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追憶の辺獄  作者: 香取 仙狐
第一章 魔術師育成協会
7/51

ヒトデナシ

 1


 地方都市アルラト。

 ヤアタマナ山の麓には、『幻日の箱庭』と呼ばれる庭園がある。


 一年を通して緑を絶やさぬよう丹念に手入れされた、美しい庭だ。


「お待ちしておりました」


 緑廊の入り口で待っていたのは、上品な女性だった。


「やあ、雪那ちゃん。今日もかわいいね〜!」


 軽口を叩いたのは、長い赤茶色の髪をハーフアップにした青年――ウィリディアス・ルカ・グレイス。


「さて、そろそろ始めようか」


 ウィリディアスがそう号令を掛けると、集まっていた面々がそれぞれ席を立つ。


 一人は栗色の髪を三つ編みに結った女性、円花・ミレフォリア。


 一人は金髪を緩く巻いた細身の女性、マーナードーシャ・ヤッガルダ・ロンシモンニャ。通称・マーシャ。


 そしてもう一人は、金髪のツインテールを揺らす豊満な女性、ライライナ・サバエアナ・ロンシモンニャ。通称・ライナ。


「やあ、久しぶりだね諸君。息災だったかな?まぁ、とりあえず掛けてくれたまえよ」


 ウィリディアスがそう声を掛けると、各々ガーデンチェアへと座る。


「お陰様で何事もなく過ごせてますぅん」


 猫なで声で答えたのは、マーシャだ。


「それは良かった。と、言いたい所だけど、ライナまた太っただろう。定期検診の数値誤魔化しても無駄だからね」


 そう言って、ウィリディアスは呆れたような表情を浮かべた。


「うぐぅ……」


 ライナは好物のマフィンを口に押し込みながら、うめき声を上げた。


「まあまあ、まだ経過観察でよろしぃのでしょお?」

「そういう問題じゃないんだよ、マーシャ。君は少し妹を甘やかしすぎなんだ。自覚はあるだろう? これ以上太れば、いずれ命に関わる」


 そう言われ、マーシャは気まずそうに目を逸らした。


「まあ、今はいい。それより本題だ」


 先ほどまでの柔らかな空気を切り替えるように、ウィリディアスは表情を引き締めた。


「今日、君たちを呼んだのは他でもない。魔術師育成協会の内部に動きがあった」


 その言葉に、場の空気が張り詰める。


「カレンが、魔力増量剤の被験者に選ばれた」

「……バライバは、あの子を実験に差し出すの?」


 円花が苦々しく呟く。


 ウィリディアスは静かに首を振った。


「僕らはあくまでエンネリネの意向を尊重するだけだ。バライバがカレンを手放したことにも、きっと理由がある。それに協会側が二人の関係をどこまで把握しているのかも分からない。もし世間に露見すれば、ただでは済まないはずだ」


 そして彼は、集まった面々を順に見渡した。


「カレンを、救う覚悟はあるかい?」


 誰も口を開かなかった。

 重苦しい沈黙の中、ウィリディアスが続ける。


「カレンちゃん、すっかり大人びていたよ。見違えるほどにね」


 懐かしむような笑みが、一瞬だけ浮かぶ。


「だからこそ辛い。あの娘は何も知らない。ただ生きているだけの、普通の女の子だ。それでも……あの娘は、この世に存在してはいけない人間なんだ」


 その声には、隠し切れない苦さが滲んでいた。


「僕だって、罪のない女の子を手にかけるのは辛い」


 場の空気は、さらに重く沈む。


「……それでも、エンネリネの遺言は果たす。それが私たちの在り方でしょう」


 円花の言葉に、ウィリディアスは静かに頷いた。


「ああ、そうさ。彼女には死んでもらう。それが、“紛い者”の製作者である僕の勤めだ」


 そう言って彼は微笑んだ。

 だが、その瞳はどこまでも冷たい。


 円花は思わず息を呑んだ。


「……そうは言っても、協会には何重もの結界が張られているわ。そう簡単に侵入できる場所じゃないでしょう」


 しかし、ウィリディアスはやれやれと肩を竦めた。


「僕を誰だと思ってるんだい。あの糞野郎の会員証くらい偽造できるさ」


 そう言うと、ウィリディアスはポケットから一枚のカードを取り出し、ひらひらと振ってみせた。


 それはヴォルーツォが持つものと寸分違わぬ会員証だった。


「ヴォルーツォになりすまして潜り込めばいい」


 彼はカードをテーブルに置き、その上に手をかざす。

 淡い光が走る。


「協会の認証は魔力情報に依存している。そこさえ誤魔化せれば、あとはどうとでもなる」


 あまりにも簡単そうに言うものだから、円花は思わず眉をひそめた。


「いっそのこと、協会ごと潰す案も考えたんだけどねぇ」


 ウィリディアスは椅子に深く腰掛ける。


「術の規制ばっかり増やして、魔術師らしい挑戦も許さない。正直、頭の固い連中ばかりさぁ」


 そこで一度言葉を切り、小さく肩を竦める。


「まあ、無くなったら無くなったで困るんだけどね」


 そう言って笑う。

 だが、その瞳だけは笑っていなかった。


「それからもう一つ――最近、僕らのことを嗅ぎ回っている記者さんがいるみたいでね」


 ウィリディアスの一言に、その場の空気が凍り付く。


 沈黙が落ちる。

 その中で、クッキーを頬張っていたライナが恐る恐る手を挙げた。


「お師匠さん。その人には、どのくらい情報が流れてるですのん?」


 ウィリディアスは不敵に微笑むと、人差し指を唇に当てて答える。


「さてねぇ? ……余計な火種は早いうちに摘んでおいて良かったよ」


 意味深な言葉にマーシャが呆れ顔で呟く。


「んもぅ、お師匠さぁん。まぁたそれですかぁ!」


 すると、そんな彼女を円花が嗜めるように諭す。


「マーシャ、ウィリディアスだって考えがあるのよ。仮にも私たちを育ててくれた義理の父親なんだから、少しは信じてあげたら?」


 それを聞いたマーシャは、そっぽを向くと、ぽつりとこぼす。


「……もう抜けようかな……この組織」


 ウィリディアスは薄く笑う。


「僕らは一体どこへ向かうのだろうね」


 どこか遠くを見るように。


「エンネリネ亡き今、守るべき使命もない。かと言って、魔術師育成協会に従う気もない。浮ついた気持ちのままでは、いずれ破滅するだけだ」


 円花は返事ができなかった。


 彼らは追われる身だ。

 この先もずっと、自由など無いのかもしれない。


「それなら、マーシャにもお仕事回してくださいよぉ」


 マーシャがおどけた調子で言った。

 その明るさが、今の彼らにとって唯一の支えだった。


「……ねえ、まだリヒェンツァは協会にいるんでしょ? 放っておけば、私たちのことを全部話すかもしれないわよ」


 円花が恐る恐る尋ねる。


「そうなったら、どう責任取るつもり?」


 ウィリディアスは微笑んだ。

 まるで、心配はいらないとでも言うように。


 だが、実際は問題が起これば後手に回る。

 それなのに、何を考えているかさっぱり分からない。

 肝心なことは誰にも話さず、いつも全てを見通しているような顔をして。


 もっと早く動けていれば、リヒェンツァは協会に寝返ったりしなかったのではないか――そこまで考えて、ふと、我に返る。


 一体自分は何を考えているのか。

 仮にもここまで育ててくれた、義父に向かって。


「円花くん、大丈夫。僕だってリヒェンツァがいなくたって、ちゃんと考えてるさ」


 ウィリディアスは優しく微笑んだ。


「彼女だって立場は理解している。協会に余計な情報を流すような真似はしないよ」

「……どうしてそう言い切れるのよ」

「あの娘だって、自分の出自が表沙汰になれば困る側の人間だからね」


 まるで何もかも見透かしているように、ウィリディアスは言う。

 だが、その言葉にどんな感情が込められているのかまでは分からない。


「リヒェンツァだって、君と同じさ」


 円花は眉をひそめた。

 ウィリディアスは、その反応を面白がるように口元を緩める。


「だって君たち、驚くほど似た者同士だったじゃないか」

「何よ、今更」


 円花は視線を落とした。

 テーブルの上では、琥珀色の紅茶が静かに渦巻いている。


「私は、好きでここにいるわけじゃないわ」

「そうかい」

「他に行く宛がないから居るだけ」

「そうだね」


 ウィリディアスは否定しなかった。

 そのことが、かえって癪に障る。


 カップの中へ落としたレモンが、琥珀色をゆっくりと染め変えていく。


 人の心のように。


「……それより、ヘルタはまだ寝てるのかい」


 重くなった空気を払うように、ウィリディアスは弟子たちを見渡した。


「ヘルタなら起こしましたわ。ですが、朝食を済ませたらまた寝てしまいましたの」


 教育係の雪那が答える。


「まったく。僕が見張っていないと、あの娘はすぐ怠けるんだから」


 ウィリディアスは呆れたようにため息をついた。

 その様子に、マーシャがくすりと笑う。


「困った子ですよねぇん」

「本当にねぇん」


 ウィリディアスは肩を竦めた。

 先ほどまでの張り詰めた空気が、少しだけ和らぐ。


「まあ、いいや。僕が直々に起こしてくるよ。それじゃ、またね〜」


 そう言い残し、ウィリディアスは立ち上げる。


「あ、そうそう」


 ウィリディアスは去り際に、思い出したように振り返る。


「例の密輸ルート、もう使わないから潰しておいてね」

「了解ですのん!」


 ライナがダイエットコーラを片手にビシッと敬礼をする。


「さて、あの寝坊助の尻を叩きに行くとするか」


 ウィリディアスは鼻歌交じりに出入り口を開く。

 午後の柔らかな陽射しが、軽やかな風と共に去っていく。


 2


 錬金術師ヘルタの朝は遅い。

 昼をとうに過ぎた頃に目を覚まし、リビングのソファへ身を沈める。


 日課のラジオ放送は、今日もどうでもいい話題に事欠かない。

 特に魔術師育成協会の話など、その最たるものだ。


「ようやく起きたと思ったら、まだ眠そうだけど。最近ちゃんと眠れてるの?」


 声を掛けたのは、リビングの椅子に座るティツィアーナ。

 お目付け役であり、お世話係であり、妹弟子でもある。


「……寝てるよ。ただ単に『ロコモティ部! ~戦渦の誓い~』の周回イベのせいで、疲れが取れないだけ」


 ティツィアーナは眉間に皺を寄せた。


「いい加減、ティツィーも怒るよ? お師匠さんが来ないからって、最近だらけすぎ!」

「うるさいなぁ。ヘルタだって忙しいの。魔術師と違って材料集めから調合まで全部自分でやらなきゃいけないんだから。たまには息抜きさせてよね」


 とはいえ、五歳も年下の妹弟子に身の回りの世話を焼かれていることは、さすがのヘルタも少々肩身が狭かった。


「――あのね、今はお師匠さんがいるから良いけど……」

「はいはい、その話は聞き飽きた。それより今日のご飯は?」


 ティツィアーナの小言が始まる前に、ヘルタは慌てて話題を変える。


「エッグトースト」


 不満そうに答えるティツィアーナ。

 だが、その表情はどこか嬉しそうだった。


「もう定期集会始まってるよ」

「――うそ、今何時!? 何でもっと早く起こしてくれなかったのさ!」


 時計を見たヘルタは飛び起きた。

 開始時刻はとうに過ぎている。


「起こしたよ。ヘルタが全然起きなかっただけ」


 ティツィアーナは呆れながら、焼き上がったトーストを皿に並べる。


「お師匠さまが最近見回りに来ないからって、油断してたでしょ?」


 ヘルタはぐっと言葉に詰まった。反論できない。

 最近の自分がだらけている自覚くらいはある。


「じゃねー。今から行っても遅いかもしれないけど」


 ヘルタはパンを咥え席を立ち、玄関へ向かう。


「ねえ、ヘルタ」


 背中にティツィアーナの声が掛かった。


「最近元気ないけど、お師匠さんと何かあった?」

「べふひ〜?」

「本当に……? なら、良いいけど」


 ヘルタはパンを齧りながら勢いよくドアを開く。


「じゃ、行ってくるね――」

「――うん、行っておいで」


 そして。

 ヘルタは笑顔のまま前を向き、その場で固まった。

 玄関の向こうには、笑顔のお師匠さまが立っていたからだ。


「……お早いお帰りですね……」

「いやぁ、予定より早く集会が終わってねぇ。ついでに君を起こしてから帰ろうと思ったんだよ〜」

「そうですか……」

「何か言うことがあるんじゃないかなぁ? ヘ・ル・タ・ちゃ・ん?」

「あはははは! すみませんでした!!」


 ヘルタはその場で勢いよく頭を下げた。


「まったく、君って子は……!」


 ウィリディアスは額を押さえながら大きくため息をつく。


「罰として今日の夕飯は抜きだからね!!」

「そ、そんなぁぁぁぁぁあ!?」

「当然だろう! 一日反省してなさい!!」

「うわァァァァァァァんッ! お師匠さまの鬼ぃぃぃぃぃ!!」


 ヘルタ・アーレンファルトの悲痛な叫びが、周囲に響き渡った。


 3


 魔術師育成協会――中央棟二階。


 食堂として一フロア丸ごと使われている広大な空間は、昼時ということもあり、多くの魔術師たちで賑わっていた。


「……なんだか落ち着かないな。いつもと同じ場所なのに、知らない場所にいるみたい」


 エフィムが小さく呟く。

 彼とヴォルーツォが恋仲になったことは、すでに協会中へ知れ渡っていた。


 しかし、その話題は祝福や好奇の目よりも、どこか気味悪がるような反応を招いている。

 向けられる視線や囁き声が、いつも以上に肌へまとわりついてくるようだった。


「そんなに人目が気になるかい? 僕は外野の雑音なんて気にしないけどね」


 ヴォルーツォが肩をすくめながら笑う。

 エフィムは気まずそうに視線を逸らした。


「だ、だって……仮にも男同士ですし。それに、一部ではヴォルーツォさんのことまで変な噂をされてるみたいで……」


 それがエフィムの本音だった。

 自分が何を言われようと構わない。


 だが、心ない言葉を向けられている相手がヴォルーツォだと思うと、胸が痛んだ。


「うーん、そうだねぇ」


 ヴォルーツォは少しだけ考える素振りを見せたあと、穏やかに微笑む。


「でも僕は、エフィムくんだから好きになったんだ。他の誰かなんて興味ないよ」


 その言葉に嘘は感じられない。

 それでも、エフィムの不安は簡単には消えてくれなかった。


「それに、この先ずっと歳を重ねても恋すらできないなんて悲しいじゃないか」


 眠気覚ましのコーヒーをひと口飲みながら、ヴォルーツォは続ける。


「まるで君の身体が悪いみたいに聞こえるよ。子供の姿のままだとしても、実年齢を考えれば恋のひとつやふたつして当然だろう?」

「……それは、そうかもしれませんけど」


 エフィムは包み紙からハムサンドを取り出し、小さく齧った。


「でも、やっぱり男同士っていうのは……世間体が」

「そうかなぁ?」


 ヴォルーツォは首を傾げる。


「男同士だって別に問題じゃないと思うけどねぇ」


 あまりにもあっさりした返答だった。

 エフィムが目を丸くすると、ヴォルーツォはくすりと笑う。


「言わせておけばいいじゃないか。その世間体ってやつにさ」


 そう言って軽くウィンクをひとつ。

 皿に残っていたカレーを綺麗に平らげる。


 そして何でもないことのように続けた。


「それに僕は、君を裏切ったりはしない」


 その瞬間。

 エフィムは思わず息を呑んだ。

 胸の奥を、何かが強く打った気がした。


「……どうかしたかい?」

「え、ちが、なんでもない」


 エフィムは慌てて顔を背け、熱を帯びた頬を隠した。


「まさか照れているのかい? 可愛いなぁ、もう」


 ヴォルーツォが目を細めて笑う。

 その柔らかな眼差しだけで、心臓が落ち着かなくなる。


「そ、そんなことないもん……」


 否定する声は弱々しかった。

 耳まで真っ赤になっていることなど、自分でも分かっている。


「ふふ。そういうところが僕は好きなんだ」


 そう言ってヴォルーツォはエフィムの髪を優しく撫でた。

 その手はゆっくりと頬へ降りていき、そっと触れる。


「ヴォ、ヴォルーツォさん……」


 思わず肩が跳ねる。

 嬉しい。本当は、とても嬉しい。

 それなのに視線は無意識に周囲へ向いてしまった。

 食堂にいる魔術師たち。

 こちらを見ている者はいない。

 だが、本当に誰も見ていないのかと問われれば、自信はなかった。


「また嫌なことを言われちゃったかい?」


 頬に触れたまま、ヴォルーツォが静かに尋ねる。


「ち、違います……そうじゃなくて……」


 言葉が続かない。

 自分が悪いわけではない。そう分かっている。それでも気になってしまう。


 周囲から見れば、大人と子供だ。


「いいよ、エフィムくん」


 ヴォルーツォは穏やかに微笑んだ。


「無理に平気なふりをしなくて」


 その声音に責める色はない。

 ただ、気遣うような優しさだけがあった。


「気になるなら、どこか人目のない場所へ移動しようか」


 そう言った彼の笑みはいつもと変わらない。

 けれどエフィムには、その奥にほんの少しだけ寂しさが滲んでいるように見えた。


 まるで、自分が遠慮している理由を理解してしまっているかのように。


 4


 結局、エフィムたちは早々に食堂を後にし、人目の少ない場所を求めて協会内を転々とした。


 本当はあの場で慰めてもらいたかった。

 けれど、誰かの視線があると思うだけで落ち着かない。


 そんな自分が情けなくもあった。


「――ここは気持ちがいいねぇ」


 中央棟の屋上庭園へ辿り着くなり、ヴォルーツォはベンチに腰を下ろし、大きく伸びをした。


 そよ風が庭園を吹き抜け、花壇の草花を優しく揺らしていく。


「……そうですね」


 エフィムも隣へ腰掛けた。

 憩いの場として人気のある場所だが、今日は運よく誰の姿もない。

 こんな静かな時間は珍しかった。普段なら誰かしらが休憩しているし、ゆっくり話す機会すらない。


 エフィムはそっと息を吐いた。

 このところ、すれ違いばかりだった。

 同じ建物にいても会えない日が続き、会えたとしても喧嘩ばかり。


 逃げていたのは自分だ。

 ヴォルーツォのことを考えれば考えるほど、不安ばかりが膨らんでしまっていた。

 だから今こうして隣にいるだけで、不思議と胸の奥が温かくなる。


 手が触れあう。隣から伝わってくる体温。

 それだけで、張り詰めていた心が少しずつほどけていく気がした。


「……エフィムくんさ」


 穏やかな声が降ってくる。


「ひょっとして、僕のこと嫌いになった?」


 唐突な言葉に、エフィムは目を見開いた。


「――っ、そんなわけ……!」


 慌てて否定すると、ヴォルーツォはくすりと笑う。


「そっか」


 軽い調子だった。

 けれど、その笑顔の奥にほんの少しだけ不安が見えた気がした。


「最近、あんまり近寄ってきてくれなかったからさ。ちょっと気になってたんだ」

「それは……」


 言葉に詰まる。

 ヴォルーツォの藤色の瞳には、戸惑うエフィムの姿が映っていた。

 そんなところまで見透かされていたのかと思うと、急に恥ずかしくなる。


「ごめんなさい。ただ……色々考えることが多くて」

「うん」


 ヴォルーツォはゆっくり頷いた。

 責める様子はまったくない。


「君は思いやりのある子だからね」


 そう言って微笑む。

 優しくて、温かくて。だからこそ、エフィムの胸が少し痛んだ。

 自分が悩んでいた間、この人を不安にさせていたのだと気付いてしまったから。


「でもね、エフィムくん。僕は君が思っているより、ずっと図太いよ」


 ヴォルーツォは肩をすくめ、冗談めかして笑った。


「他の誰かに何を言われても、別に気にならない」


 そう言って、真っ直ぐエフィムを見つめる。

 逃げ場など与えないと言わんばかりの、優しい眼差しだった。


「だって、エフィムくんのことが大事だから」


 胸が締め付けられる。

 その一言だけで、これまで抱えていた不安が崩れていくようだった。


「――……ヴォルーツォ、さん」


 喉が震える。

 うまく声にならない。代わりに視界が滲み、涙が零れそうになる。


「泣かないで」


 柔らかな声が降ってくる。


「せっかく可愛い顔をしているのに」


 冗談めかした言葉に、エフィムは思わず俯いた。


「エフィムくん」


 呼ばれて顔を上げる。指先がそっと顎を持ち上げた。

 目の前には、優しく微笑むヴォルーツォの顔。


「ふふっ。涙目になっちゃって」


 愛おしそうに目を細める。


「本当に可愛いなぁ」


 胸がいっぱいになる。

 嬉しくて。愛おしくて。どうしようもなく好きで。

 だから気付けば、言葉が口をついていた。


「ヴォルーツォ、さん」

「ん?」

「……キス、したいです」


 言った瞬間、顔が熱くなるのが分かった。

 けれど、不思議と後悔はない。

 ヴォルーツォは一瞬だけ目を丸くし、それからふっと笑う。


「仰せのままに」


 その返事が妙に嬉しくて、思わず笑ってしまう。


 次の瞬間。そっと距離が縮まった。

 触れるだけの口づけ。春風よりも優しく。驚くほど温かい。

 ほんの一瞬だったはずなのに、時間が止まったように感じられた。


 離れていく気配を惜しむように、エフィムは無意識に瞼を上げる。胸の奥が熱かった。

 けれど、それは苦しさではない。

 ようやく手に入れた安堵の温もりだった。


 5


 魔術師育成協会に侵入するのは、実に容易いものだった。


「ンッフフ。初めて入ったけど、意外と広いんだねぇ」


 ウィリディアスは偽造した会員証をヒラヒラと振りながら、協会の入り口を潜る。

 ヴォルーツォの偽名は、すでに堂々と通用していた。


 受付の職員は怪訝な目を向けるどころか、疑うことすらせずすんなりと中へ通されたのだ。


 行き交う魔術師たち。明るいロビーに、笑顔、挨拶、雑談。

 確かに、ここは外から見た印象よりも遥かに大きい。


「いやぁ、警戒心がまるでないねぇ。こっちとしては都合がいいけど〜」


 誰にも怪しまれることなく、堂々と正面から足を踏み入れる。

 これほどの規模にしては、あまりにも不用心ではないか。


 まるで、招き入れられることを望んでいるかのように――。


「さて、まずはエフィムくんを探さないとねぇ」


 愛しのエフィムがいるのは、西棟のはずだ。

 しかし、ウィリディアスの目的はあくまでカレンデュラの始末。


 エフィムは二の次のはずだった。


「さぁて、ど〜こかなぁ」


 ウィリディアスは鼻歌混じりに歩き出す。その瞳は獲物を探す蛇のように、鋭く輝いていた。


 行き交う人々は、誰一人としてウィリディアスに見向きもしない。

 しかし時折、通り過ぎる者たちの囁きが耳に入る。


「……ヴォルーツォって、エフィム会長と付き合ってるんだって? 変態なんじゃないか?」

「会長は騙されてるんだって、まだ子供だし」


 嫌いな片割れとはいえ、そんな陰口を耳にすると、少しばかり居た堪れない気持ちにもなった。


「ンッフフ、誰が誰と付き合おうがどうでも良くなぁい? とはいえ、エフィムくんは僕が貰うけどね〜〜〜」


 聞こえないふりをしながら、ウィリディアスは足早に中央棟を進む。

 無駄な争いは避けるべきだ。何より今はヴォルーツォになりすましている身。下手に誰かと関わるのは得策ではない。


「ヴォルーツォさん!?」


 背後から声が飛ぶ。

 振り返ると、そこにはエフィムが立っていた。


「さっき買い出しに行くって。何か忘れ物ですか?」

「いやぁ、スマホ忘れちゃってさぁ」


 咄嗟に作り笑いを浮かべ、何食わぬ顔で答える。


「……本当ですか、さっきまでと服が違いますけど」


 内心で舌打ちしながらも、ウィリディアスは肩をすくめた。


「あはは。ほら、コーヒーこぼしちゃってさぁ」

「それに、前髪の向きも違う気が……」


 エフィムが眉をひそめ、不審そうに見つめる。


「僕だよ? 他に誰がいるんだい? もしかしてドッペルなんちゃら、とか?」


 おどけた口調とは裏腹に、警戒心は一段階引き上げられる。


 ……思った以上に勘が鋭い。

 このまま一緒にいれば、いずれ化けの皮が剥がれる。


 このまま誤魔化し続けるのは得策じゃない。

 ……なら、いっそこちらから主導権を握るか。


「エフィムくん、良かったらお茶しなぁい? 僕、お腹空いててさ〜」

「……さっき、あんなに食べてましたよね。カレー二杯、大盛りで」

「あれ〜? 僕、食べ過ぎて幻覚でも見たのかなぁ?」

「……本当にヴォルーツォさんですか? まさかとは思いますが」


 エフィムがなおも問い詰めようとした、その瞬間。

 ウィリディアスはその手をぐっと引き寄せ、そのまま自分の胸元へ抱き寄せた。

 突然のことで、エフィムは咄嗟に動けない。

 腕の中へ閉じ込められ、一瞬、息が止まったような感覚に襲われる。


「ちょっ、ヴォルーツォさん!? 人が多いところでは止め――」


 黙らないのなら、黙らせてしまおう。

 そう心の中で呟きながら、ウィリディアスは彼の唇を塞いでしまう。


 柔らかな感触と、ほんのり甘い吐息。そして、驚愕に震える小さな身体。


「君が黙らないから実力行使さ」


 人前でまさかキスされるなんて。その羞恥は容易く彼の思考力を奪う。


「ンッフフ、ご馳走様♪」


 ウィリディアスは艶やかな笑みを浮かべ、エフィムの頬をひと撫ですると、髪にキスを落とした。


「ヴォルーツォさ、ん。何するんですか、急に――」


 いつもは絶対にしない大胆な行動に、エフィムは思わず問いかけた。


「いいから黙って」


 低い声でそう囁かれ、思わず背筋に寒気が走った。

 その声には、どこか有無を言わせない圧があったからだ。


「あの、みんな見てるから、もう……」


 周囲にはいつの間にかギャラリーが集まっていることに気付き、エフィムは慌てて顔を背けた。

 すると、ふっと抱擁が解かれる。


「そうだね、場所を変えようか」

「ちょ、ちょっと、ヴォルーツォさん!?」


 ウィリディアスはその悲鳴を意にも介さず、ひょいとその小さな体を小脇に抱えると、そのまま足早にその場を立ち去る。


「――はぁ、危なかった……」


 ウィリディアスは廊下の曲がり角で立ち止まると、大きなため息をついた。


「な、なんなんですか、もう! 早く降ろしてください!」


 脇に抱えられたままバタバタと暴れるエフィムを見て、ウィリディアスは内心で胸を撫で下ろす。

 どうやら、まだ協会の連中には勘付かれていないようだ。


「ごめんごめん。そんなに嫌だったかい?」

「当たり前ですよ! いきなり人前であんなことするなんて……!」


 そのあまりにも初心な反応に、ウィリディアスは思わず顔をほころばせた。


「君たちどのくらい行ったのぉ?」

「……はい?」


 じたばたともがいていたエフィムが、ぴたりと動きを止める。


「いやぁ、キスくらいであんなに真っ赤になっちゃうなら、その先はまだなのかなぁと」

「……どういう意味ですか」

「ンッフフ、気にしないでいいよぉ? ただの確認だからさ〜」


 エフィムの視線がすっと冷える。

 ウィリディアスは涼しい顔で受け流した。


「……やっぱり、ヴォルーツォさんじゃない、あの時の――!」

「――そうだよぉ、エフィム会長くぅん? アイツと同じ顔だからって、少々不用心すぎやしないか〜い?」


 エフィムはその言葉を聞いた途端、ウィリディアスの腕を振り解き、素早く距離を取る。


「……あなた、ヴォルーツォさんの弟ですね。どうやって侵入したんですか!」


 エフィムはいつでも魔術を放てるよう半身に構え、鋭い視線でウィリディアスを睨め付けた。


「さぁてね? 会員証を偽造すれば誰でも入れるんじゃなぁい?」

「は……偽、造――!?」


 予想外の言葉に、思わず言葉を失う。

 その隙を狙ったかのように、ウィリディアスが魔術を放つ。


「……くっ!!」


 放たれたのは、ただの閃光弾。

 それでも、視界を奪うには十分だった。


「ごめんね、僕もここで捕まるわけにはいかないんだよ」


 その言葉だけを残し、ウィリディアスは空間転移を展開する。


 視界がぐわりと歪み、意識がゆっくりと遠のいていく。


「いい夢、見るんだよ。可愛い会長くん」


 6


「そっちだ! そっちへ行ったぞ!!」


 一人が叫ぶや否や、その場にいた魔術師たちが一斉に振り返る。


「――うにゃん!」


 一匹の猫が、まるでアサシンのような身のこなしで壁を駆け上がっていく。


 その時点で普通の猫とは言い難い。


 だが、それ以上に目を引くのは――その大きさだった。


「なんだ、あの猫は!? 誰か見覚えはねぇのか!?」

「は、初めて見ました!」


 小型犬どころか、中型犬ほどもある猫が、高速で廊下や壁を縦横無尽に駆け回る。

 それを複数の魔術師が必死になって追い掛ける光景は、どこか滑稽ですらあった。


「……平和だねぇ」


 ウィリディアスは食堂の売店で買ったチョコレートドーナツを片手に、その騒ぎをのんびり眺めていた。


「しっかし、デカい猫だな。あの猫、一体なんなんだ?」


 騒ぎを眺めていた青年が、ぽつりと呟く。


「ノルウェージャン……いや、メークイン……」

「それ、芋だから! メインクーンね!」


 近くにいた若い魔術師たちの会話も、ウィリディアスの耳に届く。


「どこから入ったんだろ、あの猫。誰かの使い魔?」

「ンッフフ、使い魔かぁ。どっちかと言えば、召喚獣じゃなぁい?」


 ウィリディアスがコーヒーを掲げ、にやりと笑う。

 その一言を聞いた青年たちが、一斉に振り返った。


「召喚獣!? それこそ大問題だろ!!」

「冗談だってばぁ!」

「冗談でもそんなこと言うもんじゃないっしょ!」


 口々に非難の声が飛ぶ。

 それでもウィリディアスは気にする様子もなく、楽しげにドーナツを頬張った。


「――さぁて。あの化け猫は、一体誰の所持品なんだろうね〜?」


 廊下に響く怒号。

 猫を追い掛ける魔術師たちの叫び。


 さながら祭りのような賑わいを、ウィリディアスは観客気分で眺めながら、のんびりとコーヒーを啜る。


「……ん〜、三〇点ってとこかな。猫一匹にあれだけ振り回されるようじゃ、潰す価値すらないねぇ」


 軽口を叩きながら、ドーナツを一口。


「さて、そろそろ行くとするかな」


 残っていたドーナツを平らげると、ウィリディアスはひらりと立ち上がった。


 目指すは医療棟。

 カレンデュラが所属する錬金術部門、その魔法薬の被験室だ。


「ンッフフ、ごめんねぇ。君には恨みはないんだ、カレンちゃん」


 7


 ギィと、小さな音を立てて扉が軋む。

 鍵すら掛けられていない執務室。無警戒にも思えたが、今の彼にとっては都合が良かった。


「――……エフィムくん」


 執務机に突っ伏したまま眠るエフィムを、ヴォルーツォは静かに見つめる。

 規則正しい寝息に合わせ、肩がゆっくりと上下する。

 その穏やかな姿を目にした途端、先ほどまで胸を満たしていた高揚感は、静かに薄れていった。

 代わりに込み上げてきたのは、言葉では言い表せないほどの愛おしさだった。


「やっと、二人きりになれたね」


 起こさないよう、上着を肩へそっと掛ける。

 さらさらと流れる髪の束を一掴みして口づけを落とす。

 エフィムの艶やかな髪からは、どこか甘酸っぱい香りが漂った。


「――ああ、なんだかいけないことをしている気分になる」


 その整った顔が、眠っているとなおさら愛らしく見える。


「……どうか、神さま。彼に素敵な夢を見せてください」


 祈るようにそっと目を伏せると、ラッピングされた小さな包みを取り出す。


「ふふ、渡すのは起きてからの方がいいかな」


 いたずらっ子のように微笑んで、優しい手つきで机にそっと置く。


「……うーん」


 エフィムはゆっくりと瞼を持ち上げる。

 まるで眠りから目覚めた荊姫のように、夢と現実の狭間を彷徨うような表情で辺りを見回した。


「……ヴォルーツォさん?」


 まだ眠気の残る声で、エフィムがぼんやりと問いかける。


「僕だよ、エフィムくん。起こしちゃったかい?」

「あれ……わたしなにして」


 起きたてのエフィムは、目を瞬かせる。


「随分と疲れてたみたいだね」

「あ、ごめんなさい、わたし」


 慌てて手櫛で髪を整えながら、エフィムは謝罪する。


「大丈夫だよ。君にしか務まらない仕事がたくさんあるのを知っているからね」


 そう言いながら、ヴォルーツォはジュースをエフィムへ差し出す。


「ありがとうございます。いただきます」


 缶を受け取り、エフィムは一口含む。


「ヴォルーツォさん、何かわたしに用があって来たんですよね?」

「ああ、少しね」


 不思議そうに小首を傾げるエフィムを見て、ヴォルーツォは思わず頬を緩めた。


「これを、君に」


 そう言って机の上に置かれた小さな包みを差し出す。


「えっ……わたしにですか?」

「気に入るかは分からないけどね」


 エフィムは丁寧に包装をほどいていく。

 現れたのは、小さなリングケースだった。


「……これって」


 驚きに息を呑むエフィムを見つめながら、ヴォルーツォは静かに蓋を開いた。

 中に収められていたのは、飾り気のないシンプルな指輪。


 決して高価なものではない。

 けれど、それは確かに、彼がエフィムのために選んだ一つだけの贈り物だった。


「指輪だよ」


 少し照れ臭そうに笑いながら、ヴォルーツォは続ける。


「ごめんよ。君のサイズが分からなくてね。子供用しか見つからなかったんだ」


 その言葉に、エフィムはぶんぶんと首を横に振った。


「そんなことありません……! すごく、すごく、嬉しいです……」


 宝物を抱くように、リングケースをそっと両手で包み込む。


 エンゲージリングと呼ぶには、あまりにも質素な指輪。

 けれど、その意味が分からないほど、エフィムも子供ではなかった。


「ありがとう……ございます」


 噛み締めるように呟き、潤んだ瞳でヴォルーツォを見つめる。


「着けさせてくれないかな。その指輪」


 ヴォルーツォの手が、ゆっくりと伸びる。

 拒む理由など、一つもない。


 エフィムはそっと左手を差し出した。


「……お願いします」


 ヴォルーツォは静かに頷き、その手を優しく包む。

 冷たかった指先に、彼の体温が重なる。


 薬指へ、ゆっくりと指輪が通された。


「僕と、これからも一緒にいて欲しい」


 その手を離さぬまま、愛おしむようにそっと包み込む。


「……約束してくれるかい?」


 言葉は出なかった。


 代わりにエフィムは、瞳いっぱいに涙を滲ませながら、小さく頷いた。


「ありがとうございます。不束者ですが、末永くよろしくお願いします」


 ヴォルーツォはふっと微笑み、エフィムの手を優しく引き寄せる。


「ありがとう、エフィムくん。生涯、大切にするよ」


 その言葉だけで十分だった。

 彼が選んでくれた。だからこそ、その想いに応えたい。


 これが、幸せ。


 たとえ世間からどれほど罵られようと。

 たとえこの先、どれほどの苦難が待ち受けていようと。

 この手だけは、決して離さない、と。


 8


「――ですから、結界だけでは不十分でして……」

「西棟の警備体制についてですが……」

「予算との兼ね合いもありますので……」


 次々と交わされる報告と議論。

 紙をめくる音。ペン先が走る音。誰かが資料を机へ置く軽い音。


 会議室には、いつも通りの時間が流れていた。

 けれど、その中でただ一人だけ。

 エフィムの意識は、まるで別の場所にあった。


「……指輪」


 無意識に左手へ視線が落ちる。

 薬指には、まだ少し大きめのシンプルな指輪。

 それを見つめるだけで、頬が熱を帯びていく。


「貰っちゃった」


 胸が苦しい。嬉しくて。幸せで。

 それなのに、鼓動は落ち着いてくれない。


「これって……どういう意味、なんて」


 分かっている。分かっているからこそ、信じられない。

 あの人が、自分のために選んでくれた指輪。

 自分の薬指へと、そっとはめてくれた指輪。


 思い返すだけで、耳まで熱くなる。


「……夢じゃ、ないんだよね」


 思わず指輪をそっと撫でる。確かな感触が、そこにはあった。


 嬉しかった。

 人生で、一番幸せだと思えるほどに。


 なのに。どうしてだろう。

 胸の奥に、小さな棘が刺さったまま抜けない。

 言葉にできない不安だけが、静かに心を締め付けていた。


「――……ょう、会長!!」


 鋭い声が会議室に響き、エフィムはびくりと肩を震わせた。


「は、はいっ!?」


 張り詰めた空気が、一瞬で会議室を支配する。

 幹部たちの視線が一斉にエフィムへ集まった。


「どうしたんですか。先ほどから、ずっと上の空ですよ」


 司会を務める女性幹部が、呆れ半分、不機嫌半分といった表情で見つめてくる。


「あ……えっと、その……」


 慌てて前髪を整えながら、しどろもどろに言葉を探す。


「少し寝不足で……集中力が切れてしまって」

「そうですか」


 女性幹部は小さく息を吐く。


「体調が優れないのでしたら、無理はなさらないでください。……では、議題を続けます」


 淡々と会議が再開される。

 エフィムは胸を撫で下ろし、小さく息を吐いた。


「危なかった……」


 あと少しで、指輪のことを考えていたのが顔に出るところだった。


「続いて、中央棟で発生した騒ぎについて報告します」


 スクリーンに一枚の写真が映し出される。

 そこには、大勢の魔術師に追い回される巨大な猫の姿があった。


「猫型の召喚獣が中央棟ロビーへ侵入し、一時騒ぎとなりました。現在も召喚者は不明です」

「あれが……召喚獣?」


 思わず漏れた小さな呟きに、自分でも苦笑する。


「……かわいい」


 幸い、その声は誰の耳にも届かなかった。


「召喚獣である以上、悪用される可能性も否定できません。召喚者の特定を急ぎましょう」

「そ、そうですね!」


 エフィムも頷き、ようやく会長としての表情を取り戻す。

 けれど指輪の感触だけが、静かに存在を主張し続けている。


「――それでは、本日の議題は以上です。皆様、お疲れさまでした」


 会議が終わると同時に、張り詰めていた空気がふっと緩む。


「ふぅ……やっと終わった」


 深く息を吐き、大きく伸びをする。

 会議中、ずっと心ここにあらずだった。

 会長として失格だな、と苦笑しながら席を立つ。


「……指輪、外しておかないと」


 無意識に左手へ視線を落とす。

 その瞬間だった。


「エフィム会長」


 年配の男性幹部が、薬指をじっと見つめながら歩み寄ってくる。


「その指輪は、誰から貰ったのですか? 子供が薬指に着けるようなものではないでしょう」

「い、いや……その、これは……」


 喉まで出かかった言葉を、慌てて飲み込む。

 まさか。

『ヴォルーツォさんから頂きました』などと言えるはずもなく。


「……もしかして、あのヴォルーツォですか?」


 男性幹部は露骨に顔をしかめた。


「まったく。あの男は子供にまで手を出して……」

「ち、違います!」


 思わず声が大きくなる。


「ヴォルーツォさんは、そんな人じゃありません! とても紳士的で……」


 その必死な弁護に、男性幹部はますます眉をひそめる。


「だから心配なんですよ。あんな男と関われば、君自身の評判まで落ちてしまう」


 一拍置いて、続ける。


「昼頃も、あの男が君に絡んでいたそうじゃありませんか」

「……え?」


 昼頃。

 その言葉を聞いた瞬間、頭の奥がずきりと痛んだ。


 何かあった。そんな気がする。

 けれど、その先だけが、どうしても思い出せない。

 千切れた糸を手繰り寄せるように記憶を探るが……何も掴めない。


「……エフィム会長?」


 呼び掛けられ、はっと我に返る。


「す、すみません。わたし、もう行かなくては……」


「待ちなさい。まだ話は終わっていない」


 男性幹部はなおも食い下がる。


「付き合っているという噂は本当なのですか? あの男はね……」

「お止めなさい」


 凛とした声が、二人の間へ割って入る。

 女性幹部は冷ややかな視線を男性へ向け、静かに放った。


「会長に、あまり干渉なさらないほうがいいですよ」


 一拍置いて、ため息混じりに付け加える。


「私たちの寿命が縮みますので」


 その言葉に、男性幹部はわずかに迷うような表情を見せた。

 やがて、深いため息を一つ。


「……分かりました。引き止めて申し訳ありませんでした」

「い、いえ……こちらこそ」


 ようやく解放され、エフィムは小さく息を吐く。


 それでも胸の奥には、拭い切れない蟠りが残っていた。


「……昼頃、何があったんだろう」


 ヴォルーツォが買い出しへ行くと言うので、ロビーで見送った。そこまでは覚えている。

 けれど、その先だけが思い出せない。


 まるで、その時間だけ誰かに切り取られてしまったかのように。


「……とりあえず、戻ろう」


 ふらつくような足取りでエレベーターへ乗り込む。

 静かに扉が閉まり、箱がゆっくりと上昇を始めた。


 誰もいない密室。

 その静けさの中で、エフィムはそっと左手を見つめる。薬指には、小さな指輪。


「えへへ……もらっちゃった」


 思わず零れた声に、自分でも少し照れてしまう。


 頬が緩む。胸の奥が、じんわりと温かい。

 指輪にそっと触れるたび、ヴォルーツォの優しい笑顔が浮かんだ。


 幸せだった。今まで感じたことがないくらいに。


 ……それなのに。


「――はぁ」


 長いため息が漏れる。

 あの男性幹部の言葉が、頭から離れない。


 昼頃。あの時、本当に何もなかったのだろうか。


「浮かれてばかりじゃ……ダメだよね」


 エレベーターが静かに停止し、扉が開く。

 重い足取りで会長室へ戻る。


 そこには、いつもと変わらない景色だけが広がる。

 けれどエフィムの胸の中だけは、幸せと不安が静かにせめぎ合っていた。


 9


 風は踊り、鳥は唄う

 この大地の先に、何があるの

 誰も知らない、無窮の空

 果てしない大海原


 澄み切った歌声が、街角へ静かに溶けていく。

 独特の節回しを持つその旋律に、誰も足を止めはしない。


 耳に入っていないのか。はたまた聞こえないふりをしているのか。

 時折、物珍しそうに振り返る者はいても、それだけだった。


 それでも彼女は歌う。まるで、この歌だけが自分を世界と繋ぎ止めてくれるかのように。


「……Siara'we.」


 不意に、頭上から柔らかな声が降ってきた。

 女は驚いたように顔を上げる。

 そこに立っていたのは、長い栗色の髪を揺らした一人の女性だった。


「あら、ごめんなさい。あまりにも素敵な歌声だったから、つい声を掛けちゃった」

「あの……もしかして、この言葉が分かるんですか?」


 女は思わず目を見開く。女性は穏やかに頷いた。


「ええ。もちろん」


 そう言って隣へ腰を下ろすと、譜面をそっと手に取る。

 そして何の迷いもなく、同じ旋律を口ずさみ始めた。

 女の瞳が大きく揺れる。


「もしかして……あなたも、ハムヤタカの」


 女性は小さく笑った。


「円花って呼んでちょうだい」


 名乗ると同時に、譜面を一枚めくる。

 そこに記されていたのは、バルディナに伝わる民謡だった。


「……懐かしい歌ね」


 円花は女へ視線を向け、微笑む。


「ハムヤタカの血を引く人が歌うと、不思議と響きが違うもの」

「……分かるんですか。私の血筋まで」

「ええ」


 円花は静かに頷く。


「それより、どうしてこんな場所で歌っていたの?」


 問い掛けられた女は、答えに迷うように視線を落とした。

 その瞳には、深い翳りが宿っている。


「……私には、居場所がありません」

「居場所、ね」


 円花はその顔をそっと覗き込む。

 近くで見ると、歌っていた時よりずっと寂しそうな顔をしていた。


「故郷は焼けました。ハムヤタカでも、北の部落です」

「――北、か……」


 円花は小さく呟いた。

 北方の部族が滅んだという噂は、かすかに耳にしていた。

 だが、それはもう随分と昔の話だ。


「誰も私を知りません。この国でも、故郷でも」


 言い切ると同時に、女は布に包まれた楽器を強く抱きしめた。

 細い指先が、わずかに震えている。


「親も、親族も、もういません。頼れるのは自分だけです」

「――貴女、まさか……」


 円花の視線が、彼女の腕の中へと落ちる。

 布に包まれた弦楽器。

 それが特別なものだということは分かる。だが、その正体までは読めなかった。


「……あの日、焼け落ちた王都から持ち出しました。何百年と受け継がれてきた秘儀と共に――天燐精霊器です」

「……そう。貴女が“継いだ”わけじゃないのね」


 円花は静かに言った。


「ええ。私は幼い頃に両親を失って、それからずっと流浪の身でした」


 その声は淡々としていた。

 感情を切り捨てたような平静さ。

 けれど、その奥に沈んだものの重さは隠しきれていない。


「妹がいます。この国のどこかに」


 わずかに間が空く。


「風の神マヤリカに尋ねても、彼は何も答えませんでした。あの方は全てを知っているはずなのに」


 円花は言葉を失った。

 この年齢で背負うには、あまりにも多すぎる。


「……次の継承者を探している、ということ?」

「そうです」


 即答だった。


「でもマヤリカは導いてはくれない。どこへ行っても居場所はない。この身に刻まれた呪いからも、逃れられない」

「マヤリカは、本当に何も?」

「何も。呼びかけても応えない。私には応えてくれない」


 彼女の声には、諦念だけが静かに沈んでいた。


「……帰れなくてもいいんです」


 ぽつりと落ちるように言葉が続く。


「この国に来たときには、もう誰も待っていませんでした。どのみち帰る場所なんて、最初からなかった」


 楽器を抱く腕に、少しだけ力がこもる。


「だから私は、旅を続けます」

「そう……ですか」


 円花はただ、小さく頷いた。

 それ以上の言葉は見つからなかった。


「ごめんなさい。こんな話を聞かせてしまって」

「いいえ」


 円花は首を振る。


「あなたと話せて良かった」


 女は静かに立ち上がった。

 その瞳には、沈んだままではない、確かな意志の光が宿っている。


「私はハムヤタカです。でも、魔術は使えません」


 一拍。


「これ以上、誰かを傷つけたくないから」

「大丈夫」


 円花はそっと微笑んだ。


「あなたの歌は、きっと誰かに届くわ。私はそう思う」


 そして、静かに息を吸うと、女はもう一度歌い出した。


 光よ 海よ 大空よ

 その先へ導いて

 翼なき者の願いさえも

 未来へ運べ


 10


 カーテンを引き、検査着へと着替える。

 硬い寝台に、ゆっくりと身体を横たえた。


 ――魔力増量剤。

 それはまだ試験段階の薬で、副作用も強い。

 投与後は、しばらく安静が義務づけられていた。


 天井の照明が、やけに遠い。

 視界の輪郭が、少しずつ滲んでいく。


 ……また、これか。


 薄れていく意識の底で、カレンデュラはぼんやりと瞬きをした。

 やがて、思考の隙間に一つの影が差す。


「……ママ……」


 声にならない呼気が漏れる。

 母は、魔力を持たずに生まれた人間だった。

 そして、その娘である自分もまた、極端に魔力量が少ない。


 それだけのことなのに。それだけのことのはずなのに。

 どうして。どうして、こんなにも扱いが違うのか。どうして母は、あんな言葉を浴び続けなければならなかったのか。


 胸の奥が、ゆっくりと軋む。

 怒りなのか、悲しみなのか、それすら曖昧なまま混ざり合っていく。


「……あたしたちだけ、なんで」


 思考が途切れる。

 天井の光が、にじんで、溶ける。

 意識が、静かに沈んでいく。


 そこへ、ハッハッハッ! という荒い呼気が響いた。

 すぐそばを、何かが駆け回る気配。


「……だれ」


 カレンデュラの意識は、ほとんど水底に沈んでいる。

 ぼんやりとした視界の中で、頬に何かが触れた。


 ぬるく、湿った感触。

 一拍遅れて、それが舌だと理解する。

 犬。そう認識するより先に、その気配が顔のすぐ横に入り込んでくる。


 フンフン、と荒い鼻息。

 耳元をくすぐる、落ち着きのない呼吸音。


「……うるさ、い」


 まるで眠ることすら許さないと言わんばかりに、しつこく頬を舐め続ける気配。

 カレンデュラは小さく唸ると、逃げるように寝返りを打った。


 ふわりと、何かが頬をかすめる。

 尻尾。柔らかく揺れたそれが一瞬だけ触れたのか、それすらもう曖昧だった。


 不快だったのか。

 それとも、ただの温もりだったのか。

 考える前に、意識はほどけるように沈んでいく。


 闇へ。静かに、完全に。


 11


 エフィムは執務室の窓辺に立ち、ぼんやりと街を眺めていた。


「……なんだか、嫌な天気」


 空を覆うのは、鉛のように重たい雨雲。

 風に押され、低く垂れ込めた雲が、ゆっくりと街を飲み込んでいく。


 やがて。ぽつり。屋根に、一粒の雨が落ちた。

 それを合図にしたかのように、無数の雨粒が次々と窓を叩き始める。


 静かな雨音だけが、部屋を満たした。


「――エフィムくん。居るかな」


 控えめなノック。聞き慣れた声だった。


「……ヴォルーツォさん!」


 振り返った瞬間、自然と足が動く。

 気付けば、その胸へ飛び込んでいた。


「おっと」


 ヴォルーツォは優しく受け止めると、くすりと笑ってエフィムの頭を撫でる。


「今日も可愛いね、エフィムくん」

「……もう。またそれですか」


 少しだけ唇を尖らせる。

 照れたような抗議とは裏腹に、頬はほんのり赤く染まっていた。


「それで、今日はどうしたんですか?」

「ああ……そのことなんだけどね」


 ヴォルーツォは珍しく言葉を選ぶように視線を伏せる。


 笑みは浮かべている。

 けれど、その奥には微かな迷いがあった。


「君に、どうしても知っておいてほしいことがあるんだ」


 そう言うと、ヴォルーツォはエフィムを軽々と抱き上げた。


「わっ……!」


 そのままソファへ腰を下ろし、自分の膝へそっと座らせる。


 向かい合う距離。

 互いの吐息が触れそうなほど近い。


「君に、一つ聞きたいことがあるんだ」


 ヴォルーツォは静かにエフィムを見つめる。


「……僕が、人間に見えるかい」


 その一言で、エフィムの笑顔がぴたりと止まった。


「……え?」


 人間に――見える?


 その問いの意味が理解できず、思考が白く霞む。

 ヴォルーツォは視線を逸らさない。


「ずっと話さなきゃって思ってた」


 ぽつり、と呟く。


「僕のことも。弟のことも」


 その声は、どこか懺悔にも似ていた。

 あるいは、長いあいだ胸の奥へ押し込めてきた秘密を、ようやく吐き出そうとしているようでもあった。


「僕らは人じゃない。なら何なのか、答えに困るけれど。それでも僕らは、人を真似た存在でしかない」


 ヴォルーツォは、静かに語り始めた。


「僕らはとある錬金術師の元で培養されたホムンクルス、だなんて言って君は信じるかい?」


 エフィムは思わずヴォルーツォを見つめ返す。


「僕らを作ったのは、天才錬金術師と呼ばれる男だった」

「な、んで……そんな」


 驚くほどヴォルーツォの表情は穏やかそのものだった。

 なのに、なぜだろう。その言葉は、どこか断罪を待つかのように重い。


「読み書きも、スプーンの持ち方も、魔術も、錬金術も、医術も。僕が持つ知識の全ては、あの人から教わった」


 雨脚は弱まらない。窓を叩く雨音が、ふたりの会話を覆い隠していく。


「僕らだけじゃない。ジョージ、アントニー、ダニエル、フリッツ……数え切れないほどのホムンクルスが造られた」


 ヴォルーツォの表情が曇る。


「……ウィリディアス・ルカ・グレイス」


 その名が紡がれた瞬間、エフィムの表情が凍りつく。

 世間を騒がせる、あの反魔術師――。


「一つの命を二つに分けて造られた。それが僕とウィリディアスなんだ」


「ただ」――ヴォルーツォがそっとエフィムの右手を握る。


「厳密に言えば兄弟じゃないかもね。なんせ僕ら母胎を介して産まれてきたわけじゃないから」


 エフィムの胸が、強く締め付けられる。


「ふふ……僕が怖くなった?」

「そんな、こと、ない……」


 その声には、一片の迷いもなかった。

 けれど、ヴォルーツォはどこか寂しげに微笑む。


「僕は長くないかもしれない」


 そう言って袖を捲り上げる。

 そこには、真新しい噛み跡が残されていた。


「あはは、空蝉くんに噛まれちゃってさ。昔なら笑って済ませてた傷なんだけどね」


 エフィムは絶句する。


「……傷の治りが悪くなってきてる。普段ならこんな傷跡残るはずもないのに。いつからだったかな。気がついた頃にはもう戻らなくなってた」


 ヴォルーツォはどこか懺悔のように、静かに語り続ける。


「不老不死なんて存在しないんだよ。――あの人が目指した理想郷は、虚構でしかなかった」


 エフィムの胸が、きゅっと締め付けられる。


「ねぇ、君はここまで聞かされて怖くなったかい?」


 ヴォルーツォはエフィムをそっと抱き寄せた。


「……わた、しに……」


 怖くないと言えば嘘になる。得体の知れない恐怖が、胸の奥で蠢いている。


 でも――。


「なんで、そんな話をわたしに――」


 口をついたのは純然たる疑問だった。

 慌てて手で塞ぐが、もう遅い。


「君にだけは知って欲しいんだ。君はこの先も生き続けるだろう」


 ヴォルーツォの笑みに翳りが差す。


「……それこそ、僕が死んだ後もね」


 エフィムの喉が震える。

 何か言おうとしても、声にならない。

 唇だけが震えた。

 そしてようやく、一筋の涙が零れた。


「泣かないでおくれ、エフィムくん」


 ヴォルーツォは彼の頬をそっと撫でる。


「せっかくの美しい瞳が腫れてしまうよ」


 エフィムは唇を噛み締める。

 言いたいことは山ほどあった。


「死なないで」、「そんなこと言わないで」と。

 けれど、どの言葉も喉の奥で詰まり、声にはならなかった。


 そんな彼を見つめ、ヴォルーツォは困ったように微笑む。


「……ごめんね。こんな話を聞かせてしまって」


 そっと肩を抱き寄せる。

 エフィムは一瞬だけ身体を強張らせたが、逃げようとはしなかった。

 ただ、その温もりだけは失いたくないとでもいうように、ヴォルーツォの服を小さく握りしめる。


「少しだけ、このままで居させてくれるかい」


 返事はない。

 代わりにエフィムは、静かに目を閉じた。

 ヴォルーツォはその様子を見届けると、ゆっくりとエフィムをソファへ寝かせる。

 その拍子にヴォルーツォムも一緒に身体を預ける形となり、気付けばエフィムに覆いかぶさるような姿勢になっていた。


 ――何も、考えられなかった。


 もう、これで最後になるのかもしれない。

 つい、そんな考えが頭をよぎってしまった。


 12


 目が醒めると、寝台の傍らに誰かの気配があった。

 犬の気配はなく、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 治験薬の副作用だろうか。意識はまだ靄がかかったようにぼんやりとしている。

 それでも、その人影には見覚えがあった。


「……あなた、は」


 逆光のせいで、その表情までは窺えない。

 だが、彼は何も言わず、ただカレンデュラを見下ろしていた。


 しばらく二人の間に沈黙が流れる。

 先に口を開いたのは、彼だった。


「――カレンデュラ・ララミデシア。今年で17かぁ。子供は、あっという間に大きくなるな〜」


 彼はそう呟くと、不意に顔を近付けてきた。

 赤茶色の長い髪、薄い藤色の瞳。


 あまりに唐突で意図の分からない行動に、カレンデュラは困惑する。

 しかも、目の前には彼の顔があり、視線を逸らすことさえできない。


 何をするつもりなのか。不審に思いながらも、身動き一つ取れず、そのまま受け入れるしかなかった。


 ――次の瞬間には、彼の手がカレンデュラの頭を押さえ付けていた。


「君の空っぽな身体で何が出来るんだい。魔術師になるってかい? 魔力がないのに?」


 彼が口を開くたび、生温い吐息が頬を撫でる。


 その息は、まるで心の奥底にまで入り込み、自身の弱さを抉ってくるようで寒気がした。


「ねぇ、おかしいよね。君は何者にもなれない、無力なお人形さんなんだよ。それなのに、こ〜んな命まで懸けちゃってさ」


 呪いのような言葉に、カレンデュラは耳を塞ぎたくなった。


 彼の言葉は紛れもない事実だった。だからこそ、否定できない。


「あんた、誰よ……ヴォルーツォさん、じゃない……」


 ヴォルーツォは、こんな言葉を浴びせたりしない。


 魔力の少ない自分でも、一緒に魔術師への道を探そうとしてくれた。


 それなのに、目の前の男はどうだ。

 人の心を踏みにじるような言葉を、何の躊躇もなく口にする。


 ヴォルーツォが豹変してしまったのか。

 それとも、こちらこそが本来の姿なのか。

 分からないことだらけだった。


 ただ、一つだけ確かなことがある。


「おんやぁ? 僕を誰と見間違えているんだい? 僕は君を迎えに来た死神さ。あんなトンチキ糞野郎と一緒にしないでくれないかな〜?」


 目の前の男は笑みを浮かべたまま、カレンデュラの首へと手を伸ばす。


 細い首に指が絡み、ゆっくりと力が込められていく。


 恐らくこいつも魔術師なのだろう。

 それなのに、魔術を行使する素振りは、一切見せなかった。


 きっと舐めているのだ。

 魔術を使う程の相手ではないとでも言いたいのだろう。


 ――この男の言う通りに。


「ごめんねカレンちゃん。君に恨みはないし、出来る事なら僕だってこんな汚れ仕事したくない。どうか恨むなら、僕を恨んでくれ。君という欠品が、僕の罪になる」


 そう言いながら男はカレンの首を絞め続ける。

 徐々に意識が薄れて行き、遠退きそうになる。


 ――その時、耳元で犬の遠吠えが響いた。


 心の奥底で、怒りが燃え上がる。

 仄暗い炎は瞬く間に広がり、全てを呑み込んでいく。


 カレンの身体から、淡い光が溢れ出した。

 ずっと待ち望んでいた奇跡。

 誰の力も借りず、自ら勝ち得た光。


「おお、カレンちゃん……これは、これは……」


 殺せ、殺せ――その焔だけが、心を焼き尽くしていく。


 溢れた光は渦を巻きながらカレンへと収束し、限界まで膨れ上がる。


 ――次の瞬間、轟音と共に爆ぜた。


 13


 魔術師育成協会、医療棟の一室。

 魔力増量剤の臨床試験が行われていた。


 寝台の傍らでは、白衣の男がカルテに目を落としながら、採取した血液を試薬へとかけていく。


「彼女の熱意には負けたな。早く魔術師になりたいからと、一番効き目の強い薬を望むなんて。副作用も倍近くあるというのに、まったく恐ろしい娘だ」


 試験管の中で揺れる血液を見つめながら、ルネイは苦笑した。


 その時だった。

 轟音が医療棟を揺らしたのだ。


「なっ……!?」


 反射的に机の下へ身を伏せる。

 だが、それも束の間だった。


「――カレンさん……!」


 爆発が起きたのは、彼女のために用意した個室。

 ルネイは机の下から飛び出し、吹き飛んだ扉の向こうへと駆け込んだ。


 室内は惨憺たる有様だった。

 検査用の医療機器は破壊され、床や天井には亀裂が走り、瓦礫が散乱している。


 その中心には、床へ倒れ伏すカレンの姿があった。


「大丈夫かい……!?」


 ルネイは駆け寄り、その身体を抱き起こす。

 脈はある。全身に裂傷は負っているものの、命に別状はなさそうだ。


「何が……起きた?」


 呼びかけても返事はない。

 視線を巡らせても、部屋には彼女以外、誰もいなかった。


「……まさか」


 脳裏を過ったのは、投与した魔力増量剤だった。

 彼女の魔力では、増量剤は作用しないはずだ。

 それなのに、この破壊の痕跡はどう説明すればいい。


「いや、そんな馬鹿な」


 否定しようとしても、その光景が否応なく可能性を突き付けてくる。


 ――ドクン。心臓が大きく脈打つ。

 全身を得体の知れない熱が駆け巡り、嫌な汗が噴き出した。


 瓦礫を踏む足音が、ゆっくりと近付いてくる。

 その先にいたのは、赤茶色の髪をした一人の青年だった。


 臙脂色のジャケット。ドレスシャツ。ジャボ。黒いパンツ。ロングブーツ。


 全て、見覚えがある。


「ヴォルー……」


 震える声は最後まで続かなかった。


「ンッフフ、人違いだよ♡」


 いつの間にか、喉元へ細身の剣が突き付けられていた。

 冷たい刃が皮膚に触れる。少しでも動けば、首が裂ける。歯の根が合わない。


「その子を、こっちに寄越してくれるかい?」


 殺される。その確信だけが、全身を支配した。


 動機など分からない。

 だが、この男がカレンを狙っていることだけは明らかだった。


「いや、ダメだ! 考え直してくれ! カレンさんが君に何かしたのなら、俺が謝る!」


 ルネイは気を失ったカレンを抱き寄せたまま、一歩、また一歩と後ずさる。

 男もまた、歩幅を合わせるように距離を詰めてくる。


 逃げ場はない。それでも、渡すわけにはいかなかった。


 ――その時だった。


「――光よ、我が名に応え、我が敵を射貫け」


 放たれた光は一条の矢となって、一直線にヴォルーツォへ伸びる。


 だが、ヴォルーツォはまるで最初から見えていたかのように、あっさりと身を翻した。


「カレンちゃ〜ん? 魔術のおままごとかい? ほら、早く当てないと、おじさん逃げちゃうぞぉ♡」


 そのあまりにふざけた声音に、カレンの眉がぴくりと動く。

 次の瞬間、光が増えた。

 四方から、幾筋もの矢が獲物を追うように殺到する。


 それでもヴォルーツォは避ける。

 踊るように。嘲笑うように。滑稽なほど軽やかに、すべてを躱していく。


「……うぅ」


 カレンは肩で息をしながらも、なおも攻撃を重ねる。


 決定打には届かない。それでも、確かに抵抗していた。


 魔術で、あの暴漢に。


「凄い……凄いよ、カレンさん……!」


 ルネイが思わず声を上げる。

 だがヴォルーツォは、ただ鼻で笑っただけだった。


 カレンの身体は重い。思考もまだ霞んでいる。

 それでも足は止めない。


「おいでよ、カレンちゃん。一緒に踊ろうじゃないか」


 伸ばされた手を、カレンは強く弾き飛ばす。


「――あたしは負けないッ!」


 何ができるのかなんて分からない。

 それでもいい。この中に確かにある力を、信じるしかない。


 走る。燃える。壊れてでも前へ進む。


「絶対に魔術師になってやるんだから――ッ!!」


 叫びが、空気を裂いた。


 14


 治験中の医療棟で、爆発が起きた。


 報告では、現場に魔術的な痕跡が残っていたという。

 直ちに現場へ向かい、原因を究明せよ。


 それが、今回ボフマン・アンタレスに与えられた任務だった。


 渡り廊下を早足で進みながら、ボフマンは考える。

 医療棟は、同じ組織の幹部でさえ許可なく立ち入りを制限されている。

 今回の治験に関する情報も、必要最低限の人員のみが共有されていたはずだ。


 そう、限られた者しか知り得ない情報。


「まずはエフィム会長に報告する必要がある」


 ボフマンは執務室の扉へ向かう。


 磨りガラス越しに明かりは見える。中にいるのは間違いない。


 ノックする。反応はない。もう一度、強めに叩く。それでも返事はなかった。


 妙だ、とボフマンは眉をひそめる。

 鍵は掛かっている。試しにノブを回すが、動かない。

 その時、扉の向こうから、かすかな呻き声が漏れた。


 ボフマンは即座に扉へ耳を寄せる。

 倒れている可能性があったからだ。


「……はなし、て」


 エフィムの声だった。

 妙に、甘い響きが混じっている。


 ――その瞬間、嫌な想像が頭をよぎる。


「エフィム会長! お加減が悪いのですか!?」


 この間の誘拐事件以来、協会全体が神経質になっている。


 一刻を争う可能性があった。


「エフィム会長! 大変です、魔法薬の治験中に爆発が起こりました! 緊急事態です――ッ!」


 返事はない。

 ボフマンは冷や汗を拭う間もなく、扉を蹴破った。


「――エフィ……ッ!?」


 そこにあったのは、ソファの上で組み敷かれているエフィムの姿だった。



 ending


 その後、魔術師育成協会は大きな混乱に包まれた。


 医療棟での爆発事故。治験者の負傷。

 そして――会長室で発見された異常事態。


 組織の頂点にいるエフィムと、ヴォルーツォの異常な接触。


 状況は即座に問題視された。

 責任の矛先が向いたのは、会長室に立ち入る権限を持つ外部要因――ヴォルーツォだった。


「……やっちゃった……」


 当の本人はそう呟いただけで、それ以上は何も語らない。


 一方、現場に踏み込んだボフマンは証言を求められたが、頑なに口を閉ざした。


 曰く、「見たものは事故現場であり、それ以上でも以下でもない」


 さらに彼は、扉を蹴破った直後にヴォルーツォがエフィムを庇うように動いた、とも付け加えたが――それが評価されることはなかった。


 二人揃っての謹慎処分――それは、会長エフィム自身の判断だった。


「ごめんよ、エフィムくん。本来なら僕一人の責任なのに、君まで巻き込んでしまって」


 ヴォルーツォは会長室で肩を落とす。

 だがエフィムは小さく首を振った。


「問題ないです、これは私の判断でもありますから」


 淡々とした声。

 だが視線だけが、ほんの僅かに揺れた。


「それに、少し休むべき時期だったのかもしれませんから」


 冗談のように言いながら、どこか自分に言い聞かせるようでもある。


 その背後で、ヴォルーツォは静かに笑う。


「……そう」


 距離を詰めるでもなく、離れるでもなく、その場にいるだけの距離感。


「じゃあ、その休暇は僕が退屈しないように使わせてもらおうかなぁ?」


 一瞬、エフィムの肩が小さく跳ねた。

 咳払い。


「……節度は守ってください」


 声音は平静。

 だが、その視線だけが逃げ場を探している。


「おやぁ? それって、期待しちゃっても良いってことかい!?」


 ヴォルーツォは指先でエフィムの髪を絡めるように梳きながら、そっと耳元へ唇を寄せた。


「……そういうことじゃないっての!」


 思わずデコピンが炸裂する。

 額を押さえるヴォルーツォ。

 だが、痛みよりも嬉しそうな笑顔の方が際立っていた。

一章完結となります。

どこまで過激な表現が許されるのか分からないため、かなり後半部分は端折りました。

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