風の語り部 part.3
会長執務室では、数人の会員たちが慌ただしく掃除をしていた。
「……最低だな」
吐き捨てるような一言。
もともと男という生き物は生理的に受け付けない。
だが、今回の一件で、その嫌悪はさらに深く刻み込まれた。
「しかも男同士とか、気色悪ぃぃぃ。死ねよ、あのカスども……!」
女は苛立ちを隠そうともせず、ソファを睨みつける。
「おい、リュディ。その辺、念入りに消毒しとけ。どうせそこでヤッたんだろ」
「……承知したっス」
男同士の情事など、考えるだけで虫唾が走る。
「――あぁぁぁぁッ!! クソッ!」
ダンッ!! 拳が机を叩く。
重たい音が執務室に響いた。
この怒りをぶつける相手は、すでに謹慎処分。
それが余計に腹立たしかった。
――リヒェンツァ・デ・ゲシュケ・メグミ。
"ハイエナの女王"。
それが彼女に与えられた異名だった。
名の通り、その気性は獰猛そのもの。
もともと短気ではあったが、この数日は輪をかけて機嫌が悪い。
リヒェンツァは深紅の髪を乱暴にかき上げると、煙草に火をつけた。
肺いっぱいに煙を吸い込み、ゆっくりと紫煙を吐き出す。
ようやく少しだけ頭が冷える。
室内を見渡す。ここは会長の執務室。
自分はあくまで副会長で、この部屋の主ではない。
「あの馬鹿ども……」
小さく毒づく。
こんな穢れた部屋で、客など迎えられるものか。
「……はぁ。またリヒェ姐の癇癪っスか」
呆れたように肩を落としたのは、補佐役のリュディオールだった。
「部下のオレはともかく、本部の人たちからは良く思われてないんスから。少しは自重してくださいよ」
「うっせぇぞ、リュディ」
リヒェンツァは煙草を咥えたまま顎をしゃくる。
「口答えする暇があんなら挨拶回り行ってこい。酒と煙草も補充。それから明日までに書類まとめて、来月分の会費も回収。あと……」
次から次へと飛び出す指示。
リュディオールは苦笑した。
「はいはい」
慣れた調子で踵を返す。
「リヒェ姐は、オレがいないと本当に駄目なんすから。就任早々、問題だけは起こさないでくださいよ」
「誰がだ」
「リヒェ姐っす」
返事を待たず、リュディオールは部屋をあとにした。
エルディワイナーは掃除の手を止めると、上着を羽織って部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静寂が戻った執務室で、リヒェンツァは苛立ちをぶつけるように机を叩く。
「おい、エミル」
「は、はいっ! なんでしょうか、リヒェンツァさま」
床を磨いていた少女が肩を震わせ、慌てて振り返る。
リヒェンツァの部下、エミル。
忠実で、臆病な従者だった。
「今夜は覚悟しとけよ……」
「は、はい……リヒェンツァさま」
怯えながらも、健気に応じる声。
だがリヒェンツァは舌打ちをする。
「違う」
「へ?」
「もっと抵抗しろよ。面白くねぇじゃねぇか。ったく……」
ため息混じりに言い捨てると、リヒェンツァは煙草を空き缶へ押し込んだ。
「――あわわわわわ! リヒェンツァさま! これでは、前任のことを悪く言えないですよぉぉぉ!?」
今さらになって事態を理解したエミルの顔が、みるみる朱に染まる。
その反応を見て、リヒェンツァは鼻で笑った。
「バカかてめぇ、あんな低俗な猿どもと一緒にすんなよ。お前に恥辱を与えるのは、俺だけの愉しみだ」
言葉にならない悲鳴だけが、その場に残る。
羞恥と困惑に揺れるエミルをよそに、リヒェンツァは興味を失ったように手を振る。
「まあ、それだけだ。下がっていいぞ」
肩を落として部屋を後にするエミルの背中を眺めながら、リヒェンツァは愉快そうに口元を歪めた。
「――さてと」
ハイエナの女王に逆らう者はいない。
恐怖だけが理由ではなかった。
冷酷なれど、その采配は常に正しい。
だからこそ、誰も異を唱えられない。
部下の力量を見極め、最も活きる場所へ配置する。
必要とあらば切り捨て、必要とあらば使い潰す。
情ではなく、合理で群れを動かす女。
だからこそ、この群れは強かった。
「掃除はもういい。各自持ち場に戻れ。明日から忙しくなる。準備しておけ」
短く命じると、リヒェンツァはライダースジャケットを乱暴に羽織った。
「たくっ……あの陰険糞野郎。俺が邪魔だからって左遷させやがって」
その表情には、不機嫌という一言では片づけられない苛立ちが滲んでいる。
リヒェンツァがこの世で最も嫌う男。
――フェイルツィーオ・マクシミリアン・チェン。
その名を思い浮かべるだけで、眉間の皺が深く刻まれた。
「――ですけど、副会長ですよ。大出世じゃないですか!」
掃除道具を片付けていたアリカが、場を和ませようと明るい声を上げる。
だが、その気遣いは逆効果だった。
「俺は適度に仕事して、ほどほどに遊んで金稼いで、そんでたまに女抱ければそれでいいんだっつの」
アリカは呆れたように肩をすくめ、小さく息をつく。
「なんで男ってセックスすることしか頭にねーんだろ。俺は男とか無理」
リヒェンツァは忌々しげに舌打ちすると、ジャケットの内ポケットから煙草の箱を取り出した。
軽く振る。乾いた音すら返ってこない。
箱を握り潰しかけ、寸前で思いとどまる。
「くそ。めんどくせぇ、まだ帰ってこねーのかよ、あいつ」
苛立ちは行き場を失い、部屋の空気だけが重く沈んでいく。
その様子に、居合わせた部下たちは思わず身構えた。
誰もが知っている。煙草が切れた時のリヒェンツァは、普段以上に機嫌が悪いことを。
次の瞬間、また癇癪が始まる。
誰もがそう覚悟した、その時だった。
――コンコン。
不意に扉が叩かれた。
リヒェンツァは眉をひそめる。
返事をするより早く、扉は静かに開いた。
現れたのは、一人の少女。
花を思わせる可憐な佇まいに、この部屋だけが場違いに思えるほどだった。
部屋へ足を踏み入れた少女は、一瞬だけリヒェンツァの鋭い視線に身を強張らせる。
それでも逃げることなく、深々と頭を下げた。
「あの、副会長さんでよろしいでしょうか? あたしはカレンデュラ・ララミデシアと申します。バライバ理事長の代わりに、ご挨拶に伺いました」
声は少し震えている。
それでも最後まで言い切ると、もう一度丁寧に頭を下げた。
あまりにも律儀な所作だった。
リヒェンツァは思わず目を細める。
「……ほぉ」
短く鼻を鳴らすと、ソファテーブルへ投げ出していた脚をゆっくり下ろした。
そのまま顎で前を示し、カレンデュラを手招く。
「てめぇが、あのバライバの孫か」
口元が、獰猛に歪む。
「噂には聞いてたが……実物は想像以上じゃねぇか」
リヒェンツァは口元を吊り上げると、ゆっくりと立ち上がった。
そのままカレンの前まで歩み寄る。
逃げ場を塞ぐような距離。
指先でそっと顎を持ち上げると、そのまま顔を覗き込んだ。
カレンデュラは目を丸くし、みるみる頬を赤く染める。
気まずそうに視線を逸らし、小さく肩をすくめた。
「あの、そんなに近くで見なくても……」
まるで値踏みでもされているようだった。
頭の先からつま先まで観察される視線に、カレンデュラは自分が品物にでもなったような居心地の悪さを覚える。
「――ちょっと、リヒェ姐! 問題起こさないでって言ったじゃないっスか!!」
その声とともに、買い出しへ出ていたリュディオールが執務室へ飛び込んできた。
「……てめぇ、いつもタイミング悪ぃんだよ。空気読めよ」
舌打ち混じりに睨みつける。
口調こそ荒いが、本気で怒っている様子ではない。
「す、すみませんっ。お取り込み中でしたら、出直しますので!」
カレンは慌てて身を引き、深々と頭を下げた。
その必死な様子に、リュディオールは思わず苦笑する。
「いや、気にしなくていいです。それより、早く帰ってください。目障りなんで」
その言葉に、カレンは驚きつつ素直に頷いた。
「えっと……それじゃ、失礼します」
「おい、待て。まだ話は終わって――」
リヒェンツァが手を伸ばす。
しかし、その腕を掴んだのはリュディオールだった。
「……リヒェ姐」
静かな声だった。
それだけで十分だった。
「いい加減にしてくださいよ」
二人の視線がぶつかる。
張りつめた空気の中、短い沈黙だけが流れた。
その隙を逃さず、カレンはぺこりと頭を下げる。
そして逃げるように、執務室をあとにした。
「……んだよ。あと少しだったってのによ。テメェもあのクソ親父と一緒で、空気読めねぇのか」
リヒェンツァは眉間に深い皺を刻み、露骨に不機嫌さを滲ませる。
だが、リュディオールは微動だにしなかった。
「……あの男と、一緒にすんな」
低く押し殺した声。
それだけで、部屋の空気が張り詰める。
あまりにも冷え切った声音に、リヒェンツァは一瞬だけ言葉を失った。
だが、それも束の間。
すぐに鼻で笑い、挑発するように口元を歪める。
「何だかんだ言ってよぉ。てめぇこそ、あのクソ親父に未練タラタラなんだろ? みっともねぇな」
試すような視線。
リュディオールは逸らさない。
真っ直ぐに見据えたまま、一歩も引かなかった。
視線がぶつかる。
互いに譲る気など、最初からない。
沈黙だけが二人の間に横たわる。
その胸の内を、リヒェンツァは知らない。
そしてリュディオールもまた、語るつもりはなかった。
だから、この想いは決して届かない。
ただ、一方通行のまま擦れ違い続ける。




