ななしのジョン・ドゥ part.3
ヘルタは走った。
「――雪那!!」
普段、碌な運動もしないせいで、肺が焼けるように痛い。
けれど、それすら気にならないほど、頭の中は雪那のことでいっぱいだった。
――どうして。
何故、雪那が自らの手で『幻日の箱庭』を破壊しているのか。そんな疑問が、何度も頭をよぎる。
けれど、今は考えている場合ではない。
搬入口は、もう目の前だった。
そこから雪崩れ込む、どす黒い焔。
すべてを等しく飲み込まんとするように、炎の舌が地を這い、壁を舐める。
「どうして……」
ヘルタは地面を蹴った。
その勢いのまま、搬入口へ飛び込む。
「――っつ!?」
瞬間。
視界が、一気に暗闇へ呑まれた。
何も見えない。何も聞こえない。
ただ、灼熱の中で、耳鳴りだけが頭の奥で響いている。
その向こうから、轟々と何かが燃え、時折、何かが爆ぜる音が聞こえてくる。
「――雨よ、絶え間なく降り注ぎ、大地を満たせ!」
ヘルタは魔術を発動させた。
頭上から、無数の雨粒が降り注ぐ。
少しでもいい。
雪那の暴走を鎮めるために。
けれど――「……消えない」
雨は降り続いている。
それでも、黒い焔は消えない。
この強大な魔力の奔流の中では、まるで焼け石に水だった。
ウィリディアスほどの魔力があるならともかく、錬金術師であるヘルタにできることには限界がある。
「そんな……」
ヘルタは奥歯を噛み締めた。
手詰まりだ。
「……どうなっている」
その時だった。
ヘルタの後方から、見知らぬスーツ姿の男が姿を現した。
「な、なんですの!? この炎は……!」
その側には、スカートの裾を翻しながら、金色の巻き髪を揺らす女。
「あんた達、誰!? まさか、後をついて来たの!?」
ヘルタは思わず身構えた。
手ぶらで飛び出して来たばかり。武器になるものなど何もない。
魔力を練ろうとしても、たちまち黒い焔に呑まれ、霧散してしまう。
「そっちこそ、誰だ」
男――フェイルツィーオは、興奮気味の妹を片手で制しながら、淡々と告げた。
「ボクらは魔術師育成協会から、『幻日の箱庭』の捜索のために遣わされた者だ」
「……魔術師育成協会……」
その名を聞いた瞬間、ヘルタの表情が強張る。
敵だ、明確に。『イル・マット』と敵対する。
「そんなことより、この炎はなんですの!? リヒェンツァ!! どこにいるんですの〜〜〜〜!!」
「貴様は黙っていろ、アフェルディータ」
フェイルツィーオが額を押さえる。
その時だった。
「――え?」
ふと、ヘルタが振り返る。
その瞬間――焔の揺らぎが、変わった。
「この魔力……この焔とは別のものだ」
フェイルツィーオが、慎重に周囲の気配を探る。
「もしかして、リヒェンツァですの?」
アフェルディータが、訝しげにフェイルツィーオを見る。
「……違う」
短く答えると、フェイルツィーオは義眼へ魔力を流し込んだ。
強大な魔力が渦巻く中、揺らぐ視界。
それでも、限界まで焦点を絞る。
黒い焔。溢れ出す魔力。
その奥に、かすかに混じる――別の魔力。
そして――「――リヒェンツァ!!」
叫ぶより早く、フェイルツィーオの身体が動いていた。
「きゃっ!?」
後方から襲いかかる焔。
ヘルタの袖へ絡みつく黒い炎。
それらすべてを振り切るように、フェイルツィーオは駆け出した。
「兄様!?」
アフェルディータの制止も聞かず、フェイルツィーオは黒い焔の中へ身を投じた。




