風の語り部 part.2
母が、祖母が嫌いだった。
ここは楽園だ。望めば欲しいものは手に入り、食べたいものは好きなだけ食べられる。
服も、玩具も、甘い菓子も。
何一つ、不自由はない。
籠の鳥は、外の世界を知らない。
知らないからこそ、夢を見る。
現実を知るのが怖くて、与えられた幸福だけを啄み続ける。
それで十分だった。
なのに。
「お婆ちゃん、外に出たい」
それが、彼女が初めて口にした本当の願いだった。
楽園の外。
そこに広がる世界が、たまらなく羨ましかった。
そして同時に、憎らしくもあった。
自分も見てみたい。自由になりたい。
籠の鳥は、大空へ憧れた。
そして、今――。
「家出同然だったけど……こうして外へ出られて、本当に良かった」
陽の光を浴びながら歩いている。
ただそれだけのことが、夢のようだった。
未だに現実とは思えない。
けれど、勢いだけで飛び出した代償は大きかった。
行く当てもない。頼れる人もいない。
気づけば日は西へ傾き、魔術師育成協会の周囲を当てもなく歩き続けていた。
足の裏がじんじんと痛む。
そのときだった。
透き通るような歌声が、夕暮れの街に響く。
思わず足が止まる。
吸い寄せられるように、その歌の方へ歩き出した。
目を閉じ、静かに耳を傾ける。
『Venta lorea, avia canta
Ultra tera, qua estira?
Nemo scira caelum eterna
Mare infinora』
異郷の歌。
沿道の片隅で、一人の女が静かに弾き語っていた。
長い棹を持つ、鮮やかな紋様の刻まれた弦楽器。
細い指先が弦を撫でるたび、不思議な旋律が夕暮れの街へ溶けていく。
「……なんだろう」
聞いたことのない言葉。
意味も分からない。それなのに。
胸の奥が、懐かしさに締めつけられる。
歌声が記憶を撫でる。
幼い頃の温もり。知らないはずの景色。
形にもならない何かが、心の底から静かに浮かび上がってくる。
気づけば。
「――あの」
カレンデュラは、その歌い手の前まで歩み寄っていた。
自分の意思だったのか。歌に導かれたのか。分からない。
「お待ちしておりました」
女は穏やかに微笑む。
まるで、最初からカレンデュラがここへ辿り着くことを知っていたかのように。
「これを受け取ってください」
そう言って女は、弾いていた楽器を差し出した。
「――そんな……!」
澄んだ翡翠の瞳に迷いはない。
ベールの隙間から零れる銀髪が、風にそっと揺れた。
「歌ってください」
促されるまま、カレンデュラは楽器を受け取る。
丸みを帯びた胴。幾重にも重なる優美な曲線。生糸の弦。
どれも初めて目にするものだった。
「……本当に、いただいていいんですか? 歌えなくなっちゃ――」
女は小さく微笑むと、背後のハードケースを開く。
中から現れたのは、一振りのアコースティックギターだった。
そして再び、歌いはじめる。
『Rota, rota Fortunae
Nula prima, nula fina
Somnia nata venta fi
Dona viatora nova』
厳しい冬を越えた若葉は芽吹く。
新たな世界へ旅立つ者へ贈る、祝福の詩。
「……ありがとうございます」
カレンデュラは楽器を抱き締める。
「私、頑張ります」
風が吹く。
まるで、その言葉を祝福するように。
「風の神マヤリカのご加護がありますように」
その祈りは、静かに風へ溶けていった。
こうして。
カレンデュラの人生は、再び動き始める。
「……よし」
小さく息を吐く。
胸の奥には、消えることのない熱が灯っていた。
この先に待つのは、きっと苦難ばかりだ。
それでも。立ち止まる理由にはならない。
カレンデュラは一歩を踏み出す。
そして、魔術師育成協会の門をくぐった。




