穴加辺村化け猫騒動
注: 怪談ではありません。
旅籠に茶トラの雄猫がいたのでちょうど良いと、その姿を真似て喜久蔵はさきが旅籠の湯に入っている間に周囲を見回った。
怪しいヤツも気配も感じられなかった。
――気のせいだったか?
喜久蔵は五年間住んだ山小屋から穴加辺村へ向かう途中に時々つけられている気がしたのだ。相手はあの国の連中ではない。この世界の人間だ。ということは、狙いはこの世の人間だった喜久蔵かさき、或いはその両方だ。
気のせいでなければ、相手は相当厄介な人物である。
――おいらの感覚を逃れることができるとなると、噂にきく忍びの者か?
喜久蔵は忍びの者に出会ったことがない。噂話を何度か耳にしたが、簡単に塀を飛び越えるだの、煙で姿をくらますなど、話が大袈裟になっているとしか思えなかった。
――あの国の連中じゃあるまいし。
喜久蔵たちが、この世でやってることは、姿を消すわけではなく、姿を変えるのだが、この世の人々には消えると見えることもあるだろう。
旅籠の部屋に戻り、猫の姿から喜久蔵の姿に戻ってまもなく、パタパタと軽い足音が近づいてきた。さきが戻ってきたのだ。
「きれいなお風呂だったよ。造り直してまだ三月なんだって。お父つぁんも入ってきたら?」
「気を抜くわけにいかねぇから、難しいよ……」
「あ~、そうだね……でも泊まり客少そうだし、誰も入らないように見張っててあげようか?」
喜久蔵は、冷静にさきが湯殿の入り口に陣取る姿を思い浮かべて、かぶりを振った。
「いや、いい……」
そのうえ、喜久蔵は、さきの側を離れない方が良い気がしていた。
夜食が部屋に運ばれ、腹一杯食べたさきはすぐに眠りに落ちた。
高い追加料金を取られると知って酒を夜食に頼めなかった喜久蔵は、こっそり旅籠を抜け出して買いに行きたい衝動にかられたが、さきの側を離れてはいけないと、そんな衝動をなんとか押さえつけた。
――山小屋からつけてきたヤツの狙いが本物の喜久蔵とおさきだったら、厄介だからな……
さきの寝顔を見ながら、喜久蔵は久しぶりに姿を借りている本物の喜久蔵を思い返した。
振り返る度に思うのは、本物の喜久蔵は身分を隠していたらしいということだ。喜久蔵という名もおそらく本当の名ではない。しかし、さきは父親の名前を「喜久蔵」としか覚えていない。
後の偽の喜久蔵が本物の喜久蔵と出会ったのは、偽の喜久蔵が犬の姿で山道を歩いていた時だった。犬として気楽に山道を歩いていたら、道の先に幼女を背負って歩いている男が見えてきた。なんとなく後をつけていくと、途中で背負われていた幼女が後ろにいる犬に気づいた。
幼女に教えられて振り向いた本物の喜久蔵は、穏やかな顔で
「おまえに食わせる物はないよ。ついてきても無駄だ」
と言ってまた山道を歩きだした。
なぜ二人についていこうと思ったのか、後の偽の喜久蔵は、その時もよくわからなかったが、後から振り返ってもよくわからない。背負われていた幼女がなんとなく気になったとしかいえない。
犬の姿の後の偽の喜久蔵は、少し間をあけて父娘らしい二人の後についていった。
事件が起こったのは、その翌日だった。
本物の喜久蔵が賊に襲われたのだ。一瞬のことだった。
後の偽の喜久蔵は、まだこの世界に慣れておらず、手を出して良いものかわからなかった。
少し離れた場所に立ち止まって様子を見ていると、賊の一人が、本物の喜久蔵を別の名で呼んだ。聞き取れなかったが、その名で呼ばれた喜久蔵は否定しなかった。
本物の喜久蔵が持っていたのは脇差で、賊の一人が手にしていたのは刀だった。
本物の喜久蔵は幼女を背中からおろし、叢に隠れるよう言った。幼女は素直に叢に隠れた。
そこからはあっという間の出来事だった。
あっけなく本物の喜久蔵は斬られ、賊はその持ち物や懐を探った。
次に賊は幼女を探した。
この時、後の偽の喜久蔵は、とっさに幼女を庇った。犬の姿のまま巨大化し、幼女を捕まえようとする賊の前に立ちはだかったのだ。
賊は突然現れた巨大な犬に全員が目を見開き、唖然呆然とし、我に返った者から一目散に逃げ出した。
労せずしてことを成し遂げた後の偽の喜久蔵は、幼女も巨大化した犬を怖がっているかもしれないと、恐る恐る振り向いた。
そこには確かに巨大化した犬を見つめる、驚いている目があった。しかし、その目に恐れはなかった。
後の偽の喜久蔵はほっとした。
しかも、幼女は次の瞬間、巨大化した犬に抱きついてきたのだ。抱きついて泣き出した。
犬の姿の後の偽の喜久蔵は、元の大きさ近くに戻して幼女に寄り添った。
幼女はしばらく犬の首にすがり付いて泣き続けた。
後の偽の喜久蔵は、幼女が落ち着いてきた頃に、恐る恐る話しかけた。
〈あの人は親父さんかい?〉
幼女はどこからともなく聞こえる声にまた驚いた目をしたが、やはり怖がることも気味悪がることもなく、答えた。
「あたしのお父つぁん。喜久蔵っていうの。あたし、ひとりぼっちになっちゃった……」
またおいおいと泣き始めた。
後の偽の喜久蔵はどうやって幼女を慰めていいか、わからなかった。わからなくて、ついやったことが、喜久蔵の姿になることだった。
犬の輪郭がおかしくなり、白いブヨブヨしたモノに変わった時には、さすがに後ろへ下がった幼女だったが、次の瞬間、目の前に現れた父親の姿に笑顔が浮かんだ。
「お父つぁん!」
本物の喜久蔵は近くで骸になっているのに、幼女はそちらには一切目を向けず、偽の喜久蔵に抱きついた。
幼女の心の防御だったのだと、偽の喜久蔵は後に悟る。
ともかくも、「お父つぁん」と叫んで幼女に抱きつかれた時に偽の喜久蔵の覚悟は決まった。喜久蔵としてこの世界を生きようと。あの国に戻ることは、おそらく出来ないのだから。
幼女は名をさきだと言った。
「お父つぁんはおさきって呼んでた」
ちゃんと目の前の喜久蔵が偽であることはわかっているのに、驚かない不思議な子だった。そんなこんなをひっくるめて、偽の喜久蔵は、
――これは、幸運な展開ではないか?
と、思った。
そうやって、わりとあっさり、幼女との暮らしが始まった。
賊は本物の喜久蔵が懐に入れていた財布には見向きもしなかったから、その財布の中身で二人は見原村の近くに落ち着くまで、半年近く旅をした。途中で金がなくなった時には、その土地の悪党らしい連中から、いくらか失敬した。
気を抜くと白いブヨブヨやふわふわの不定形になってしまうことは、すぐにさきの知るところとなったが、「気を抜かないでよ!」がさきの口癖になっただけだ。
酒が米の飯より力になることは、二人で暮らし始めて三月ほど経った頃にわかり、さきの口癖に「お酒は人前で飲んじゃダメ!」が加わった。
そんな出会いからこれまでを振り返って喜久蔵は思った。
――やっぱり酒を買いに行こう。
旅籠で酒屋がまだ開いていることを確かめ、喜久蔵はうきうきと穴加辺村の目抜き通りを歩いていった。
穴加辺村はこの辺りでは見原村と並ぶ大きな村で、目抜き通りには旅籠、古着屋に酒屋兼小間物屋といった見世が並んでいる。月に二度、市も開かれている。酒屋兼小間物屋は旅籠から三十間離れているだけだった。
酒屋兼小間物屋に入ると、喜久蔵の目は酒樽に釘付けになった。
店の主が「いらっしゃい」と愛想よく喜久蔵の前に現れ、喜久蔵は思わず掌を開いて見せてから、あわてて指を二本、折り曲げた。
喜久蔵は三合徳利(540ml強が入る陶器製の容器)をしっかり胸元にかかえて店の外へ出た。とたんに、驚いている目と目があった。
喜久蔵は相手の顔に覚えがなかったが、相手は大有りらしい。
驚いている眼を見せている相手は、喜久蔵と年齢は同じくらいの小柄な男だった。
―……ということは……おいら達の後をつけてたヤツ?
喜久蔵は素知らぬ振りをすることにした。自身には覚えがないのだから、当然といえば、当然である。
「こんばんは。良い月夜ですなぁ」
軽い挨拶をして喜久蔵は男の横をすり抜けて道を歩き始めた。視線が背中に張り付いている。
右手に路地口が見えた。
喜久蔵は深く考えず、その路地口に入った。入るとすぐに白いブヨブヨになり、そこから旅籠にいた猫の姿に変わった。ただし、十倍近い大きさで。
どうしてそんなことをしたかというと、三合徳利を咥えられる大きさを考えたからだ。この時に偽の喜久蔵の頭を占めていたのは、追手を巻いて絶対に酒を飲むことだった。
だが、裏路地は微妙に曲がりくねっていて、そのまま進んでは違うところへ行ってしまいそうになった。
というわけで、三合徳利を咥えた巨大な猫が路地から穴加辺村の目抜き通りに出ることになった。
――あ、こっちだ!
方向を確かめると、三合徳利を咥えた巨大な猫は、旅籠へ向かって駆けだした。
当然、目抜き通りは悲鳴と雄叫びの渦である。
「ば、化け猫だ~!」
「なんか咥えてたぞ!」
「ひ、ひょっとして、こ、子どもじゃねぇのか?」
「いなくなったガキがいるか?」
通りには人が少かったが、通りからの悲鳴や叫び声に、家の中にいた人々も外を覗く。そうして目の前を駆け抜けた巨大な猫に唖然呆然。つぎには悲鳴をあげる。
巨大猫の後ろ姿を見た人は、わが目を疑い、次に悲鳴をあげる。
穴加辺村の目抜き通りは大騒ぎである。
酒屋兼小間物屋の店先で偽の喜久蔵を認めた男は、喜久蔵のすぐ後から路地に入ったのに、喜久蔵の姿は見あたらず、化け猫の後ろ姿だけ拝んで、首を傾げていた。喜久蔵の姿を探してあちこち走りまわったが、どこにも見当たらないことに、悔しげな表情になった。
周囲の化け猫騒ぎには、
――確かにちょっと大きかったが、落ち着いて見たら、その辺の猫より少し大きいだけだろう。
と、騒ぐ人々を内心では嘲笑っていた。
さきは外の騒動に旅籠の窓を開けて目抜き通りを見た。
いきなり目に入ったのは、徳利を咥えて走ってくる茶トラ猫だ。しかし、猫にしては、大きさがおかしい。
「ま、まさか……」
猫はしっかり徳利を咥えたまま、旅籠の手前の路地に入った。
数人の命知らずか、怖いもの見たさの男達が巨大猫を追いかけて路地に入った。
さきは思わず手を合わせて祈っていた。
「お父つぁん、無事にここへ戻ってきて……」
ガラリと部屋の障子が開いた。
さきは期待して後ろを向いた。
そこにいたのは、徳利を咥えた巨大な茶トラ猫だった。
〈いや~、思わぬことになっちまって……〉
「なんで猫なのよ!」
さきはずっこけそうになるのをなんとか堪え、掛け布団の端を両手に掴んで言った。
「早く布団に隠れて、お父つぁんになって!」
巨大猫が徳利を咥えたまま敷き蒲団に丸くなって転がり、さきはその上に掛け布団を被せた。
ぶるぶるっと布団が震えたと同時に廊下を走り、階段を駆け上がる足音が聞こえた。
「おめぇはあっちを見ろ。俺はこっちを見る!」
先ほど巨大猫を追いかけていた男達に違いない。
「あの、お客さん達、もう休んでるんで、お静かに願います……」
旅籠の女中の声だ。
障子を開け閉めしている音と足音が響いた。
さき達が泊まっているのは、奥から二つめの部屋だ。まもなく中の様子を調べにやってくる。
さきは急いで布団に入った。
ついにさきと喜久蔵のいる部屋の前に男がやって来た。
「休んでるところをすまねぇが、ちょいと中を見せてもらうよ」
そう言うなり腰高障子が開いた。
廊下側に寝ているのは喜久蔵だ。
さきは今まで寝ていたように、目を擦りながら上半身を起こし、うう~んと唸る声を出して喜久蔵も布団から頭を出した。
行灯が薄暗く部屋を照らしているから、部屋を覗いた男にも父娘の姿が見えたはずだ。部屋には二人と布団二組、行灯一つに屏風一枚しかないことは明白である。だが、男は念には念を入れて、壁際に置いてある屏風の裏を覗いた。もちろん何もない。
首を傾げながら、男は廊下の連れに言った。
「そっちはどうだい?」
「あんなでかいのがこの辺をうろついてみつからねぇわけがねぇ」
さきも思っていた。どうやってあの化け猫の姿でここまであがってきたのだろうかと。
化け猫退治をするつもりらしい男達が部屋の前から去った後も、さきと喜久蔵はしばらく布団の中にいた。
やがて声も足音も遠退いた。
やれやれと、二人は掛布団をめくった。
喜久蔵は手を添えて三合徳利をあぐらをかいた脚の間に置いていた。さっそく徳利の栓を抜こうとした。
「待った!」
さきが止めた。聞き耳をたてている。
「下でここの猫がどうのこうのって言ってる……」
きっと喜久蔵に向いた。
「さっきの姿は、ここの猫を真似たんだね?」
喜久蔵はさきの剣幕に驚いた顔でコクリと頷いた。
「まずいよ!あの猫が化け猫にされちゃう!」
「化け猫にされるとどうなるんだ?」
「殺されるよ、きっと!お父つぁん、なんとかしなきゃ!」
なんとかしなきゃと言われても、喜久蔵にはとっさにどうすればいいのか浮かばなかった。素直にさきに尋ねた。
「どうすりゃいいんだ?」
さきにも考えがあったわけではないらしく、すぐには答えず、考え込んだ。
「あの猫とさっきの巨大猫が別の猫だってわかればいいわけで……」
「……で?」
さきが何かを思いついた顔になった。
「お父つぁん、もう一度、あの化け猫になって屋根の上を逃げるのよ!」
「ええーっ!捕まったらどうするんだ!」
「ブヨブヨのふわふわになったらいいじゃない。皆、びっくりして離れるよ」
「……あ、そうだな。今度は徳利を気にする必要がないから、それができるな……」
さきの顔つきは色々文句を言いたげだったが、グッと堪えて早口で言った。
「早くさっきの姿になってよ!あ、大きさは少しだけ小さめで……」
先ほどよりは少しばかり小さめの茶トラの巨大猫になり、喜久蔵はそっと廊下に出た。
猫らしく足音をたてずに階下へ降りていくと、居間に人が集まっている気配があった。
「この猫はずっとここにいましたよ!化け猫なんかじゃありませんて!」
旅籠の女将の声だ。
「けど、そいつとそっくりだし、ここらで消えたんだ。そいつに化け猫が憑いてるのかもしれねぇ」
「化け猫なんかいるわけないだろ。ちょっと大きめの猫だっただけじゃないのかい?」
旅籠の主兼穴加辺村の名主だ。どうやら旅籠の主夫婦は、巨大な徳利を咥えた猫を見なかったらしい。
「こんなに大勢が見間違えるもんか。あれは間違いなく大きな化け猫だった!しかも、口に何か咥えてたんだ……何かはわからんかったけど……」
巨大猫姿の喜久蔵は、居間の連中に己の姿を見せないといけないことはわかっていたが、どうやればいいのかわからず、しばらく居間の閉じた襖を前にたたずんだ。
喜久蔵がどうしたものか迷っている間に
「その猫をこっちに寄越せ!」
「嫌だよ!」
フーッという猫が威嚇する声まで聴こえた。
喜久蔵は心を決めた。
――ここはやはりこの世界らしく……
〈こんばんは~。お邪魔いたしやす〉
そういう声を聞かせながら、茶トラ大猫姿の喜久蔵は、猫の手の爪で襖を引っかけ、開けた。
襖の方を向いていた中で、即座にギャーッと叫んだのは、本物の茶トラ猫だけだった。全身総毛立って抱えられていた旅籠の女将の腕から飛び下り、襖とは反対側の障子を破って庭へ飛び出した。あっという間の逃走だ。
女将も主も、目は茶トラの巨大猫に釘づけで口を開け、固まっていた。
旅籠の主夫婦の視線に振り向いた二人の男も、目の前に現れた巨大な茶トラ猫に顎がはずれそうなくらい口をあけて固まった。
〈ご覧のとおり、あの猫はあっしとは関係ありやせん〉
四人は誰も動かない。
〈あっしはというと、なんにも悪いことはしてやせんよ〉
引き続き誰も動かない。
〈ですから、そーっとしておいていただきたいんで……〉
やっぱり誰も動かない。
〈そいじゃ、あっしはこれで……〉
茶トラ大化け猫姿の喜久蔵は再び爪で引っかけて襖を閉めた。
居間からはやはり何の物音もしない。
喜久蔵は巨大な茶トラ猫の姿のまま、階段を足音たてずに昇っていった。
階段の上から一度下を見たが、居間から誰かが出てきた様子はない。
〈ま、これで、あの猫は大丈夫だろう〉
二階の廊下の中ほどで、周囲に誰もいないことを確認した茶トラ巨大猫は、突如姿がボヤけてブヨブヨした白い物体になった。……と思ったら、次の瞬間には喜久蔵の姿になっていた。
「さ、これでゆっくり酒が飲めるぞ~」
喜久蔵は小躍り気味に奥から二つめの部屋へと歩いていった。
しかし、大変不幸なことに、その一部始終を見てしまったものがいた。旅籠に飼われている本物の茶トラ猫だ。居間から跳びだし、お気に入りの二階の廊下の一番奥に潜んでいたら、見えてしまった。
茶トラ猫はその日を境に旅籠から姿を消した。
さきと喜久蔵の心遣いにもかかわらず、穴加辺村に、旅籠にいた茶トラ猫が実は大化け猫だったという噂が根づいてしまたのは、無理からぬことである。




