ななしのジョン・ドゥ part.1
少数民族であるハムヤタカ族には、こんな伝記が残る。
――主神ムー・ヌーは羊で、火の神ナトリギィは雄牛、風の神マヤリカは犬、そして水の神マシラアーは猫である。
何故、猫であるマシラアーが水を司るかと言えば、喰らったからである。
元々、水の神は魚、風の神は鳥が象徴とされていた。
しかしながら、この魚と鳥が好物のマシラアーからすれば単なる獲物に過ぎず、いつしかその座は犬と猫に置き換えられていたという。
「……なんだそりゃ」
短髪の男が、パタンと本を閉じ、憮然と呟く。
対して、ふう、と息を吐くのは胴長短足の犬である。
『言い訳するけど、おれは食べてないよぉ? マシラアーが全部悪いんだからさぁ』
ハッハッと短い息を吐きながら、利発そうな犬が言う。
何を隠そう、この犬こそがハムヤタカ族に伝わる伝説の風の神、マヤリカである。
大きな立ち耳をピーンと立て、アーモンド形のつぶらな瞳。
それ以外は、ずんぐりむっくりした薄茶色の普通の犬にしか見えない。
その愛らしさと神々しさに、通常の人間であれば跪き、神託を乞うところだろう。
だが、幸いにも短髪の男には耐性があった。
「で、そっちのマシラアーはどうしてんだ?」
『砂漠地帯のキャラバンの連中から食料奪って、引きこもってるよぉ?』
こてん、と小首を傾げる。愛嬌があるが故に、怒る気にもなれない。
「なあ、ジギフリット」
『止めろ。その名前で呼ぶな』
急にマヤリカ神は、犬とは思えないほど真顔になった。
『おれの名前はジョン・ドゥ。名無しのジョン・ドゥ。もう、ジギフリット・ウッベローデ=アンドリアンはいない。あいつは同化して、おれの一部なのさ。その事を努々忘れないで欲しいな』
「それは失礼をしたな、ジークん」
『だからそれ止めろよぉ!』
ワンワン吠える犬を無視して、短髪の男はオホンと咳払いをすると、改めて本題を切り出す。
「で、天燐精霊器の次の所有者をカレンに決めたのは本当か?」
『本当だよぉ。あの子はもう一人前の魔術師さ。自らの運命を断ち切り、そして取り返すだけの力をつけている。文句あるぅ?』
「大ありだって!? あの嬢ちゃんにはまだ早い! 俺たちゃ、可能な限りあの子を戦いのド真ん中に送り込む事なく、育てるつもりだったんだぞ!」
『それは君の価値観だよねぇ? おれはあの子にもう決めたんだぁ』
犬神の冷たい表情は崩れない。
その鋭い眼光に、さしもの短髪の男も息を呑むほかない。
「……ああ、そうかい。それならそれでいいさ」
そこでふと、男は意味ありげな視線を犬神に向ける。
「ってか、今更なんだけど、その口調ヴォルーツォさんに寄せてる?」
『あー! あー! 聞こえない、聞こえなーい!』
犬神の声が、モールス信号のように抑揚を失った。
そしてその後、哀しげな遠吠えが始まったので、男は苦笑しつつ質問を終了する。
「まあいいさ。俺はアンタの下僕だしな……いや、アンタの尻の下に敷かれている方が、性に合ってるぜ」
そうして下僕である男は、主人である風の神マヤリカに忠実を誓うのだ。
傍から見れば、犬の尻に敷かれる飼い主といった構図になるが、それもまた彼らの風物詩なのだろう。
そこにふと、流れ弾のように風が吹く。
まだ微かに残る冬の残滓か。あるいは、次なる戦いを報せる軍靴の響きか。
この風の行く先は、まだ分からない。
だが、どんな風が吹こうとも、男は頭を垂れて付き従うだろう。
それが、どれほど過酷な道であろうとも。
男の名は、アーシャリオ・オルロフと言った。
その名は、誰よりも高貴で尊い。
世界広しと言えども、あのヒュベルトゥス・ヨーゼフ・ロッシジャーニに己が命を捧げ、敬い従った、ただ一人の尊き称号である。
「俺はアーシャリオ。誉れ高きアーシャリオさ」
ニヒルな笑みを浮かべながら、男は歩き出した。
何年、何十年後になるのか。
再び彼と相見えるその時まで、こうして己の武勇を語れる日が来る事を願って。
ななしの名無しの権兵衛
なにいってんだ?




