山小屋の父娘
――いけねぇ……道に迷っちまった……
権八は焦り始めた。まもなく日が暮れるのに、そろそろ村が見えてきて良い頃なのに、家はもちろん、田畑も見えないのだ。
権八は、前にも行ったことがあるからと、道案内を断ったのを後悔した。だが、今さらどうしようもない。これから引き返しても、今朝出た村にたどり着くのは夜中をすぎる。
――この辺りは熊がいるから、野宿はしたくなかったのに……
ともかくも早足で山の頂上を目指した。頂上から見下ろせば、どこかに家が見えることを期待した。
もうすぐ頂上ではないかと思った頃だった。権八の視界の隅に小屋らしきものが入った。思わず期待してそちらへ顔を向けた。
確かに屋根の庇らしいものが木の間に見える。
権八の足は意識する前に庇の方へ向いて動いていた。
庇から小屋の全体が見えてきた。
この辺りによくある平屋だった。五間四方あるかないかの、おそらく中は土間と板の間が二部屋あるかどうかだ。
引戸は開いていて、近づくにつれ、中から物音が聞こえてきた。
権八は万が一を考えて、そっと戸口を覗いた。
一瞬、白い何かを框に見た気がした。思わず瞬きした。白っぽいものは見当たらない。
見えている動きそうなものは、土間で何かを叩いている十一、二才の女の子だけだった。
――まさか女の子の独り暮らし?……なことはないだろう。誰かがもうすぐ帰って来るに違いない。
そう思った権八は心を決めて戸口のど真ん中に立ち、女の子に呼び掛けた。
「こんにちは。あっしは権八という小間物の行商でございやす。すいやせんが、今晩ここに泊めてもらえないでやしょうか」
戸口へ振り向いた娘の顔には驚きと戸惑いが混ざっていた。なかなか可愛らしい顔をしていた。それから娘は框の方を向いた。
権八も娘に釣られて框の方を見た。すると障子が開いて、そこに大柄な男が現れた。がっちりした肩の上に見える日焼けした顔は穏やかだ。これまでに権八が見たことのある猟師は、熊や猪といった大型の獣と張り合うためか、皆、濃い髭面だったが、生やしているのは無精髭程度で、整った方の顔立ちをしていた。年は権八と同じくらいの三十半ばに見える。
――こんな猟師もいるのだな。
自分と同年齢のうえに、見た目から荒くれ者ではない様子に、権八は大いに安堵した。
「この先の見原村へ行きてぇんですが、道に迷っちまいやして……あいすみやせんが、一晩泊めてくだせぇ」
権八は腰低く、頭を深くさげて頼んだ。
「おさき、構わねえだろ?」
男は女の子に向いて言った。
権八が女の子の様子を窺うと、女の子は不満げな顔つきで頷いた。
「旦那のお嬢さん(娘)ですな?」
権八の問いかけに、男は照れたような笑みを見せた。
権八は男に戸口手前の部屋を使うよう言われた。囲炉裏のある部屋だ。
まもなくそこで、この辺りでは普通の粟飯と味噌汁の夕食を父娘と食べた。
父親の名は喜久蔵といい、娘の名はさきと紹介された。
権八は行商を生業としていることを話し、様子を窺いつつ、父娘の暮らしについて訊ねた。
近くに人家がないのだから、暮らしは何かと不自由なはずである。行商人の権八としては、次にこの辺りへ来る時に父娘に必要なものを持って来て売ることを考えていた。
金目のものはなさそうだが、小屋の中に兎の毛皮が吊るされていたから、父親は間違いなく猟をしている。毛皮は立派な商品だ。物々交換で良いのだ。
ここには五年前から暮らしている。その前も山で暮らしていたから、山での暮らしには慣れている。娘の母親は六年前に、娘が五歳の時に亡くなった。そんなことを権八は父親から聞き出した。
権八は、泊めてもらうお礼として、今後の付き合いも睨み、酒を喜久蔵に振る舞うことにした。
腰に濁り酒が入った大徳利を下げてきたのは、自分が飲むためもあったが、旅先での邂逅に役立つからだ。
「酒はお好きでやすか?」
酒が入った徳利を見せる前に、念のためと、喜久蔵に訊いてみた。権八の経験ではめったに酒嫌いはいないが、稀にいる。
喜久蔵は、酒と聞いた途端ににんまりと笑みを浮かべた。
しかし、喜久蔵が口を開く前に娘の声が響いた。
「ダメよ、お父つぁん!」
声に驚いて権八が娘を見ると、肩をいからせ、父親を睨みつけている。その剣幕に権八は怯んだ。
喜久蔵の顔つきからは、どう見ても酒好きだ。酒好きの中でも無類の酒好きではないかと、権八は思った。
――酒癖が悪いのかな……
「お礼になるような物は酒しか無いもんで……」
権八は娘と父親の顔を交互に見た。
「お酒は絶対にダメ!」と言った娘は父親を睨み付けたままで、父親の顔つきは叱られた子供のそれだった。
権八は喜久蔵が気の毒になった。
――ちょっとぐれぇなら、構わねぇだろう……
自身も女房に飲み過ぎをよく注意されるから、権八は喜久蔵に心から同情した。仲間意識が湧いた。酒好きが目の前にいるのに、一人で飲むのは味気ないし、喜久蔵に悪い。
娘は先に寝るだろうと予想した権八は、いったん酒は横に置いて、旅の話をしたり、この辺りのことを喜久蔵に訊いたりしながら、娘が囲炉裏の間から消えるのを待った。
ところが、なかなか娘が囲炉裏の間から動かない。権八と父親の会話を黙って聞いている。
だんだん権八は焦れてきた。
すると、父親が娘の頭に手をかざした。
「そろそろ眠たくなってきてるだろ」
途端に娘の目がとろんと眠そうな目になった。
しかし、娘は父親の言葉を否定するためか、眠気を払うためか、激しく首を横に振った。
「お酒はダメなんだから……」
そう言いながら、娘の目は閉じていき、ころりと横になった。
父親はそんな娘を優しく抱えあげ、隣の部屋へと連れていった。
権八は娘の眠りに落ちた流れに若干疑問が湧かないでもなかったが、さぁこれで父親と酒盛りできるぞと、内心ほくそ笑んだ。
父親もその気と見えて、隣の部屋から戻ってきたときの顔つきは嬉しそうだった。
「そいじゃ、飲みますか」
小声で権八は言った。
喜久蔵は満面の笑顔で大きめの湯飲みを二つ、権八の前に置いた。
権八は置かれた湯飲みにトクトクと酒を注ぎ、喜久蔵は湯飲みに注がれる酒を目を輝かせて見ていた。
注ぎ終えたところで、二人は同時に軽く挨拶するように湯飲みを持ち上げ、それから湯飲みを口に近づけるのではなく、口の方を湯飲みに近づけて飲んでいった。酒好きがよくやる飲み方だ。
グイグイと飲み続け、飲み干したら、二人は同時にぷはーっと息を吐いた。
全く同じことを同じ時にやったものだから、二人は吹き出した。
「さ、もう一杯」
権八が喜久蔵の湯飲みにまた酒を注いだ。
喜久蔵は「それじゃ、今度はおいらが」と、権八の湯飲みに酒を注ぐ。
権八は肴の漬け物を一枚口に入れ、また酒を飲んだ。その間に喜久蔵はまた酒をグイグイと一気飲みしていた。
「旦那、良い飲みっぷりですなぁ」
権八がそう言った直後、喜久蔵の顔が急にふやけて見えた。目と目の間がむにょっと広がり、輪郭がむわっと広がったのだ。
――あれ?もう酔っ払ったのか?
思わず権八は目を擦った。元の喜久蔵が見えた。
――疲れもあって酒のまわるのが早い?
喜久蔵はあっという間に二杯目を飲み終え、すぐに三杯目を注ぎたがっていたが、権八がまだ二杯目を飲み終えていないから、遠慮しているらしく、湯飲みを膝に置いて権八の言葉に返した。
「うまい酒ですからなぁ」
権八は早く飲めとせっつかれている気がした。
――もう一杯くれぇ大丈夫だろう
ぐいと飲み干した。
三杯目はどちらの分も喜久蔵が注いだ。
「長いこと飲んでなかったんですかな?」
権八の問いに、喜久蔵は
「まぁ、こんなところに住んでますからね」
と、酒を注いでいる湯飲みから目を離さずに答えた。
注ぎ終えると、二人はまた揃ってグイグイ飲んだ。
またあっという間に飲み終えた喜久蔵が、またまたぷはーっと息を吐いた。そのぷはーっと同時に、喜久蔵の目と目の間がぬわっと大きく広がり、目以外の輪郭がどんどんぼやけ、色も薄くなっていった。
権八は唖然とそんな喜久蔵の変わりゆく姿を見ていた。
――そんなに酔っ払ってるかな、俺·…
そう思った直後、ゴン!という音とともに強烈な痛みが権八の頭を襲った。
権八の意識は暗闇に落ちた。
「あれほど飲んじゃダメって言ったのに!」
さきはこん棒を手にしたまま、少し前まで父親の姿だったものを睨みつけた。
今や白いブヨブヨとした質感の塊に目だけがついている。その目も先ほどまでの目より丸くて黒目がちだ。鼻や口は見当たらない。
さきの足元には権八が倒れている。
〈すまん。久しぶりに酒を目の前に我慢できなくて……〉
くぐもった声がどこからともなく聞こえ、白いブヨブヨの中の目が伏し目がちになった。
「あたしに人殺しさせないでよ!」
〈すまん、すまん……権八さんは大丈夫かな……〉
目が権八に向いた。
「気を失ってるだけよ。明日には頭にコブができてるだろけど」
〈酒は、おいらにとっては飯なんだよ。飲まずにいられない〉
「わかってるわよ!飲んだことを怒ってるんじゃない。なんで明日まで待てないの!人前で飲んだら、厄介なことになるの、わかってるでしょうに!お酒飲むと気が抜けちゃうんだから!」
さきは怒り心頭である。
一方の白い塊は伏し目がちでブヨブヨと震え続けている。
〈えーと、権八さんをちゃんと布団に寝かさないといけないな〉
ブヨブヨから触手のようなものがうつぶせに倒れている権八へ伸び、そっとひっくり返し、そっと持ち上げた。
さきがその下に薄い敷物を敷き、触手はそのうえに権八をそっとおろした。
「権八さん、酔っぱらって幻を見たんだと思ってくれたらいいけど……。その姿を権八さんに見られたら、もうここにいられないじゃない」
〈大丈夫だよ。明日になったら、夢を見たと思うさ〉
喜久蔵だったものは、白いブヨブヨから目が消えてふわふわとした質感に変わり、娘のあとから隣の部屋へと消えた。
翌朝、権八は目が覚めると同時に頭に痛みを感じた。そうして記憶にないのに、ちゃんと薄い布団にくるまっていたから、首をかしげつつも、「おはようございます」と現れた人の姿をしている父娘に
――そんなに酔っぱらっちまったのか……
と、思うしかなかった。そうして、もしも見たことのない小屋を見つけた場合に頼まれていたことは果たせたし、よしとしようと思った。
「昨夜は思いのほか酔っぱらっちまったみてぇで……」
と、父娘の様子を窺いつつ権八が言った時も、父親は真顔で
「高い山では酔いやすいもんですよ」
と返し、娘は機嫌よく中食にどうぞと大きな握り飯を一つ持たせてくれた。
権八は見原村からさらに北へ行くつもりだったから、この山の近くに再び来るのはおそらく半年後だ。
「次にこの辺りへ来る時には酒以外にも土産になるものを持ってきやすよ」という権八の言葉に、
「いやいや、ここへは二度と来ちゃいけません。迷った挙げ句にたどり着いたんですから」
と、喜久蔵は返した。
「けど、このままおさらばってのは……昨夜の話だと色々欲しい物もおありなさるようだし」
権八の方は、良識ある者としての気持ちと商売人の気持ちが混ざりあっての物言いになった。
「おいらたちも、自分で作れねぇもんは見原村で手に入れてるから、見原村で会えることもあるでしょう」
権八はしっかり父娘が見原村で利用している見世を確認し、半年後にまたこの辺りへくるからと言い置き、喜久蔵が示した道を歩いていった。
権八の姿が見えなくなったところで、父娘は揃って息を吐いた。途端にまた父親の輪郭がぼやけた。
「もう、すぐにそうやって気を抜く!」
娘はひとこと、強めの言葉を口にし、輪郭がぼやけた父親を残して小屋の中へと戻っていった。
父親だったものは、さらに輪郭がボヤけ、色も薄くなっていったが、突如、喜久蔵の姿に戻った。
「まさか……見つかった?」
喜久蔵がそう呟いた直後、小屋の左手からビュッと黄色い光る塊が喜久蔵めがけて飛んできた。朝だから目立たなかったが、夜なら辺りを明るく照らしだすほどの光だ。
喜久蔵はさっと光を避けた。次の瞬間、喜久蔵も白く光る物体に変わっていた。
二つの光は交差しながら、右へ左へ、上へ下へと、目まぐるしく移動した。枝葉は少々落としたり散らしたりしつつも、木の間を巧妙にすり抜け、地面へはすれすれまで下降し、激しく抜きつ抜かれつした。
さきが再び小屋から外へ出てきた。小屋の周囲を動きまわる二つの光にしばらくは唖然とした顔つきだったが、「あ!」と一声あげて小屋に走り込んだ。そうして、出てきた時には心張り棒を手にしていた。
さきのすぐ横を白い光の塊が飛んでいった。その直後に黄色い光の塊が飛んできた。
さきは「やーっ!」という掛け声とともに心張り棒を振り回した。
黄色い光は心張り棒を避けた。その分、白い光との差が開いた。
白い光は反転した。さらに速度を増して黄色い光の塊に正面からぶつかっていった。
「お父つぁん!」
さきは心張り棒を両手で握りしめたまま、二つの光が衝突するのを見つめた。
二つの光はぶつかった途端に半円状に潰れて大きくなった。
さきは息をのんで二つの光を見つめた。半円となってくっついたような形からしばらく動きがなかった。
やがて光が強くなり、爆発した。……と、見えたが、爆発したのは黄色い光の方だけだった。
白い光はふわふわと地面へ降りてきた。地面に着いたら、へたりこむように横に広がって薄っぺらになった。光りも消えていった。
「お父つぁん、大丈夫?」
さきは薄っぺらになった白い物体のそばにしゃがんだ。
〈だ、大丈夫だ……たぶん……けど、しばらくは喜久蔵になれねぇ……〉
さきは小屋に駆け戻り、筵を抱えて出てきた。
その筵を薄っぺらになった白い物体に被せて囁いた。
「誰も来ないから、これで大丈夫よ。欲しいものはある?」
〈なんにもいらねぇ……このまま半時ほど休ませてくれ……それから、動き出せるようになったら、すぐにここを出るんだ……〉
「えっ?ここを出るの?」
〈すまん……おいらがここにいるのがヤツらにわかっちまったから、もうここにはいられない……〉
「ヤツらって?お父つぁんの国のヤツら?」
〈そうだ……こんなことになってすまん……〉
「お父つぁんが謝ることじゃないよ。お父つぁんがいなかったら……お父つぁんがいなかったら、あの時、あたしは死んでたもの」
さきはそっと筵の上から白い物体を抱えるように腕を回した。
白い物体は筵の下で小刻みに震えた。
「あたしの大事なお父つぁんだもん。どこへでもついていくよ」
一刻後、喜久蔵は家の周囲を見回り、とある木の根元の洞に土を入れて塞ごうとしていた。
そんな喜久蔵の行動に、さきが尋ねた。
「そこからヤツらがやって来たの?」
喜久蔵は作業の手を止めず答えた。
「あの黄色いのがここからやって来たかはわからねぇが、ここも出入口の一つになる。塞いでおくに越したことはねぇ」
塞ぎ終えると、喜久蔵は辺りを見まわした。その目は不思議な光を放っていた。
「あの権八さんもただの行商人じゃなかったようだが、ここに金目のものはねぇから、どうってことはねぇ……」
喜久蔵はさきと小屋へ戻り、今度は小屋の中を見まわした。残していくのは囲炉裏にかけた鍋と水桶くらいだ。元から最低限の物で暮らしていた。
喜久蔵が大きめの行李を背負い、さきは小振りの行李を背負った。
さきは名残惜しそうに引戸を閉める前にまた小屋の中を見まわし、引戸を閉めてからもしばらく小屋を見つめた。
「さ、行くぞ」
喜久蔵の声にようやく踵を返した。
しかし、さきは小屋が木々の向こうに見えなくなる前にまた振り向いた。
「さよなら……あたしたちを守ってくれてありがと」
小屋に別れの挨拶を呟いた。
喜久蔵はそんなさきを暖かい目で見ていたが、その目が丸い黒目がちの目に変わりかけた。
「いかん、いかん」
喜久蔵の目に戻る。
「どこへ行くの?」
さきが喜久蔵を見上げて尋ねた。
「さぁて、どこへ行くかな……見原村は権八さんが向かってるから、反対方向にしよう」
さきは無言で頷いた。
「今夜は穴加辺村で泊まれる?」
「たぶんな」
「野宿は嫌だな~」
「おいらが布団になるから、野宿でも大丈夫だぞ」
「それって、ただの野宿ではできないでしょ。余計に目立つよ」
「そうか?まぁ、どうにかなるさ。これまでもどうにかなったんだから」
さきが喜久蔵の手を握った。
父娘は仲良く手を繋いで山を降りていった。
そんな二人を笠を被った樵の成りの男がこっそりと、木の陰から見ていた。
「まさか、あいつが生きていた?そんな馬鹿な……」
男は思わず呟き、かぶりを振った。それから、十分に距離を開けて父娘を追いかけ始めた。軽やかな身のこなしだった。
* 遊び心から、この話に出てくる村の名前は、実在する地名のアナグラムです……が、このお話は全くのフィクションなので、元の地名もアナグラムの結果の地名が実在していても、実在する市町村とは全く関係ありません。




