谷岩村お稲荷様騒動
* 今回の視点は、さきで統一しています。
「なんて、冷たい村かしら!」
さきは畑道に座り込み、苛立ちを口にした。
「もう歩けねぇか?」
喜久蔵の問いに、さきはゆらゆらとかぶりを振った後で、こくりと頷いた。
「仕方ねぇな」
喜久蔵がさきに背を向けてしゃがむと、さきは倒れこむように喜久蔵の背中におぶさった。
喜久蔵もヘロヘロだったから、さきを背負って「よっこらせ」と声を出して立ち上がり、よろよろと畑の間の道、畑道を歩いていった。
穴加辺村を出た喜久蔵とさきは、喜久蔵が追手を巻くためと、わざと遠回りしたこともあり、次の村になかなかたどり着かず、とある村はずれにようやくたどり着いた時は空腹と疲れで倒れそうだった。
なのに、やっとたどり着いた村、谷岩村には商家も旅籠もないうえに、見知らぬ人間に冷たく、泊まる場所はもちろん、食べ物をわけてもらうこともできなかった。
――行き倒れは嫌だ!
さきは必死に自分に言い聞かせて足を前に出していたが、家が視界のどこにも見えなくなった時にとうとう動けなくなったのだ。
喜久蔵に背負われたさきは、あっという間に眠りに落ちた。しかし空腹ですぐにまた目覚める。
さきがぼんやりと喜久蔵の背中から前方を見ると、少し先に森を背に、二体の狐の石像が置かれた社にしては小さく、祠にしては大きめの建物が見えた。お稲荷様だと、さきは思った。
「お供え物があるかも……」
さきの呟きに喜久蔵のよろよろと歩いていた歩調が早まった。
大きめの祠の前には、果たして、おにぎり三個、油揚げ一枚と水のお供え物があった。しかも、様子からして、供えられてからさほど経っていない。
喜久蔵は祠に駆け寄り、さきは喜久蔵の背中から跳び下り、二人とも、お供え物のにぎり飯を手に取るなり、勢いよくかぶりついた。
途中で飯を喉につまらせかけたりしながら、がつがつとにぎり飯を一つずつ食べ終えた二人は顔を見合わせ、さきが最後のにぎり飯を二つに分けた。……と、二人は同時に祠の斜め後方を見た。そちらからの視線を感じたのだ。
祠の斜め後ろに二つの丸い目があった。間に白っぽい毛と黒い鼻。
「狸だ」
さきが喜久蔵に囁いた。
「なんか、おいら達を恨めしそうに見てねぇか?」
喜久蔵もさきに囁きで返した。
さきは狸が見つめている先を確認した。
「おにぎりが欲しいみたい」
さきは二つに割ったにぎり飯をしばらく見ていたが、
「ほら、お食べ!」
と、半分を狸に向かって投げた。
狸は見事に飛んできた握り飯を口で捉え……ることはなく、地面に落ちたのをはぐはぐと食べ始めた。
さきは半分のにぎり飯をさらに半分に割り、元のにぎりの四分の一ずつを喜久蔵と食べた。つまり、二人と一匹は、稲荷の祠を挟んで、同時ににぎり飯を食べたのだ。
狸は食べ終えるやいなや、祠の後ろの森の中に消えた。
「あのこ、ひとりぼっちなのかな?まだ子どもの気がしたけど……」
さきは狸の姿が見えなくなってから、呟いた。
「なーに、大丈夫だよ。おいら達を見ても怖がらなかったくらいなんだから」
「……それって、逆のような気がする……」
にぎり飯を一個と四分の一に油揚げを半分ずつ食べた喜久蔵とさきは、思わず祠の前に座り込んで一息ついた。
一息ついた後で、さきは気がついた。
「早くここから動かなきゃ!お稲荷様のお供え物を食べたことが村人たちにばれたら厄介だよ」
さきの言葉に、輪郭がボヤけ気味になっていた喜久蔵も輪郭を取り戻してシャキッと立ち上がった。と思ったら、ブヨブヨからふわふわに変わり、ふわふわからひゅっと狐の石像になった。
この瞬間、狐の像が三体に増えたのだ。しかも、喜久蔵が狐の像になったのは、祠の真ん前だった。大きさも、本物が子狐程度の大きさなのに、大人の狐より二、三回りも大きい。
「お、お父つぁん、なんで狐の像に?」
さきは呆然と訊ねた。これまで喜久蔵が姿を真似てきたのは、人や犬、猫というように、生き物ばかりだったから、まさか石像になるとは思っていなかった。
すると、叫び声が聞こえた。
「き、狐の像が増えとる!」
「なにバカ言っ……うわぁっ!」
さきはそっと本物の狐の像の陰から、畑道を窺った。村人らしい二人が全速力で駆けて行く後ろ姿が見えた。
「お父つぁん、狐の像になったのは、あの二人が近づいてきてたから?」
よく気がついたなと感心しながら、さきが尋ねると、
〈いや、この狐の像は神様だっていうから、熊を追っ払うのに良いかなと……〉
「熊?!」
さきは驚いて後ろを、稲荷の祠の後ろの森を見た。先ほどのような目は見えず、熊のような大きな生き物の気配は感じられなかった。
「熊も狸もいないよ」
さきの言葉に喜久蔵の化けた狐の石像が首を横に振った。
さきはその異様さに、思わず「ゲッ」と声が出た。
〈この姿を見た途端、森の奥へ逃げた。さすが、お稲荷様だなぁ〉
「狐はお稲荷様のお使い。お稲荷様じゃないよ。それに……」
さきは見原村で物知りのとき婆さんに聞いた受け売りを言ったところで言葉を切ったが、心の中ではこう続けていた。
――人が突然狐の石の像になったら、人だけじゃなく、熊だって、狼だって驚くんじゃ……
それよりも言わないといけない大事なことがある。
「熊は逃げたなら、早くお父つぁんの姿に戻って!石の像は動かないんだから!」
〈え?そうなのかい?〉
驚きの返事をして、狐の石像はブヨブヨからふわふわになり、ひゅっと喜久蔵の姿に戻った。
「お父つぁん、石の像が動くと思ってたの?」
「そんな話、見原村のおとき婆さんが言ってなかったか?石のお地蔵さんが歩いたとか……」
「あれは、お話!ほんとのことじゃない!まさか、ほんとのことだと思ってたなんて……」
さきは膝から力が抜けそうになるのをなんとかこらえて返した。
「おとき婆さん、この世のことを色々よく知ってたから、てっきり、たまには動くこともあるのかと……」
喜久蔵は真顔で驚いている。
さきは色々言いたいことが頭を駆け巡ったが、この世に今のお父つぁんが現れてから五年くらいしかたっていないのだ、五歳の子どものようなものなのだと、自身に言い聞かせた。
「二度と石像にならないで!約束よ!さ、早くここから出よう!」
二人が稲荷の祠を出てしばらくの後、喜久蔵が言った。
「祟りとかがあるってのも、ほんとのことじゃないのかい?」
そのテの話は終わったつもりでいたさきは、かなり面食らった。もちろん作り話だと言おうとしたら、落ち着いた女の声が聞こえた。
「旅のお方ですか?」
父娘が振り向くと、面長でつり目気味の若い女が笠を被り、篭を背負って立っていた。その後ろには、やはり面長でつり目気味の、さきより少し年上に見える少年がいた。顔立ちが似ているから二人は姉弟だと、さきは思った。
そして、さきの目には弟が細面の美少年に見えた。顔が火照るのを感じた。
しかし、さきの芽生えた恋心からの照れは、喜久蔵の声で吹っ飛んだ。
「うわっ!お稲荷様のた……」
喜久蔵の口をさきは手を伸ばしてあわててふさいだ。
さきも女の顔を見た瞬間はぎょっとしたが、この時代の人間としては、合理的、現実的な性質だったから、すぐに神様の祟りだのなんだのという考えは頭から飛ばした。
「あ、あの、お稲荷様のお供え物……二日もまともに食べてなかったものだから、我慢できず食べてしまいました。ごめんなさい!」
素直に謝り、ペコリと頭を下げた。
ふふふと笑い声が聞こえた。顔を上げると、女は穏やかな笑顔を見せていた。
「この村の人達に冷たくあしらわれたようですね。よかったら、うちへいらしてください。粟飯でよければ、お腹いっぱい食べることができますよ」
「ありがとうございます!助かります!お礼は必ずします!」
さきが叫ぶように言い、喜久蔵とさきは同時に頭を下げていた。
喜久蔵が名を尋ねると、女は「わたしはきね」、少年を指して「この子は橘五郎です」と答えた。谷岩村の端の方に住んでいるという。
姉弟の家に向かう道中、さきは喜久蔵ときねを先に歩かせて、橘五郎と並んで歩き、顔を火照らせたまま、谷岩村について訊ねた。
「谷岩は元々閉鎖的なところがあるにはあったけれど、前は旅人に親切な人もいたんです。でも、今では一致団結して外から来る人を拒んでいて……」
橘五郎は小声で答えた。
「何か、良くないことがあったんですか?」
「まぁ、よくあることといえば、よくあることが色々と……」
橘五郎は言葉を濁して、それ以上言わなかった。
喜久蔵ときねはというと、聞こえてきた言葉の端々からは、天気の話をしていた。
昨夜までさきと喜久蔵は三日連続で野宿だったのだが、ふわふわの布団状に姿を変えた喜久蔵が昨夜に
〈明日の夜は大雨に大風が吹くから、野宿するわけにいかないなぁ〉
と、くぐもった声を響かせたのだ。
村にたどり着き、これで野宿せずにすむと喜んだところが、冷たくあしらわれたから、先ほどまでの二人の落胆は大きかった。
――よかった。野宿にならなくて。しかも、こんなきれいな男の子もいて……
さきは橘五郎と並んで歩いているうちに疲れの半分が消えた気がしていた。
きねの「今年も不作になるのかしら」という悲しげな声が聞こえた時、道の先に傾きかけた平屋が見えてきた。
平屋では髪がすっかり白くなった女が上がり框に腰掛け、縄を編んでいた。小柄でよく日に焼けていて、娘の年齢からして、それほど年を取っているとは思えなかったが、若い頃からの過酷な農作業のためか、背中から腰が大きく湾曲している。
「母のかつです」
きねが女をさきと喜久蔵に紹介した。
かつの顔立ちは、親子らしく、きね、橘五郎とよく似ていた。つまり、狐を連想させる面長でつり目気味だ。きねたちが連れてきた見知らぬ父娘にかつは全く驚かず、
「二日もまともに食べてないんですって」というきねの言葉に、「それは辛かったでしょう」と、優しい笑顔を浮かべて言った。
「お稲荷様にお供え物がしてあったということは、あっしらには冷たくても、谷岩村の人たちは信心深いんでやしょうね」
細かいことは気にしない喜久蔵の言葉に、母子は困った顔つきになった。
「あのお供え物は、あたし達です。他の村人はなにもしてません」
きねが寂しそうな顔で言った。
「おかつさん一家だけがお供え物をしてるんですか?……というのは、おかつさん一家が祠を作ったから?」
喜久蔵は好奇心丸出しだ。
かつは弱々しくかぶりを振った。
「あのお稲荷様の祠は、谷岩村で建てたものです。先の庄屋様が勧請なさって……」
それからかつがボソボソと語ったのは、次のような話だった。
かつは夫の定吉、子供と一緒に六年前に海辺の村からこの山間の谷岩村へとやって来た。遠戚の一家が死に絶えた跡を継ぐためだ。
思わぬ事件は越してきて半年ほどたった秋の初めに起こった。
定吉が森で狼と間違えて雌狐を矢で射貫いてしまったのだ。しかも、その雌狐には三匹の子狐がいた。
村に稲荷を勧請したのは先代の庄屋だったから、谷岩村では狐を殺すことが禁じられており、定吉一家は母狐の供養に子狐への餌やりに加え、罰金まで村人から課された。
新参者の定吉一家は余計なことは言わず、村から課せられた仕事を粛々とこなした。
そんな定吉一家の真面目な姿に村人の怒りやひが目も収まるかに思えた。
ところが、その翌年、不運にも雨が少なく、村全体の畑の実りは前年の半分以下という不作になってしまった。
すると誰が言い出したのか、不作は定吉が母狐を殺したからだという話が村中に広まり、一家は村から孤立した。皮肉にも、定吉一家の畑だけは半分ほどの収穫があったので、妬みもあっただろう。
それまで輪番だったお稲荷様への供物を前年の秋以降は定吉一家だけで行っていたのだから、定吉一家はお稲荷様の御加護を受けたのだ、定吉一家だけに任せていたのがいけなかったのだ……と、自分たちの非を認めるような解釈をする村人は一人もおらず、定吉一家はさらに孤立無援になった。
稲荷の供物も続け、畑の収穫の八割を村に差し出し、定吉一家は働いても働いても、極貧の暮らしが続き、定吉はとうとう身体を壊して二年前に亡くなった。
かつもすっかり白髪になり、腰が曲がった。
他の村へ移ることも考えないではなかったが、定吉一家の畑は不作の年にも他の畑より収穫量があったし、移る先を探すのも大変である。
そのうち周りの考え方や見方が変わることを期待し、定吉一家は谷岩村の外れに住み続けているという。
「今年こそは豊作であってくれと願っていたんだけど……あの嫌な空の色のとおり、やっぱり大風が近づいてるんだねぇ」
西に向いた戸口から外を見遣り、そう呟いたかつの顔にも声音にも、諦めが感じられた。
大風は夜中過ぎから吹き荒れた。
さきはゴオーッという風の唸りと平屋がガタガタキシキシと音を立てるのに恐怖を感じ、喜久蔵に抱きついて大風が過ぎるのを待った。少し傾いている平屋がさらに傾いていく気がして、気が気ではなかった。
隣の部屋でも母子が抱き合って大風が過ぎるのを待っている風だったのだが、微かにブツブツ何かを言い続ける声が聞こえていたのは、かつが唱えるお経だったろうか。
さきはそんなびくびくした気持ちでいながら、何度か傍に入るのが喜久蔵ではなく橘五郎だったら……と、思っていた。
夜食を食べるときには橘五郎の真向かいに座ったのだが、顔を見たいのに照れくさくて俯いて食べたのを、このときになって後悔した。明日の朝の食事時には、しっかり顔を見よう。そんなことまで考えたりした。気を紛らすためでもあったが、喜久蔵にバレたら、呆れて放り出されるかしらと思ったりもした。
日が東の山頂に顔を見せた頃、辺りが静かになった。
外へ出たら、見事に平屋も周囲も荒れ果てた姿になっていた。
母子は朝食を軽く食べ、すぐに家と周りの片付けから畑の確認をし、喜久蔵とさきも一家を手伝った。
定吉一家の畑は、森が大風を防いだらしく、この年も半分以上収穫できそうな状態で、母子は心底安堵していた。
その様子にさきと喜久蔵も安堵した。
五人が平屋に戻ると、家の前に五、六人の人だかりがあった。遠くからでもその険しい雰囲気がさきに伝わってきた。
「あの人たちは……」
さきの思わず出た言葉にきねが答えた。
「谷岩村の中心にいる人たちです」
集まっていたのは、数えたら六人で、一斉にさきたちを見た。不満と怒りに満ちた顔だった。
さきは足が止まりそうになったが、かつもきねも、喜久蔵も足取りを変えなかったから、遅れまいと必死に足を動かした。
さきの隣を歩く橘五郎も、顔色は青ざめていたが、歩みに迷いは全くなかった。
三間ほどの距離に近づいた時、人だかりの中から、小柄で恰幅の良い中年の男が出てきた。
他の五人と違い、その男は少し申し訳なさそうな顔つきだった。その顔つきで言った。
「悪いが、あんた達にはこの村を出ていってもらいたいんだ」
さきは呆気にとられたが、かつときねの顔つきは落ち着いていた。
「庄屋の弥右衛門さんです」
橘五郎がさきの耳元に人物の名を囁いた。
「あんたら一家が来てから、この村は不作続きだ。母狐を誤って殺したことに始まり、あんたら一家は何かしら悪いものを背負ってるか、この土地との相性が悪いか、いずれにしても、ここから去ることがこの悪い流れを変えることになるに違いない」
「何を根拠に、そんなことを言ってるんです?」
喜久蔵の声だ。
「こんきょ?」
「定吉さん一家がこの村へ来てから不作続きだって仰いやしたが、不作が始まったのはその翌年からで、その不作続きはこの村だけじゃねぇですよ。なのに、おかつさん達のせいにするのは間違ってる。そんなことをしてもこの村の問題は解決しない」
堂々と言い切った喜久蔵に、かつ一家を追い出したい六人だけでなく、かつときねも驚いていたが、さきも驚いた。
「まだこの村にいたとはな……おかつ達のせいじゃないってんなら、あんたと娘のせいかもしれねぇな。余所者の口出しは無用だ。とっとと出ていってくれ!」
弥右衛門の後ろから声がした。
腹が立つあまり、さきは口がきけなかった。
――なんなの!この人たち!
「おいら達にそんな力があるなら、こんな村へ来るもんかね。腹を空かせて倒れそうになったりしない」
さきが一段と驚いたことに、そう言った喜久蔵は笑っていた。
「おかつの畑だけ今度も半分助かってるじゃねぇか。おかしいだろう!」
さっきとは別の村人が苛立った声を出した。
喜久蔵は笑いを消した。
「あ~、おかつさんの畑を取り上げるための追い出しですかい?けど、あんた達が今やってるやり方をあの畑でやったら、地形の利だけじゃ、もたねぇんじゃねぇかな」
「なんでだ?」
弥右衛門のすぐ後ろにいた、元からいかつい顔をした村人が、さらに顔をいかつくし、弥右衛門より前へ出てきて喜久蔵につめよった。
「おかつさん達の畑は他の谷岩村の畑とは土が違うけども、それはおかつさん達のやり方が良いからだ」
「地形はわかるが、土も違うと?」
真顔で弥右衛門が喜久蔵に問いただした。
「おかつさん達は、地道な土作りをしてるが、皆さんのところは違うだろ?土の臭いが違う」
さきは大人達を見回した。皆、ぽかんとした顔つきだ。
「おかつさん一家以外は、肥やしを外から買ってなさるでしょう?けど、おかつさんは自前の、この土地に合った肥やしで、地道に土を作ってる。豊作にはならねぇが、極端な不作にもならねぇ」
かつ一家追い出し隊は、喜久蔵の言葉を聞いている間にぽかんとした顔つきから、苦々しい顔つきになってきた。
喜久蔵はその様子に少し考える風を見せた。それから、「そうだ」と手を叩いた。
「狐にこだわるんなら、お稲荷様に聞いてみたらどうです?」
かくして、一行はぞろぞろと、かつの家から稲荷の祠へと移動した。
こんな時にもかつは、お供え物を用意する時間をもらい、大事そうに粟飯を胸元に抱えて歩いていたものだから、さきはその姿を胸苦しくなるほど、切なく感じた。そして、稲荷の祠へ誘った喜久蔵の狙いがわかるだけに、ひたすらうまく行くことを祈った。
さて、祠に着いてみたら、森に守られたようで、稲荷の祠に大きな乱れはなかった。
かつはいつものように森の中を流れる、日頃より水量が増えたせせらぎで注意深く器に水を掬い、粟飯と祠の前に並べて手を合わせ、呟いた。
「大風のせいで、今日はこれだけで勘弁してくだせぇ」
きねと橘五郎もかつの後ろで手を合わせた。
さきと喜久蔵はちょうど、かつ一家とかつ一家追い出し隊の間に立っていたから、かつ一家からかつ一家追い出し隊の男達を見たら、六人は突っ立ったまま、そんな三人を見ていた。
「あんた達は祈らないんですかい?」
喜久蔵の言葉にはっとした弥右衛門は、後ろに突っ立っている村人に指示し、しぶしぶという様子でかつ一家追い出し隊の六人も揃って目を瞑り手を合わせた。
その瞬間を待っていたように、喜久蔵はブヨブヨからふわふわに変わり、ひゅっと祠の中へと吸い込まれるように入った。
さきは顔がニヤつくのを堪えるのに苦労した。
――祠の影からあのくぐもった声を聞かせたら、きっとみんな、お稲荷様の声だと……
しかし、さきの思考はそこで止まった。
――な、なんで……
不思議な気配を感じたのか、お祈りを済ませたからか、かつ一家の三人は手を下ろし顔を上げたが、その目が大きく見開かれた。
祠の斜め後ろに大きな狐の像が現れていたからだ。祠より一回り小さいだけで、大人よりも大きい。
しかも、その大きな石像が歩き始めた。
弥右衛門達、かつ一家追い出し隊も、皆、謎の気配を感じてか、いつの間にか目を開けていたが、やはり目を見開いて口を開けた呆けた顔つきのまま、誰も動こうとしない。
やっと一人が震える声で呟いた。
「ちょ、長太郎と六助が言ってたのは、このこと?」
その間に狐の石像はドスンドスンと稲荷の祠の横を歩いて通って前へ出てきた。
――石の像は動かないって、言ったのに!二度と石の像にならないって、約束したのに!どうしたら、石があんな風に動くのよ!
石の質感なのに、交互に脚を曲げて前へ出しているのが、さきにはどうにも気持ち悪い。
狐の石像は立ち止まると、
〈いつもありがとう〉
と、わずかに首を下げてかつ達に声をかけた。それから首を上げ、睥睨するように右から左へと鼻の向きを変えた。
〈お主らは考え違いをしておる。おかつ一家の畑の不作具合が少ないのは、おかつ一家がこの稲荷の世話を一手に引き受けておるからだ〉
――え?そんなこと、言いきっていいの?
さきは顔から血の気が引くのを感じた。
〈そのうえ、おかつ達はこの土地にあった土作りをしている。お主らがやらないといけないことは、おかつ達を追い出すことではない。おかつ達から学ぶことだ。第一、おかつ達をこの村から追い出したら、誰がこの祠の世話をしてくれるのだ?以前は……おかつ達のように世話してくれなかった〉
言いよどんだのは、確証がなかったからだろう。しかし喜久蔵は良いところをついたようで、弥右衛門達六人は黙り込んだ。
〈わしはおかつ一家を愛でておる。悔しければ、お主らもおかつ達のように、この祠を大切にして、己が畑の土の声に耳を傾けるのだ〉
言いたいことを言い終えたらしく、石像は前を向いたまま、後ろへ下がり始めた。器用といえば、器用である。さきは呆然と後ろ歩きする石像を見送った。
石像の姿が祠の後ろに見えなくなると、かつ達三人はまた手を合わせる祈りの姿勢を取り、弥右衛門達もかつ達に釣られたように再び目を瞑り、手を合わせた。
その流れを読んでいたのかどうか、さき以外が目を瞑っている間に喜久蔵はひゅっと祠の方向から飛んできて、ふわふわからブヨブヨを素早く経て、さきの隣で「喜久蔵」の姿になった。
手を下ろし、目を開けてからも、さきと喜久蔵以外は、しばらく呆然と稲荷の祠を見つめていた。……いや、橘五郎は呆然としていなかった。辺りを見回し、さきと喜久蔵を見つけると、ニッコリ笑った。
さきは橘五郎の笑顔に心の臓が踊った。自分に笑顔を見せたと思ったのだ。
「これでおかつさん達は大丈夫だ。これからは大事にされる。さぁ、行こう」
喜久蔵の言葉に、さきは驚いてその顔を見上げた。
喜久蔵は橘五郎に別れの挨拶のように軽く手を振っていた。
「もう行くの?もう一晩、おかつさん家にお世話になろうよ。本当にあの弥右衛門さん達がおかつさん達を追い出したりしないか、確かめた方がいいんじゃない?」
さきの早口での捲し立てに、喜久蔵はやさしくさきの頭を撫でてから、その背中を押した。
「おいら達がここに長くいたら、あの人達に迷惑をかける。それに……」
「それに?」
喜久蔵はさきの顔から稲荷の祠を見た。
「おかつさんには、お稲荷様がついてるしな」
「え?」
喜久蔵に背を押され、さきはしぶしぶ歩き始めた。畑道へ出たところで名残惜しくて、また橘五郎を見た。
橘五郎はただ一人、さきと喜久蔵を見送っていた。さきの振り向きに、先ほど喜久蔵がしたように、笑顔で右手を上げて左右に振った。
さきはもう少し橘五郎の傍にいたいと、喜久蔵に言えなかった。自分たちが長くいると谷岩村の人たちに迷惑がかかるというのは、喜久蔵の国の追手が近づいているからかもしれないのだ。
それそれとして、さきは稲荷の祠が見えなくなった途端、言わずにいられなかった。
「どうして狐の石の像になったの?石の像は動かないから、二度と真似しないって約束したのに!」
「驚かすにはちょうど良いと思ったんだ。声だけってのは、かえって怪しまれるんじゃねぇかと。それにしても、お稲荷様の振りは気持ちよかったなぁ~」
「そんなこと言って、お稲荷様の罰が当っても知らないから!祟りがあるかも……」
前日までは祟りを信じていたらしいのに、喜久蔵は神様の真似事で気が大きくなったのか、さきの言葉に怖じ気づくことはもちろん、気にした風すら見せなかった。
そのまま黙々と歩き続けた二人だったが、谷岩村から離れて一山越えた頃、さきは思いきって喜久蔵に言った。
「ねぇ、お父つぁん、ほんの少しの間でいいから、橘五郎さんの姿になってよ」
喜久蔵は目を丸くした。黒目がちの目に変わりかけたから、かなりの驚きだったらしい。
「橘五郎の姿に?本気かい?」
「そう。少しの間だけ。できるんでしょ?丸一日一緒にいたんだもの」
「そりゃ、できるけど……」
言葉を濁して、しばらくさきの顔を見つめた喜久蔵は、やがて軽く首肯した。
「少しの間だけだぞ」
喜久蔵の輪郭がボヤけてブヨブヨの質感に変わり、そこからふわふわの質感に変わった。
――次にブヨブヨに戻ると、その後には……
期待に胸膨らませていたさきは、ブヨブヨから輪郭が見えてきた時、唖然呆然とした。
「お父つぁん!その格好は狐じゃない!」
さきの全く期待外れだったことに、ブヨブヨから現れたのは、石像ではない、黄褐色の毛に包まれた狐だったのだ。
〈そりゃ、そうさ。橘五郎は狐だったんだから。きっとおかつさん達が育てた子狐の一匹だよ。狐はお稲荷様の使いなんだろ?……てことは、橘五郎があの家にいる限り、おかつさんとおきねさんは大丈夫ってことだ……あれ?そんなに驚くたぁ、おさきには何に見えてたんだ?〉
この時になって、きねに声をかけられて振り向いた時に、喜久蔵が祟りだと言いかけた本当の理由をさきは知った。喜久蔵には、きねの後ろに狐が見えたからだ。
橘五郎が人に見えていたのは、自分だけではないとさきは思ったが、口に出すことができなかった。この「お父つぁん」の目には、自分たち、人とは違うものが見えているのだと痛感した。
あっけなく終わった、さきの初恋だった。




