李を包んでいる風呂敷をほどいているに違いない。
すると、隣に寝ていた喜久蔵の様子が変わった。ブヨブヨからふわふわに変わり、薄明かりを放つ。
「うわっ!」
枕元にいた男が声をあげた。
その声にさきは驚いた。銀次郎の声にしては低かったのだ。
まさかという思いでさきは半身を起こし、枕の向こうを見た。
ふわふわになった喜久蔵が放つ明かりに見えたのは、小屋の主、与右衛門だった。目も口も大きく開けていた。
「与右衛門さん!どうして……」
驚きすぎて、さきは言葉が続かなかった。
ふわふわになった喜久蔵は、今度は大きくなりはじめた。
与右衛門は手にしていた何かをふわふわの喜久蔵に投げたが、当たった音はしなかった。ふわふわなのだから、おそらく吸収したのだ。
投げた物の末路を目にしたからか、与右衛門の動きが止まった。口は叫ぶ形だが声は出ていない。
喜久蔵が巨大化したため、さきからは驚きのあまり声が出ないらしい与右衛門がすぐに見えなくなった。
しばらくして光が消え、ふわふわからブヨブヨを経て人の姿に戻った喜久蔵の向こうには、与右衛門が仰向けに倒れていた。
「死んだの?」
さきの小声に喜久蔵は首を横に振った。
「気を失ってるだけだよ」
「どうして盗っ人のようなことを……」
言い切らなかったさきに喜久蔵は振り向いて言った。
「出来心かな……にしては、抜き足差し足に慣れてた気がするけど。出来心だとしても、悪人、盗っ人は、与右衛門さんの方だったな。銀次郎さんは、ホントにただの薬売りなんじゃないかな」
どうして部屋の中が薄明るいままなのだろうと思ったら、喜久蔵の左手部分がふわふわのままで、やわらかな光を放っていた。
そんなことかできるのかと、さきはまた驚いた。
さきは喜久蔵の言ったことに半信半疑だったが、そこでやっと気がついた。
「銀次郎さんはどうしたんだろ。与右衛門さんと一緒に隣で寝てたはずよね?」
喜久蔵は首を傾げた。
「隣にいるみたいだけど、意識はないみたいだ。見に行ったほうがいいな」
「意識?」
さきは時々喜久蔵の言うことがわからない。
「おさき、与右衛門さんを縛るのを手伝ってくれ。片手がコレだから……」
喜久蔵は光を放つ左手をさきに向けた。
二人がかりで与右衛門の手足を縛り、さきと喜久蔵が隣の部屋を覗いたら、銀次郎が手足を縛られているだけでなく、猿轡まではめられて転がっていた。
「やっぱり与右衛門さんは盗っ人だったみたいだな。しばらく足を洗ってたかもしれないけど」
喜久蔵の言うとおりだと、さきは思った。銀次郎は決して小柄で非力な男ではない。なのに、老齢の与右衛門によって、この無様なありさまだ。
その部屋には有明行灯があったので、喜久蔵は左手を人の手に戻し、銀次郎の猿轡を解いた。
銀次郎はぐったりして見えた。
「し、死んでるの?」
「息はしてるから、大丈夫。手の縄をほどいておけば、足の方は自分で解くさ」
喜久蔵は銀次郎の両腕を縛っていた縄をほどき終えると、さきをせき立てた。
「早くここを出よう。こういうときはさっさと逃げるに如かず、だよ。もうすぐ夜が明けるし」
「あの小屋が盗っ人の隠れ家だったなんて……人里離れてるから、ちょうどいいとは思うけど……おとっつぁんを元盗賊とは思えないって言ってくれたときは、てっきり味方してくれたと思ったのに、油断させるためだったのね……嫌だなぁ、これからは何も信じられなくなっちゃいそう」
喜久蔵の左手が放つ明かりを頼りに、まだ暗い山を谷底に向かっておりながらぶつぶつ言ったさきに、喜久蔵は笑顔を向けて言った。
「おいらがいるから、大丈夫だよ」
その通りだ。このおとっつぁんがいれば、きっと、どんな災難も乗り越えられる。しかし、そもそも災難に遭わないに越したことはない。そんなことをさきは思ったが、口には出さなかった。
川が流れる谷底へさき達がたどり着いた頃にはすっかり明るくなっていた。
二人はまず顔を洗い、喜久蔵はまたふわふわの姿で魚取りにかかった。
あっという間にまた喜久蔵が魚を五匹を捕まえ、今度は全部を河原で焼いて食べることにした。
その時、川下の森から狸が現れた。おどおどした風を見せながら、こちらへ近づいてくる。
「ひよっとして、まさか、あのコ?」
焼きたての魚にかぶりつこうとして狸に気づいたさきが言った。
狸を見た喜久蔵は、またさらりと言った。
「うん、あのコだな」
「魚が欲しいのかしら」
「そうみたいだ。一匹やるか」
喜久蔵が魚を挿した枝を一本手に取ったとき、狸が出てきた辺りの森から、今度は人が現れた。まだ若い男二人だ。二人はさきと喜久蔵を見て驚いていた。
狸も立ち止まり、若者二人を見返った。
「どうやって五匹も魚を釣ったんです?」
若者のうちの大柄な方が尋ねてきた。釣り竿も網も見当たらないのだから、不思議に思って当然である。
「いや、その……うまいこと、魚が集まってまして、そこをなんとか……」
説明になっていなかったが、二人の若者の目は、焼きたての魚に向いていた。その様子に喜久蔵が言った。
「一匹、お食べになりますか?」
喜久蔵の言葉に、真っ先にさき達の元へやって来たのは、若者ではなく、狸だった。
「お前に言ったんじゃなかったのに。厚かましいコね」
河原で四人と一匹が魚を一匹ずつ食べている間に、若者二人は兄弟で、両親が亡くなった後も山頂近くの小屋に住んでいると語った。
「畑が山の頂近くにあるもんで、普段は山で過ごしてますが、月に一度くらい、麓の村へ採れた作物や山の菜と必要な物を交換に行ってるんです」
さきと喜久蔵が穴加辺村近くで暮らしていた時と同じような生活だ。
「瓜がいい感じに実ってきたから、これからしばらくは五日に一度くらい、村へ行くつもりですがね。あ。瓜を魚のお礼にお二人にお分けしますよ。村へ急ぐのでなければ、ですが……」
「瓜」にさきと喜久蔵は顔を見合わせていた。
兄弟に顔を戻して喜久蔵が言った。
「急いではおりやせん。瓜を分けていただけると、ありがたいでやす」
嫌な予感がしながら、さきと喜久蔵は兄弟のあとについて夜明けに下りてきた道を再び登った。狸もなぜか五間ほど後ろをついてきた。
そんな狸の様子に、あの狸を飼っているのかと、さきは兄弟に尋ねた。
「飼ってはいないよ。妙に人懐っこい狸で、畑の作物を荒らしたりはしないんで、時々餌をやってるだけで……。そうすると、畑を荒らしに狐や熊がきたら、教えてくれるようになってね。不思議なヤツだよ」
そうして、兄弟がこれが家だと、さき達を連れていったのは、やはりあの与右衛門が主面していた小屋だった。
「あ〜、また誰かが勝手に泊まったな……」
弟が小屋の戸が開いているのを見て言ったが、慌てる様子はなく、兄の方も落ち着いた声を出した。
「ま、盗られるようなものはねぇからな」
さきと喜久蔵はきっちり戸を閉めたから、開けっ放しは残っていた二人のどちらかの、あるいは両方の仕業だ。
「与右衛門さんは、勝手にこの小屋に入り込んでいただけだったんだ……」
さきの呟きに喜久蔵は苦笑いを返した。
「さ、何もねぇですが、入ってくだせぇ。瓜はすぐに取ってきやすよ」
兄の言葉にさきと喜久蔵は昨日のやり直しの気分で小屋の敷居を跨いだ。
弟の方は荷物を上がり框に置くと、すぐに軽やかな足取りで畑へ向かった。
もちろん与右衛門と銀次郎の姿はなく、二人がいた形跡は、唯一、上がり框に置かれた薬の小袋だけだった。
あの銀次郎は飯を食い、一晩泊めてもらった礼を置いていったのだ。ということは、与右衛門の方が先に気がついて小屋を出ていったのだろう。あの与右衛門が薬を放っておくはずがない。
「銀次郎さんは真っ当な人だったようだね」
喜久蔵の囁きに、さきは逆に不安になった。
――銀次郎さんが真っ当な行商人で正直な人だったのなら、おとっつぁんが盗っ人の手先だったとか、あたしは津野屋という大店の娘だと言ったのは、本当のこと?
本当の喜久蔵はとうに亡くなっているのだから、どうやって確かめたらいいか、さきは全く思いつかない。
隣に座る喜久蔵を見た。兄と世間話を無難にこなしている。
そんな喜久蔵は、偽物の喜久蔵だが、今となってはさきにとって本当の喜久蔵以上に頼りになる、大切な存在だ。謎だらけだが、どんな姿を見せても、どんなことをやってのけても、驚きはするが、さきは怖くない。喜久蔵がいなくなることこそ、怖い。
さきは思わず喜久蔵の腕を両腕で抱えた。
喜久蔵は、兄と話しながら、そんなさきを優しい目で見下ろした。
――本当のおとっつぁんの喜久蔵は、こんな目はしていなかったかもしれない……
その時、さきは視線を感じ、小屋の入口を見た。
そこにはあの狸がいた。さきの視線に入口から消えた。
さきは、狸が自分と喜久蔵の様子を窺っていた気がした。
――この兄弟は放っておいても戻ってきたでしょうに、あのコはあたし達のために兄弟を連れ戻した気になってたりして?
そう思うと、さきは狸に愛おしさを感じた。そう思わせておいて良いと思った。




